・生きる目的とか生きる意味とかを考えるのは、少し変な気がする。だって、生きる構造になった結果、生まれたものが生物なのだから、「生きる」より後ろにくるものはあっても、「生きる」より前にくるものはないのではないか。「生きる」ために大切なことはあっても、「生きる」より大切なことはないのではないか。つまり、生きるために生きているのが生物なのではないだろうか。
しかし、調子が悪いときは、前向きに生きられないこともある。様々な事情で自由に生きられない人もいる。そういうときには、私たちは人間である前に、生物であることを思いだすのもよいのかもしれない。生物は生きるために生きているのだから、私たちだって、ただ生きているだけで立派なものなのだ。何もできなくたって、恥じることはない。そんな生物は、たくさんいる。
・空気は圧力が低い(約760mmHg)けれど、その中に酸素が21%(約159mmHg)も含まれている。肺の中に入ると酸素は吸収されて減るが、それでも約105mmHgくらいはある。一方、肺で酸素を受け取る静脈血には、酸素は約40mmHgしか含まれていない(ちなみに酸素の多い動脈血では約100mmHg)。そのため、酸素は肺の中の空気から血液へと移動していく。つまり「酸素の圧力」は、肺の中の空気のほうが、血液よりも高いのだ。
・肺の毛細血管は、酸素や二酸化炭素が出入りできるくらいに薄いことが1つ。もう1つは、私たちが空気を吸い込もうとして肺を膨らますと、肺の内圧はさらに低くなることだ。・・・そういうわけで、肺には、高い圧力で血液を流すわけにはいかない。しかし、その一方で、高いところに位置する頭まで血液を届けるためには、高い圧力で血液を流さなくてはならない。この相反する要求に応えるために、私たちの心臓は4つの部屋に分かれている。
・左心室の筋肉は左心房よりはるかに厚いだけでなく、右心室よりも厚い。そのため、右心室が肺へ血液を送り出すときに比べて、ずっと強い力で血液を全身へ送り出せる。
・心臓が収縮しているときには、冠状動脈も押しつぶされてしまい、血液が入ることができない。そこで、心臓が緩んでいる拡張期に、血液を入れることになる。ところが、私たちが激しく運動をしているときは、心臓の拡張期が短くなり、冠状動脈に十分な血液を入れることができなくなる。運動中に狭心症を起こしやすいのはそのためである。
・キリンの迷走神経は約6mも遠回りをしている。それは進化は、前からあった構造を修正するしかない(キリンの首が短い時から)。切ってつなげるとか、分解してから組み立てるとか、そういうことは無理なのだ。
・どうしてキンギョは水中に棲んでいるし、鰓で水中の酸素を取り入れて呼吸している。ちゃんと鰓があるのに、なぜ肺を持っているのだろうか。
肺のない硬骨魚
心臓⇒鰓⇒体中の細胞⇒心臓
肺のある硬骨魚
心臓⇒鰓⇒体中の細胞⇒ ⇒心臓
⇒肺 ↑
肺から来た血液を、直接心臓に送れば、酸素をたっぷり届けられるのに。もっとも、薄められたとはいえ、肺で吸収した酸素を心臓に届けることができるのだから、最悪の状態は脱することができた。キンギョやコイが肺を持ち、空気呼吸をしていたのには、こうした意味があったと考えられる。
・じつは、魚で肺が進化した理由については、別の考えもある。それは、水中には酸素が少ないので、空気中の酸素も取り込めるほうが有利だという考えだ。
・鳥類の呼吸器には、肺の他に気嚢という透明な袋がある。気嚢は縮んだり膨らんだりして、肺に空気を送る役目を果たしている。いつも肺には、空気が一方向に流れるようになっている。一方、私たち哺乳類は、気管という同じ管を使って、空気を出したり入れたりしている。空気が逆方向に流れるので、呼吸器としてはあまり効率がよくない。鳥類はこのような呼吸器を持っているため、他の動物が生きられないような、空気の薄いところでも生きていくことができる。渡り鳥の中にはヒマラヤ山脈を越えて移動するものがいるが、空気の薄い上空を飛べるのも、このすぐれた呼吸器のおかげである。
・アンモニアは毒性が強いから困るけれど、尿素を捨てるために大量の水が必要だ。
・ニワトリは窒素を尿酸に変えて排出している。尿酸は、尿素よりも毒性が低く、尿素よりもさらに水に溶けにくい。というか、ほとんど水に溶けない。そのため捨てる窒素を尿酸にしておけば、卵の中の液体の浸透圧は高くならない。鳥は窒素を排出するのに水を少ししか使わない。
・共通祖先Aはまだ水中に棲んでいたので、窒素をアンモニアにして捨てていた。その後、共通祖先Aの子孫は2つの系統に分岐した。1つはコイに至る系統で、もう1つは私たちに至る系統だ。コイに至る系統ではアンモニアを使い続けたが、私たちに至る系統では変化が起きた。窒素をアンモニアではなく尿素にして捨てるようになったのだ。おそらく、このアンモニアから尿素への進化が起きた後で、魚類の一部が陸上へ進出したのだろう。
・生きる上で一番大切なことは食べることだ。しかし、じつは私たちは、1人では満足に食べることもできない。他の生物の助けを借りなければ、いろいろな食物を十分に消化できない。
私たちは、口から食物を入れて、消化菅で消化・吸収して、残ったものを便で出す。しかし、便の大部分は食物の残りカスではない、半分くらいは腸内細菌の死骸(生きているものもいる)で、その他のかなりの部分が消化菅の内表面から脱落した粘膜上皮細胞である。食物の残りカスは、便の半分もないのである。これだけたくさんの腸内細菌を消化菅に中に棲ませていても、私たちが生きていけるのは、腸内細菌の多くが私たちの役に立つものだからだ。ヒトと腸内細菌は共生関係にある。
・ラクターゼ活性持続症(乳糖を分解する酵素を出し続けている)は、いわゆる遺伝性疾患である。しかし、何千年か前に酪農が始まると、この遺伝性疾患に罹っている人のほうが自然淘汰で有利になったらしい。牧畜が広がっていくにつれて、ラクターゼ活性持続症の突然変異が起きた人が、生きていく上で不利ではなく、むしろ有利になったのだ。
・多くの脊椎動物(魚類、両生類、爬虫類、鳥類の多く)は、錐体細胞を4種類持っていて、4種類の色を見分けることができる。ところが多くの哺乳類は、錐体細胞を2種類しか持っていない。そのため多くの哺乳類は、あまり細かく色を見分けることができない。ヒトでいえば赤緑色覚以上の状態が、哺乳類では普通なのである。
・私たちの眼は、4色型色覚から2色型色覚に減って、それから3色型色覚に増えたのだ。
・また、色覚だけでなく眼の数も、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしている。私たちの祖先の脊椎動物は眼を3つ持っていた。頭の横に2つ、頭の上に1つだ。水中に棲んでいた私たち祖先は、頭の上の眼で、上方を泳いでいた敵や獲物を見ていたのかもしれない。現在でもヤツメウナギやカナヘビは、頭の上に第三の眼を持っている。
・人類は体を直立させるために、いつも椎間板に強い圧力がかかっている。年を取ったりすると、椎間板の中のゲル状の物質が押し出されてしまうことがある。そうすると、椎間板ヘルニアの呼ばれる症状が出て、場合によっては脊髄を圧迫して激痛が生じる。こういう脊椎の不具合は、腰でもっとも起きやすい。
・サルの仲間は四手類だが、その中から二手類に進化したのが人類だ。
・⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ 人
↓ ↓ ↓ ↓
オラウータン ゴリラ チンパンジー ボノボ
・人類最古の足跡は、タンザニアのラエトリで発見されたものである。足跡しか残っていないので、どんな種のものか確実にはわからない。
・私たちヒトは、哺乳類の中でもっと難産な種なので、骨盤にもそれなりの工夫が必要なのだ。
私たちが難産である原因は2つある。
1つは直立歩行だ。ヒトの胎児は産まれるときに、体をS字に曲げなければならない。これが、難産の原因になっている。
難産の原因の2つ目は、胎児の頭の大きさだ。私たちは大きな脳を持っているため、産道を通るのが大変なのだ。
・イギリスのウェールズでは、1980年から毎年、ヒトとウマのマラソン大会が開催されている。全長35kmのコースを、何百人もの人と何十頭のウマが走って、優勝を競うわけだ。25年目の2004年に、初めてヒトが優勝したのである。ヒュー・ロブという人間が2時間5分19秒で、馬に2分以上の差をつけて、ゴールに飛び込んだのだ。
もっとも、ヒトは普通に1人で走るのに、ウマはヒトを乗せて走るのだから、少し不利である。
・ヒトは「追いかける」ことは得意
・イギリスの研究者
1) 行動が変化すれば、そのような行動をうまくできる遺伝子が有利になって増えていく。つまり、どういう行動をするかによって、進化の方向が変わってくる。
2) したがって変化とは、ダーウィンの言うような「すでに変異があって、生存闘争の結果、有利に変異が残るという好戦的で受け身なものではなく、「行動によって、進化の方向がきまる」とい平和で主体的なものである。
・「天寿を全うせずに死ぬ個体がいない生物」はいない。そういう生物は全滅するか、無限に増えるかのどちらかだからだ。
・一夫一妻制は絶対でない
でも、「一夫多妻が本来の姿なのだ」と結論するのは正しくない。オスとメスがいる生物は、自然淘汰の結果、すべて一夫多妻になるはずである。でも、実際にはそうなっていない。
チンパンジーは多夫多妻的な群れをつくる。群れの中には複数のオスと複数のメスがいて、乱婚の社会をつくる。そのため、メスをめぐってオス同士で争いが起きる、このとき使われるのが、牙だ。この牙で相手を殺してしまうことも珍しくない。ところが人類には牙がない。だから、テレビのドラマを見ていると、犯人が人を殺すのにかなり苦労している。
では、どうして人類には牙がなくなったのだろう。もしも牙を使わないなら、犬歯を小さくしたほうがエネルギーの節約になる。したがって人類は、あまり牙を使わなくなったと考えられる。おそらく、あまりメスをめぐって争うことがなかったのだろう。人類はチンパンジーより平和的な生物なのだ。
ペアになったメスが産んだ子は、ほぼ自分の子供と考えてよいだろう。したがって、直立二足歩行によって食物を運んで生存率を高くした子は、たいてい自分の子供だ。したがって、自分の遺伝子を受け継いだ自分の子供が、生き残りやすくなる、したがって、直立二足歩行する個体が増えていく。つまり、直立二足歩行が進化することになる。
・ヒトの赤ちゃんは一番世話が焼ける。
・チンパンジーの出産間隔は5~7年。チンパンジーの授乳期間は4~5年と長く、その間、子育てするのは母親だけである。子供が乳離れするまで、次の子供をつくらない。
ヒトは類人猿と違って、出産してから数か月すれば、また妊娠できる状態になるのだ、
そこでヒトは共同で子育てをする、父親はもちろん、祖父母やその他の親族が子育てに協力する子もよくあるし、血縁関係にない個体が協力することも珍しくない、保育園のような活動は新しいものではなく、人類が大昔からやってきた当たり前のことなのだ。
これに関連して「おばあさん仮説」というものがある。多くの霊長類のメスは、死ぬまで閉経しないで子供を産み続ける。しかしヒトだけは、閉経して子どもが産めなくなってからも、長く生き続ける、これは、人が共同で子育てしてきたために、進化した軽質だというのである。母親だけでは子供の世話ができないので、祖母が子育てを手伝うことにより、子どもの生存率が高くなった。その結果、女性が閉経後も長く生きることが進化したというわけだ。なにしろヒトの赤ちゃんは、動物の中でもっとも無力で世話が焼けるのだ。
動物において一夫一妻が進化するのは、子供の世話が大変で、母親だけでは面倒が見られないときが多い。
それでも、やっぱりヒトは一夫一妻に向いていない、という意見がある。人はかなり頻繁に浮気をするので、生物学上の父親でない父親が結構いるというのである。その割合は、だいたい1~4%ぐらいである。
・生物が誕生し、そして生き続けるためには、自然淘汰が必要なのだ。死ななくては、自然淘汰が働ない。そして、自然淘汰が働かなければ、生物は生まれない。つまり、死ななければ、生物は生まれなかったのだ。
・「世界をあるがままに見たうえで、それを愛するには勇気がいる」。フランスの文学者、ロマン・ロランが言ったことは、ヒトの進化を考えるときにも当てはまるようである。
感想;
「行動が変化すれば、そのような行動をうまくできる遺伝子が有利になって増えていく」
どう進化させるかは、行動が決めるのでしょう。
「進化は、前からあった構造を修正するしかない」
進化は今あるものを変えていくものでまったく新しく作るものではないとのこと。
「生きるために生きているのが生物なのではないだろうか」
生きていればOKだということなのでしょう。
しかし、調子が悪いときは、前向きに生きられないこともある。様々な事情で自由に生きられない人もいる。そういうときには、私たちは人間である前に、生物であることを思いだすのもよいのかもしれない。生物は生きるために生きているのだから、私たちだって、ただ生きているだけで立派なものなのだ。何もできなくたって、恥じることはない。そんな生物は、たくさんいる。
・空気は圧力が低い(約760mmHg)けれど、その中に酸素が21%(約159mmHg)も含まれている。肺の中に入ると酸素は吸収されて減るが、それでも約105mmHgくらいはある。一方、肺で酸素を受け取る静脈血には、酸素は約40mmHgしか含まれていない(ちなみに酸素の多い動脈血では約100mmHg)。そのため、酸素は肺の中の空気から血液へと移動していく。つまり「酸素の圧力」は、肺の中の空気のほうが、血液よりも高いのだ。
・肺の毛細血管は、酸素や二酸化炭素が出入りできるくらいに薄いことが1つ。もう1つは、私たちが空気を吸い込もうとして肺を膨らますと、肺の内圧はさらに低くなることだ。・・・そういうわけで、肺には、高い圧力で血液を流すわけにはいかない。しかし、その一方で、高いところに位置する頭まで血液を届けるためには、高い圧力で血液を流さなくてはならない。この相反する要求に応えるために、私たちの心臓は4つの部屋に分かれている。
・左心室の筋肉は左心房よりはるかに厚いだけでなく、右心室よりも厚い。そのため、右心室が肺へ血液を送り出すときに比べて、ずっと強い力で血液を全身へ送り出せる。
・心臓が収縮しているときには、冠状動脈も押しつぶされてしまい、血液が入ることができない。そこで、心臓が緩んでいる拡張期に、血液を入れることになる。ところが、私たちが激しく運動をしているときは、心臓の拡張期が短くなり、冠状動脈に十分な血液を入れることができなくなる。運動中に狭心症を起こしやすいのはそのためである。
・キリンの迷走神経は約6mも遠回りをしている。それは進化は、前からあった構造を修正するしかない(キリンの首が短い時から)。切ってつなげるとか、分解してから組み立てるとか、そういうことは無理なのだ。
・どうしてキンギョは水中に棲んでいるし、鰓で水中の酸素を取り入れて呼吸している。ちゃんと鰓があるのに、なぜ肺を持っているのだろうか。
肺のない硬骨魚
心臓⇒鰓⇒体中の細胞⇒心臓
肺のある硬骨魚
心臓⇒鰓⇒体中の細胞⇒ ⇒心臓
⇒肺 ↑
肺から来た血液を、直接心臓に送れば、酸素をたっぷり届けられるのに。もっとも、薄められたとはいえ、肺で吸収した酸素を心臓に届けることができるのだから、最悪の状態は脱することができた。キンギョやコイが肺を持ち、空気呼吸をしていたのには、こうした意味があったと考えられる。
・じつは、魚で肺が進化した理由については、別の考えもある。それは、水中には酸素が少ないので、空気中の酸素も取り込めるほうが有利だという考えだ。
・鳥類の呼吸器には、肺の他に気嚢という透明な袋がある。気嚢は縮んだり膨らんだりして、肺に空気を送る役目を果たしている。いつも肺には、空気が一方向に流れるようになっている。一方、私たち哺乳類は、気管という同じ管を使って、空気を出したり入れたりしている。空気が逆方向に流れるので、呼吸器としてはあまり効率がよくない。鳥類はこのような呼吸器を持っているため、他の動物が生きられないような、空気の薄いところでも生きていくことができる。渡り鳥の中にはヒマラヤ山脈を越えて移動するものがいるが、空気の薄い上空を飛べるのも、このすぐれた呼吸器のおかげである。
・アンモニアは毒性が強いから困るけれど、尿素を捨てるために大量の水が必要だ。
・ニワトリは窒素を尿酸に変えて排出している。尿酸は、尿素よりも毒性が低く、尿素よりもさらに水に溶けにくい。というか、ほとんど水に溶けない。そのため捨てる窒素を尿酸にしておけば、卵の中の液体の浸透圧は高くならない。鳥は窒素を排出するのに水を少ししか使わない。
・共通祖先Aはまだ水中に棲んでいたので、窒素をアンモニアにして捨てていた。その後、共通祖先Aの子孫は2つの系統に分岐した。1つはコイに至る系統で、もう1つは私たちに至る系統だ。コイに至る系統ではアンモニアを使い続けたが、私たちに至る系統では変化が起きた。窒素をアンモニアではなく尿素にして捨てるようになったのだ。おそらく、このアンモニアから尿素への進化が起きた後で、魚類の一部が陸上へ進出したのだろう。
・生きる上で一番大切なことは食べることだ。しかし、じつは私たちは、1人では満足に食べることもできない。他の生物の助けを借りなければ、いろいろな食物を十分に消化できない。
私たちは、口から食物を入れて、消化菅で消化・吸収して、残ったものを便で出す。しかし、便の大部分は食物の残りカスではない、半分くらいは腸内細菌の死骸(生きているものもいる)で、その他のかなりの部分が消化菅の内表面から脱落した粘膜上皮細胞である。食物の残りカスは、便の半分もないのである。これだけたくさんの腸内細菌を消化菅に中に棲ませていても、私たちが生きていけるのは、腸内細菌の多くが私たちの役に立つものだからだ。ヒトと腸内細菌は共生関係にある。
・ラクターゼ活性持続症(乳糖を分解する酵素を出し続けている)は、いわゆる遺伝性疾患である。しかし、何千年か前に酪農が始まると、この遺伝性疾患に罹っている人のほうが自然淘汰で有利になったらしい。牧畜が広がっていくにつれて、ラクターゼ活性持続症の突然変異が起きた人が、生きていく上で不利ではなく、むしろ有利になったのだ。
・多くの脊椎動物(魚類、両生類、爬虫類、鳥類の多く)は、錐体細胞を4種類持っていて、4種類の色を見分けることができる。ところが多くの哺乳類は、錐体細胞を2種類しか持っていない。そのため多くの哺乳類は、あまり細かく色を見分けることができない。ヒトでいえば赤緑色覚以上の状態が、哺乳類では普通なのである。
・私たちの眼は、4色型色覚から2色型色覚に減って、それから3色型色覚に増えたのだ。
・また、色覚だけでなく眼の数も、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしている。私たちの祖先の脊椎動物は眼を3つ持っていた。頭の横に2つ、頭の上に1つだ。水中に棲んでいた私たち祖先は、頭の上の眼で、上方を泳いでいた敵や獲物を見ていたのかもしれない。現在でもヤツメウナギやカナヘビは、頭の上に第三の眼を持っている。
・人類は体を直立させるために、いつも椎間板に強い圧力がかかっている。年を取ったりすると、椎間板の中のゲル状の物質が押し出されてしまうことがある。そうすると、椎間板ヘルニアの呼ばれる症状が出て、場合によっては脊髄を圧迫して激痛が生じる。こういう脊椎の不具合は、腰でもっとも起きやすい。
・サルの仲間は四手類だが、その中から二手類に進化したのが人類だ。
・⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ 人
↓ ↓ ↓ ↓
オラウータン ゴリラ チンパンジー ボノボ
・人類最古の足跡は、タンザニアのラエトリで発見されたものである。足跡しか残っていないので、どんな種のものか確実にはわからない。
・私たちヒトは、哺乳類の中でもっと難産な種なので、骨盤にもそれなりの工夫が必要なのだ。
私たちが難産である原因は2つある。
1つは直立歩行だ。ヒトの胎児は産まれるときに、体をS字に曲げなければならない。これが、難産の原因になっている。
難産の原因の2つ目は、胎児の頭の大きさだ。私たちは大きな脳を持っているため、産道を通るのが大変なのだ。
・イギリスのウェールズでは、1980年から毎年、ヒトとウマのマラソン大会が開催されている。全長35kmのコースを、何百人もの人と何十頭のウマが走って、優勝を競うわけだ。25年目の2004年に、初めてヒトが優勝したのである。ヒュー・ロブという人間が2時間5分19秒で、馬に2分以上の差をつけて、ゴールに飛び込んだのだ。
もっとも、ヒトは普通に1人で走るのに、ウマはヒトを乗せて走るのだから、少し不利である。
・ヒトは「追いかける」ことは得意
・イギリスの研究者
1) 行動が変化すれば、そのような行動をうまくできる遺伝子が有利になって増えていく。つまり、どういう行動をするかによって、進化の方向が変わってくる。
2) したがって変化とは、ダーウィンの言うような「すでに変異があって、生存闘争の結果、有利に変異が残るという好戦的で受け身なものではなく、「行動によって、進化の方向がきまる」とい平和で主体的なものである。
・「天寿を全うせずに死ぬ個体がいない生物」はいない。そういう生物は全滅するか、無限に増えるかのどちらかだからだ。
・一夫一妻制は絶対でない
でも、「一夫多妻が本来の姿なのだ」と結論するのは正しくない。オスとメスがいる生物は、自然淘汰の結果、すべて一夫多妻になるはずである。でも、実際にはそうなっていない。
チンパンジーは多夫多妻的な群れをつくる。群れの中には複数のオスと複数のメスがいて、乱婚の社会をつくる。そのため、メスをめぐってオス同士で争いが起きる、このとき使われるのが、牙だ。この牙で相手を殺してしまうことも珍しくない。ところが人類には牙がない。だから、テレビのドラマを見ていると、犯人が人を殺すのにかなり苦労している。
では、どうして人類には牙がなくなったのだろう。もしも牙を使わないなら、犬歯を小さくしたほうがエネルギーの節約になる。したがって人類は、あまり牙を使わなくなったと考えられる。おそらく、あまりメスをめぐって争うことがなかったのだろう。人類はチンパンジーより平和的な生物なのだ。
ペアになったメスが産んだ子は、ほぼ自分の子供と考えてよいだろう。したがって、直立二足歩行によって食物を運んで生存率を高くした子は、たいてい自分の子供だ。したがって、自分の遺伝子を受け継いだ自分の子供が、生き残りやすくなる、したがって、直立二足歩行する個体が増えていく。つまり、直立二足歩行が進化することになる。
・ヒトの赤ちゃんは一番世話が焼ける。
・チンパンジーの出産間隔は5~7年。チンパンジーの授乳期間は4~5年と長く、その間、子育てするのは母親だけである。子供が乳離れするまで、次の子供をつくらない。
ヒトは類人猿と違って、出産してから数か月すれば、また妊娠できる状態になるのだ、
そこでヒトは共同で子育てをする、父親はもちろん、祖父母やその他の親族が子育てに協力する子もよくあるし、血縁関係にない個体が協力することも珍しくない、保育園のような活動は新しいものではなく、人類が大昔からやってきた当たり前のことなのだ。
これに関連して「おばあさん仮説」というものがある。多くの霊長類のメスは、死ぬまで閉経しないで子供を産み続ける。しかしヒトだけは、閉経して子どもが産めなくなってからも、長く生き続ける、これは、人が共同で子育てしてきたために、進化した軽質だというのである。母親だけでは子供の世話ができないので、祖母が子育てを手伝うことにより、子どもの生存率が高くなった。その結果、女性が閉経後も長く生きることが進化したというわけだ。なにしろヒトの赤ちゃんは、動物の中でもっとも無力で世話が焼けるのだ。
動物において一夫一妻が進化するのは、子供の世話が大変で、母親だけでは面倒が見られないときが多い。
それでも、やっぱりヒトは一夫一妻に向いていない、という意見がある。人はかなり頻繁に浮気をするので、生物学上の父親でない父親が結構いるというのである。その割合は、だいたい1~4%ぐらいである。
・生物が誕生し、そして生き続けるためには、自然淘汰が必要なのだ。死ななくては、自然淘汰が働ない。そして、自然淘汰が働かなければ、生物は生まれない。つまり、死ななければ、生物は生まれなかったのだ。
・「世界をあるがままに見たうえで、それを愛するには勇気がいる」。フランスの文学者、ロマン・ロランが言ったことは、ヒトの進化を考えるときにも当てはまるようである。
感想;
「行動が変化すれば、そのような行動をうまくできる遺伝子が有利になって増えていく」
どう進化させるかは、行動が決めるのでしょう。
「進化は、前からあった構造を修正するしかない」
進化は今あるものを変えていくものでまったく新しく作るものではないとのこと。
「生きるために生きているのが生物なのではないだろうか」
生きていればOKだということなのでしょう。