エルソル飛脚ブログ ~Run 4 Fun~

四万十川周辺をチョロチョロしている飛脚の記録です。

エルソル大阪物語■38■「照ちゃんラーメン」

2018年01月23日 | エルソル大阪物語

■38■

「一週間もてば一ヶ月もつ」
「一ヶ月もてば三ヶ月もつ・・」
「半年・一年・三年・・」
と辞めたくなるようなヤマがあるというので、
その区切り区切りには特に気を付けました。

時代は「昭和」から【平成】になりました。

入店して3ヶ月を迎えました。
「やる気」は衰えることなく、
パーマウィッグで一日何回もロッドを巻いていました。

隣の「照ちゃんラーメン」の大将にパーマモデルを頼みました。
「朝5時に仕事が終わるので、それからだったら構わない」とのことで、
月一回は始発電車に乗りました。

朝一番の駅は、まだ夜のように暗くて辺りは鳩だらけでした。
驚いた事に朝5時すぎの始発電車にも人がそこそこ乗っていました。
「みんな朝早くから頑張ってるんだなぁ~」
何だかうれしく、励まされました。

『照(てる)ちゃんラーメン』の大将は40代前半細身のショーケン似で、
高校生の息子と保育園の娘がいる広島出身の穏やかな人でした。
頭はグリグリのニグロパーマで、120本ものロッドを使わなければなりません。
朝6時から巻き始めても時間がかかり、
マスターがやって来る8時すぎでも、CUTに入ったばかりの状態で大変でした。

それからの毎日のレッスンはひたすら時間短縮に努めました。
やる気に満ちた僕はどんどん早くなります。

半年もすると大将のパーマも1時間半ですべてが終わるようになり、
その後、ターニングがOPENするまでの間、
大将と一緒に木津市場の買出しについて行く余裕も出来ました。

また、この頃になるとお店に後輩もできてCUT練習に入りました。

毎日のレッスンの他にも
月一回河内長野の老人ホームで行われるCUT講習に行きました。
いろいろなお店から若者が集まり、老人ホームのお年寄り達に練習台になってもらいます。

各店のマスター2人が持ち回りで指導してくれました。
1日で男女問わず5人位刈る事が出来ました。

ある時、一人の先生から声をかけられました。
空手の『カットサロン三四』に勤めていた『小柄でロン毛の職人さん』でした。
独立してお店を出しているのだそうです。
『長崎の先輩』の事を聞いてみましたが、僕が辞めて少しして辞めたそうです。

講習での頑張りが認められ、お店でも少しずつ学生などを刈らせて貰うようになりました。

ターニンの久里マスターは
心斎橋の『モモタロー』で修行したそうです。
当時の「モモタロー」は心斎橋を一世風靡していて、
そこのオーナーの息子は何と、ハリウッド映画特殊メイク第一人者、
『スクリーミング・マッド・ジョージ』でした。
高校生当時から変わり者だったらしいです。

ターニンの左隣には『清村写真スタジオ』がありました。

オーナーの『清村国男』さんは、
40代で背が高く、口ひげを生やしていて、ポルシェを乗り回すカッコいい人でした。

それもそのはず、
モデルを撮らしたら『東の立木(義浩)か、西の清村か』と云われる
関西を代表するカメラマンでした。

毎日のように外人や日本人のスタイル抜群のモデルが
挑発的な格好で店の前を横切るので、マスターと共に目で犯してやりました。

『清村さん』は、
撮影中は怒鳴り散らして非常に恐かったのですが、
普段はとても気さくで、たまにレッスン中の僕達を呼び出して
スタジオ内でコーヒーなどご馳走になりました。

清村「自分ら、分からんと思うけど」
  「修行って素晴らしいねんで」
  「地べたに這いつくばって、どんどんふまれて・・」
  「お金では買えない大事な部分や」

清村さんの話は世間話から仕事の話まで説得力がありました。

清村さんの持論は『たくさん遊ばないとイイ仕事は出来ない』でしたが、
よく逆の事も言っていました。

清村「上田君は何の為に仕事してるの?ハ?食べる為?」
  「・・オッサンみたいやな」
  「僕はね、遊ぶ為や!!いっぱい遊びたいから仕事頑張るんや・・」
  「海行ってサーフィンしてみ?楽しいで~」
  「バイクで山行ってみ?気持ちいいで~」
  「この【楽しい】【気持ちいい】が大事なんやで!」

ターニングの右隣には『照(てる)ちゃんラーメン』がありました。
大将と奥さんとパートの二人のおばあさんが働いていました。
二人のおばあさんが超スローで運んでくるラーメンは
大阪名物『親指のダシ入りラーメン』でした。

大将は「フライパンが重い」という理由でいつも嫌々ヤキメシを焼いていました。
しかし、そのヤキメシが凄く人気があったので、
重たいフライパンを休めるときはありませんでした。

大将「一人暮らしは大変やろ~?」
  「ちゃんと食べてるのか?」
  「しっかり食べんと仕事できんぞ」

僕が頼んだヤキメシはいつも大盛りで出てきました。

■38■

スクリーミング・マッド・ジョージ


清村クニオさん

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エルソル大阪物語■37■「炎はアツく」

2018年01月23日 | エルソル大阪物語

■37■

『ヘアーサロン ターニン』は
西区のアメ村近くにあり難波の学校からも近かったので、
「水落君」が仕事終わるまで待って一緒に見に行ってもらいました。
水落君はもうすっかり「先生」が板についた感じでした。

ビジネス街のラーメン屋の角すぐ横にお店はありました。
先に水落君に見てもらいました。

水落「まあまあエエ感じちゃう?」

続いて僕が見に行きました。
「チラッ」と見ると、
接客中らしく外の様子を全然気にしてない様子で割とゆっくり観察する事が出来ました。

不思議なことに、そのまま『散髪してもらいたくなる』様な雰囲気でした。

次の日、面接に行きました。

面接には喫茶から出前のコーヒーが出されました。

マスターは愛媛県出身の小柄な30代後半でした。
『タニさん』ではなく『久里さん』でした。

背の高いメガネの奥さんも一緒にいましたが、
土日とか夕方とかの忙しい時だけの手伝いということでした。

久里マスター「同じ四国というのはうれしいね~」
      「給料はあまり出せないけど、大丈夫かな~?」
      「いい人そうでうれしいね~」
      「なかなかいいスタッフっていないもんでね」
      「いつから来てもらえる?」

  上田「明日からお願いします!」

つい最近までヒロユキさんという元関美理容部職員が勤めていたということで、
(本当に偶然で向こうも驚いていた)
元学校職員ということが変に「高い期待」をされる事も無く、
ちゃんと見習としてスタート出来そうでした。

もっとビックリしたのは、マスターの高い技術でした。
「きっちりしているのにやわらかいカット」
「手グシで再現性のあるブロー」
唯一気に掛かったのはカミソリの刃で、二枚刃を使うということだけでした。

翌日入店する事になりました。

『ターニン』の久里マスターの言う事は単純で理にかなったもので、
とても分かりやすいものでした。

お店は土日と平日の夕方以外は暇でした。
その暇な時間は全部レッスンに費やしました。
一からの修行なのでシャンプーからのレッスンでした。

シャンプーはスタンドシャンプーでした。
営業中なのにマスター自らモデルになってくれました。
マニュアルどおりの「こうしなさい」「ああしなさい」ではなく、
「どうすればお客さんが気持ちいいのか?」から始まり、
そのためにこう手を動かしたらいいんじゃないか・・という風に、
すべてのレッスンが『お客さん側を主体』にしたものでした。

もうこのお店しかありませんでした。

「絶対に今までの一年半の遅れをとり戻してやる!」
「絶対皆見返してやる!」
「やってやる!!・・・」

心の中でメラメラと炎が燃え始めました。

「若い時は遊ぶ事も大事」
ということで基本的に夜のレッスンはありませんでした。
そのせいで「レッスンしたい病」に襲われました。
お客さんがいるときでも、手の空いている限りレッスンさせてもらいました。

何より技術にハングリーで飢えていました。
ガツガツしていました。

2週間もすると「2枚刃カミソリ」に何の抵抗もなくなっていました。
それどころかお客さんに不快感を与えないので、
こっちの方がいいに決まっていると思うようになりました。

マスターとお客さんのコミュニケーションがしっかりととられていたので、
どんどんお客さんに入らせて貰えました。

CUT料金が周辺の店よりワンランク高かったので、
一生懸命やることだけは怠りませんでした。

お店のある「南堀江」は難波・心斎橋の繁華街のすぐ隣で、
仕事を終えると、「アメリカ村」「道頓堀」「グリコの看板」「カニ道楽」
などの大阪名物を横目にしながら帰りました。

戎橋の長いアーケードはとても賑やかで遊び心をくすぐられますが、
誘惑には負けません。

もう地に足がしっかりとついていました。

初任給ではすぐに『鋏』を買いました。

■37■

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エルソル大阪物語■36■「夜明け前が一番暗い」

2018年01月23日 | エルソル大阪物語

■36■

南海ホークスはダイエーホークスになり、
阪急ブレーブスもオリエンタルリースに買収されました。

「紹介所」に戻ってお店探しをする事にしました。

泉佐野『理容〇ー』・浜寺『サロン美〇』などに
面接に行きましたが、相変わらず手ごたえがありませんでした。

その頃になると紹介所の『石井のオッサン』は、
お見合い世話好きのオバハンのように手当たりしだい
「これ行け!」「あれ行け!」と言うようになりました。

『アポロ』『コロナ』『コスモ』

客として行くのにも勇気がいるような渋い店名は、
名前だけでどんなお店か想像のつくものばかりでした。

最後の手段に出ました。
電車の停車駅一つ一つの駅周辺を歩き、
『スタッフ募集』の張り紙を探すのでした。

南海本線は尾崎駅(和歌山)から難波方面にスタートしました。
各駅周辺に散髪屋は沢山あるのですが、
募集の張り紙は「大衆理容」以外ほとんどありませんでした。

思ったほど駅周辺に散髪屋は無く、随分と足を使いました。

毎日足が棒になるまでとことん探しました。
堺駅になってやっと『スタッフ募集』の文字を見つけました。
どうしても中が見たいので店の前を何往復もして
「チラッ」「チラッ」と見ていました。
すると中からマスターのような人が出てきて、
「いまやったら、すいてるけど・・・」と言われてしまい、
恥ずかしくて逃げました。

三国ヶ丘駅周辺で
『ヘアブティック 〇ワ』と
『〇カットハウス』が募集していたので、すぐに公衆電話から電話したのですが、
「今現在は人を入れる予定はありません」とのことでした。

電車代もバカにならず、
地下鉄御堂筋線では「なかもず」から「西田辺」まで(五駅)歩きました。

車専用の高架道路に迷いこんでしまい、クラクションの嵐を浴び続けたりしました。

「西田辺」の歩道橋の上でさすがにへたり込みました。
11月の夕陽はとても弱々しく寂しいものでした。
でもそれが心地よく、しばらく動きたくありませんでした。

親戚・友人の借金も多額になり、もう使えるお金もありませんでした。

久しぶりに米袋を開けました。
パタパタと小さな蛾のような虫が数匹飛びました。
少ししかありませんが、十分まだ食えそうなんで飯を炊きました。

放ったらかしの野菜は大変な事になっていました。
緑の葉っぱだらけの袋を開けると、どうやら元はジャガイモのようでした。

玉ねぎはチューリップの球根のように芽を伸ばしています。

ニンジンからは透明なモヤシ状の茎が伸びて、
その先端に黄色い花のようなものが付いています。

冷蔵庫のネギは死後一ヶ月のように枯れていました。

フリカケご飯やお茶漬けでしのぐことが多くなり、精神的にもかなり追い詰められました。

久しぶりに学校に顔を出しました。
長島先生「うわ~痩せたな~、今体重何キロや?」

  上田「49キロです・・」

長島先生「ちゃんと食べなアカンぞ~」
    「おう、そうそう、募集来てるけど、どうする?」

今までのいきさつもあったので慎重に答えました、
  上田「とりあえず見てきます」
    「何処ですか?」

長島先生「西区やな、ヘアーサロンターニンやて」

古尾先生「ターニンやからきっと谷さんやで」

笑顔の苦手な古尾先生が頑張って笑みを浮かべました。

■36■

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