・荘子の哲学は人間がどのようにしたら不自由な現実の中で、囚われることのない自由な自己をもちうるかを明らかにしたものである。
・自由とは荘子にとって、それぞれの自己として、それぞれの自己の直面する極限状況の中で、なおかつ生きてゆくことであった。
・人間はただ理由づけることのできない必然によってこの世に投げ出された自己の存在に対してだけ責任をもてばよい。
・荘子にとって人間存在は初めから孤独であり-すがるべき神をもたず、不安にさらされた絶望的な存在であった。しかし、人間はそれにもかかわらず、その孤独と不安に耐えて生きてゆかなければならない。生きてゆくことが荘子の決意のすべてであった。
・理性的であり合理的であることは何よりも望ましいことではあるが、現実の人間生活は余りにも非合理的であり反理性的でありるぎる。
・荘子の生きたのは凶暴な権力が横行し、迷妄と死と悲惨がうずまいた最も非合理的な歴史的現実であった。彼はその歴史的な現実の中で人間とは本来何であるのかを問い、価値とは何か、理に適った生き方とはいかにすることがであるのかを問うた。
・荘子はいつわりのないもの、飾りのないもの、純粋なものを熱愛する。彼は命を害うもの、真実を歪めるもの、自由を束縛するものを何よりも激しく憎む。
・たしかに人間の心ほど不可解なものはない。強いといえばこれほど強いものはなく、弱いといえばこれほど弱いものはない。温かいといえばこれほど温かいものはなく、冷たいといえばこれほど冷たいものはない。
・まことに人間の欲望は無限である。一つの欲望が充たされれば他の新しい欲望はまた、さらに新しい欲望をうむ。それはあたかも、汲めども汲めども尽きることのない魔法の泉の限りない深さを思わせる。人間とは所詮、欲望に生きる存在なのである。人間はこの限りない欲望に支えられて勤勉となり聡明となり、人類を他の動物と分かつ輝かしい文明を築きあげてきた。
・人生の第一義は限られた自己の人生の全体を、安らかに、また満ち足りたものとして生きることにある。
・人間の知は現在を未来と、あるいは過去と結びつけることを教える。しかし、人間の不安は時として未来に向けられた瞳の中から湧きあがり、悲哀は時として過去をふり返るまなざしの底からこみあげてくる。未来は人間にとってバラ色の幸福を期待させる希望であるとともに、灰色の不幸を予測させる絶頂でもある。過去もまた人間を慰めはげますとともに辱かしめ失望させる。
人間の精神において期待と絶望、慰めと失望とは同じものの表裏である。
・人生の幸福は遠い空の彼方にあるのではなくして、身近な自己自身の生活の中にある。その幸福は地に落ちている鳥の羽を拾いあげることよりも容易であるのに、今の世の人間はそれを拾いとるすべをしらない。人生の幸福とは安らかな自己を生きることの謂いではないのか。
・事象の表面に釘づけされるのではなくして鋭く本質的なるものを見ぬき、事態の局面的な面だけを見るのではなくして広く全体を見わたしてゆく叡智である。有限なるものを無限の中に位置づけ、対立するものw対立の根源に還元し、変化するものの中に変化しないものを、相対の中に絶対を観る叡智といいかえてもよい。
・物はそれを見る角度なり立場なりによって「然ルモノ」ともなり、「然ラザルモノ」ともなる。
・物それ自体に「然」と「不然」の限定があるのではなく、それを「然」と「不然」の限定があるのではなくて、それを「然」として「不然」とする人減の角度や立場に限定があるのである。
・この世界において、もし不変の真理があるとすれば、それは一切が不変でない-一切が変化するという真理だけである。
・かけがえのない自己の人生をかけがえのない自己の人生として見つめ、この自己の人生を豊かにし深め、会得し愉しんでゆくのが彼の人生態度である。
・至人は「外物によって己を易(か)えず」「人に順って己を失うことがない」
・予言や宗教の名を借りたいかがわしい迷信が社会に横行するのは、人間が実存世界の真相に対して無知だからである。
・人間の自由とは、自己に与えられた必然に自己が従ってゆくことの自由である。一つの必然として与えられた自己の生を自己が自己の生として生きてゆき、一つの必然としてあたえられる自己の死を自己が自己の死として死んでゆくことの自由である。もしくは、与えられた自己の原罪を自己の現在として、精一杯に逞しく生きてゆくことの自由である。この自己にとってただ一つ確かなことは、この自己が今ここに生きて在るということである。過去は過ぎ去ったものであってもはや現在しない。未来はまだ現在しないものであって確かなものではない。今日ここに生きて在る事故が明日もまた生きて在るという保証はどこにもなく、人生は常無きものである。人間は一瞬一瞬に断絶の深淵の上をふまえながら、その断絶を一つの連続として自己の一生を生きてゆく、絶えず死の前にたたされているのが人間の生である。
だから、至人は自己に与えられた現在を自己に与えられた現在として精一杯に生きてゆく。人生の常無きことを知るが故に自己の現在をかけがえのないものとし、自己の現在をかけがえのないものとするが故に現在を精一杯に生きる。
感想;
自由とは何でもできる自由なのではなく、その環境で何をするかの選択の自由があるのです。
しなくてもよい選択もあります。
あるものは今ここの自分です。
過去を悔い、未来を心配する時間があれば、その時間を今に使うことなのでしょう。
過去の悔いを今に生かし、未来の不安のためにいまできることをする。
精一杯生きていく。
自問することは、今自分は精一杯生きているだろうか?
失敗してもできなくても精一杯やっていればそれで十分なのでしょう。
かけがえのない人生にするために。
まずはどんな状況においても、生きていくことなのでしょう。
そしてそれ自体が価値があるのでしょう。
荘子(ウイキペディア)
・自由とは荘子にとって、それぞれの自己として、それぞれの自己の直面する極限状況の中で、なおかつ生きてゆくことであった。
・人間はただ理由づけることのできない必然によってこの世に投げ出された自己の存在に対してだけ責任をもてばよい。
・荘子にとって人間存在は初めから孤独であり-すがるべき神をもたず、不安にさらされた絶望的な存在であった。しかし、人間はそれにもかかわらず、その孤独と不安に耐えて生きてゆかなければならない。生きてゆくことが荘子の決意のすべてであった。
・理性的であり合理的であることは何よりも望ましいことではあるが、現実の人間生活は余りにも非合理的であり反理性的でありるぎる。
・荘子の生きたのは凶暴な権力が横行し、迷妄と死と悲惨がうずまいた最も非合理的な歴史的現実であった。彼はその歴史的な現実の中で人間とは本来何であるのかを問い、価値とは何か、理に適った生き方とはいかにすることがであるのかを問うた。
・荘子はいつわりのないもの、飾りのないもの、純粋なものを熱愛する。彼は命を害うもの、真実を歪めるもの、自由を束縛するものを何よりも激しく憎む。
・たしかに人間の心ほど不可解なものはない。強いといえばこれほど強いものはなく、弱いといえばこれほど弱いものはない。温かいといえばこれほど温かいものはなく、冷たいといえばこれほど冷たいものはない。
・まことに人間の欲望は無限である。一つの欲望が充たされれば他の新しい欲望はまた、さらに新しい欲望をうむ。それはあたかも、汲めども汲めども尽きることのない魔法の泉の限りない深さを思わせる。人間とは所詮、欲望に生きる存在なのである。人間はこの限りない欲望に支えられて勤勉となり聡明となり、人類を他の動物と分かつ輝かしい文明を築きあげてきた。
・人生の第一義は限られた自己の人生の全体を、安らかに、また満ち足りたものとして生きることにある。
・人間の知は現在を未来と、あるいは過去と結びつけることを教える。しかし、人間の不安は時として未来に向けられた瞳の中から湧きあがり、悲哀は時として過去をふり返るまなざしの底からこみあげてくる。未来は人間にとってバラ色の幸福を期待させる希望であるとともに、灰色の不幸を予測させる絶頂でもある。過去もまた人間を慰めはげますとともに辱かしめ失望させる。
人間の精神において期待と絶望、慰めと失望とは同じものの表裏である。
・人生の幸福は遠い空の彼方にあるのではなくして、身近な自己自身の生活の中にある。その幸福は地に落ちている鳥の羽を拾いあげることよりも容易であるのに、今の世の人間はそれを拾いとるすべをしらない。人生の幸福とは安らかな自己を生きることの謂いではないのか。
・事象の表面に釘づけされるのではなくして鋭く本質的なるものを見ぬき、事態の局面的な面だけを見るのではなくして広く全体を見わたしてゆく叡智である。有限なるものを無限の中に位置づけ、対立するものw対立の根源に還元し、変化するものの中に変化しないものを、相対の中に絶対を観る叡智といいかえてもよい。
・物はそれを見る角度なり立場なりによって「然ルモノ」ともなり、「然ラザルモノ」ともなる。
・物それ自体に「然」と「不然」の限定があるのではなく、それを「然」と「不然」の限定があるのではなくて、それを「然」として「不然」とする人減の角度や立場に限定があるのである。
・この世界において、もし不変の真理があるとすれば、それは一切が不変でない-一切が変化するという真理だけである。
・かけがえのない自己の人生をかけがえのない自己の人生として見つめ、この自己の人生を豊かにし深め、会得し愉しんでゆくのが彼の人生態度である。
・至人は「外物によって己を易(か)えず」「人に順って己を失うことがない」
・予言や宗教の名を借りたいかがわしい迷信が社会に横行するのは、人間が実存世界の真相に対して無知だからである。
・人間の自由とは、自己に与えられた必然に自己が従ってゆくことの自由である。一つの必然として与えられた自己の生を自己が自己の生として生きてゆき、一つの必然としてあたえられる自己の死を自己が自己の死として死んでゆくことの自由である。もしくは、与えられた自己の原罪を自己の現在として、精一杯に逞しく生きてゆくことの自由である。この自己にとってただ一つ確かなことは、この自己が今ここに生きて在るということである。過去は過ぎ去ったものであってもはや現在しない。未来はまだ現在しないものであって確かなものではない。今日ここに生きて在る事故が明日もまた生きて在るという保証はどこにもなく、人生は常無きものである。人間は一瞬一瞬に断絶の深淵の上をふまえながら、その断絶を一つの連続として自己の一生を生きてゆく、絶えず死の前にたたされているのが人間の生である。
だから、至人は自己に与えられた現在を自己に与えられた現在として精一杯に生きてゆく。人生の常無きことを知るが故に自己の現在をかけがえのないものとし、自己の現在をかけがえのないものとするが故に現在を精一杯に生きる。
感想;
自由とは何でもできる自由なのではなく、その環境で何をするかの選択の自由があるのです。
しなくてもよい選択もあります。
あるものは今ここの自分です。
過去を悔い、未来を心配する時間があれば、その時間を今に使うことなのでしょう。
過去の悔いを今に生かし、未来の不安のためにいまできることをする。
精一杯生きていく。
自問することは、今自分は精一杯生きているだろうか?
失敗してもできなくても精一杯やっていればそれで十分なのでしょう。
かけがえのない人生にするために。
まずはどんな状況においても、生きていくことなのでしょう。
そしてそれ自体が価値があるのでしょう。
荘子(ウイキペディア)