nanaponさんやssayさんのところで、既に深く語られていて、私が語ることは残されていません(笑)。
私自身、昨年、電王戦に関する思いを書きましたが、その時の考えとほとんど変わっていません。しかし、当時の思いや皆さんの考えを基に考えを発展させようかとも考えましたが、そこまでの棋力も考察力もありません。書かないのが最善手のような気もしますが、取りあえず書いてみます。
①最高峰の将棋じゃなくなるということ
大問題のような気がするが、そうじゃないかもしれない。
「そうじゃないかも」と思う理由は……たとえば、高校野球は当然プロ野球と比べてレベルは低いが、それにもまして面白い。日本の女子バスケットのWリーグはNBAに匹敵するほど面白い。小学生将棋名人戦には感動する……などなど、勝負の面白さとレベルとが単純に比例関係ではないからである。
しかし、最高峰を争う「森内×羽生」戦の将棋がコンピュータに、「27手目の羽生三冠の▲2四飛は3番目の評価値の指し手」とか「50手目の森内名人の△4五銀は最善手の87%の価値があります」「51手目の▲同桂は…」……と次々と解析・批評されてしまうとなると、がっかり感は拭えない。
また、過去の名局や名手が、実はたいしたことはなかったと判明してしまうことも考えられる。
もちろん、悪手やミスが感動を呼ぶこともあり、一概に勝負の面白みを減じるものとは言い切れないが、1局に何か所もミスがあると指摘されると、やはりがっかり感が生じる。
あと、「機械(自動車など)は遥かに人間より早いが、100m走の面白さや価値を損なう要素にはなっていない」という主張もあるが、スポーツは極限の肉体が極限の訓練によって競うもので、それが通常の者にとっては再現不可能であり、勝負云々の他に、その超人的な肉体の躍動だけで感動できる。
しかし、「コンピュータの計算」と「人間の思考」は“似て非なるもの”であるが、“非で似ているもの”でもあり、指し手の再現(表現)は同列にすることができる。「電王戦」のように、将棋は「人間対コンピュータ」の勝負が成立してしまうので、短距離走における「人間対機械」の割り切り方はできない。
観戦という観点からは、どうなのだろうか。ネットの解説などをシャットアウトすれば関係ないという考えもあるが、私の場合は、自力でプロの将棋を味わえるほどの棋力はないので、どうしても解説に頼らなければならない。もちろん、解説に頼らず、自力で観戦するというのも面白いかもしれないと思うが、やはり、どちらが有利かなどの指標がないと、圧勝なのか逆転勝ちだったのかも分からない。
また、リアルタイムの中継解説ではなく、『将棋世界』などの対局者の読みや局後の検討を含めた解説は、その将棋の真相を知る上で非常にありがたいが、もし、その解説・解析が将棋ソフトが負うようになり、上記(「27手目の羽生三冠の▲2四飛は………)のように、アレコレ将棋のアラを明かされてしまうのは興醒めになる気がする。
②将棋ソフトとの係わり方・その1
棋士より強いコンピュータソフトの存在によって、棋士の存在価値はゼロにはならないだろう。減少するとは考えているが、それがどれくらいになるかは、ソフトの強さにもよるし、棋士のソフトへの接し方(扱い方)にもよるだろう。
前項でソフトの進化は棋譜の価値(感動)を薄める可能性を言及したが、ソフトは棋譜の分析の精度を高める重要な手段になる。
しかし、棋士のパートナーとして研究や対策に使用するのはどうだろうか?
純粋に練習相手として実力を磨くというのなら納得できるが、将棋ソフトが推奨した手(手順)を実戦で拝借するとしたら、それはその棋士の実力と言えるのだろうか?(「棋士同士が研究会を行い成果を上げる(勝ち星を上げる)のはどうなのか?」という疑問も生じるが、それは今回、棚に上げておきます)
さらに、将棋ソフトによって将棋の解析が進み、この戦型は先手有利などと結論付けられ、将棋そのものがどんどん解明されていったら、棋士が指す将棋の幅がどんどん狭められていくことにはならないのだろうか?
(1回で書き上げたかったのですが、無理でした。細切れ(3回の予定)になりますがご容赦ください)
私自身、昨年、電王戦に関する思いを書きましたが、その時の考えとほとんど変わっていません。しかし、当時の思いや皆さんの考えを基に考えを発展させようかとも考えましたが、そこまでの棋力も考察力もありません。書かないのが最善手のような気もしますが、取りあえず書いてみます。
①最高峰の将棋じゃなくなるということ
大問題のような気がするが、そうじゃないかもしれない。
「そうじゃないかも」と思う理由は……たとえば、高校野球は当然プロ野球と比べてレベルは低いが、それにもまして面白い。日本の女子バスケットのWリーグはNBAに匹敵するほど面白い。小学生将棋名人戦には感動する……などなど、勝負の面白さとレベルとが単純に比例関係ではないからである。
しかし、最高峰を争う「森内×羽生」戦の将棋がコンピュータに、「27手目の羽生三冠の▲2四飛は3番目の評価値の指し手」とか「50手目の森内名人の△4五銀は最善手の87%の価値があります」「51手目の▲同桂は…」……と次々と解析・批評されてしまうとなると、がっかり感は拭えない。
また、過去の名局や名手が、実はたいしたことはなかったと判明してしまうことも考えられる。
もちろん、悪手やミスが感動を呼ぶこともあり、一概に勝負の面白みを減じるものとは言い切れないが、1局に何か所もミスがあると指摘されると、やはりがっかり感が生じる。
あと、「機械(自動車など)は遥かに人間より早いが、100m走の面白さや価値を損なう要素にはなっていない」という主張もあるが、スポーツは極限の肉体が極限の訓練によって競うもので、それが通常の者にとっては再現不可能であり、勝負云々の他に、その超人的な肉体の躍動だけで感動できる。
しかし、「コンピュータの計算」と「人間の思考」は“似て非なるもの”であるが、“非で似ているもの”でもあり、指し手の再現(表現)は同列にすることができる。「電王戦」のように、将棋は「人間対コンピュータ」の勝負が成立してしまうので、短距離走における「人間対機械」の割り切り方はできない。
観戦という観点からは、どうなのだろうか。ネットの解説などをシャットアウトすれば関係ないという考えもあるが、私の場合は、自力でプロの将棋を味わえるほどの棋力はないので、どうしても解説に頼らなければならない。もちろん、解説に頼らず、自力で観戦するというのも面白いかもしれないと思うが、やはり、どちらが有利かなどの指標がないと、圧勝なのか逆転勝ちだったのかも分からない。
また、リアルタイムの中継解説ではなく、『将棋世界』などの対局者の読みや局後の検討を含めた解説は、その将棋の真相を知る上で非常にありがたいが、もし、その解説・解析が将棋ソフトが負うようになり、上記(「27手目の羽生三冠の▲2四飛は………)のように、アレコレ将棋のアラを明かされてしまうのは興醒めになる気がする。
②将棋ソフトとの係わり方・その1
棋士より強いコンピュータソフトの存在によって、棋士の存在価値はゼロにはならないだろう。減少するとは考えているが、それがどれくらいになるかは、ソフトの強さにもよるし、棋士のソフトへの接し方(扱い方)にもよるだろう。
前項でソフトの進化は棋譜の価値(感動)を薄める可能性を言及したが、ソフトは棋譜の分析の精度を高める重要な手段になる。
しかし、棋士のパートナーとして研究や対策に使用するのはどうだろうか?
純粋に練習相手として実力を磨くというのなら納得できるが、将棋ソフトが推奨した手(手順)を実戦で拝借するとしたら、それはその棋士の実力と言えるのだろうか?(「棋士同士が研究会を行い成果を上げる(勝ち星を上げる)のはどうなのか?」という疑問も生じるが、それは今回、棚に上げておきます)
さらに、将棋ソフトによって将棋の解析が進み、この戦型は先手有利などと結論付けられ、将棋そのものがどんどん解明されていったら、棋士が指す将棋の幅がどんどん狭められていくことにはならないのだろうか?
(1回で書き上げたかったのですが、無理でした。細切れ(3回の予定)になりますがご容赦ください)
「吉野瀬川の桜 2014(4月8日撮影)」の3日後(11日)撮影です。(≪どれだけ11日に、仕事をさぼったんだ?≫と、自分で突っ込みを入れておきます)場所は、この時より1kmほど上流です。
若干、満開を過ぎていて、撮影ポイントも最善手ではありません。
この吉野瀬川は、両岸およそ6km桜並木が続いています。
この写真は、さらに上流です。左部分は途切れているように見えますが、この森の向こうに川が流れていて、桜が咲いています。
来年は、「この上流部から前回記事の辺りまで歩いてみたい」というのが、来年の願望です。ただ、桜の時期は何かと忙しいので、「願望」という表現になりました。
若干、満開を過ぎていて、撮影ポイントも最善手ではありません。
この吉野瀬川は、両岸およそ6km桜並木が続いています。
この写真は、さらに上流です。左部分は途切れているように見えますが、この森の向こうに川が流れていて、桜が咲いています。
来年は、「この上流部から前回記事の辺りまで歩いてみたい」というのが、来年の願望です。ただ、桜の時期は何かと忙しいので、「願望」という表現になりました。