まつをのみ たのみてさける ふぢのはな ちとせののちは いかかとぞみる
松をのみ たのみて咲ける 藤の花 千歳ののちは いかかとぞ見る
松だけをたのみして咲いている藤の花は、千年ののちはどうなっているのだろうかと思って見ている。
050 に続いて、松に絡んで咲いている藤を詠んだ作。私自身は実際に見たことはありませんが、藤は松に絡まるように咲いている場合は多いのかな?
まつをのみ たのみてさける ふぢのはな ちとせののちは いかかとぞみる
松をのみ たのみて咲ける 藤の花 千歳ののちは いかかとぞ見る
松だけをたのみして咲いている藤の花は、千年ののちはどうなっているのだろうかと思って見ている。
050 に続いて、松に絡んで咲いている藤を詠んだ作。私自身は実際に見たことはありませんが、藤は松に絡まるように咲いている場合は多いのかな?
うぐひすの たえずなきつる あをやぎの いとうきふしの なくもあらなむ
鶯の たえず鳴きつる 青柳の いとうきふしの なくもあらなむ
ひどく辛いようなことは、ないようにしてほしいものだ。
第三句までが、第四句冒頭の「いと」を導く序詞で、かつ、「いと」が序詞に導かれる言葉としての「糸」と、「ひどく、大変な」の意の副詞「いと」の掛詞になっています。従って、実質的な歌意を表しているのは第四句、第五句だけということになりますね。
わかなつむ われをひとみば あさみどり のべのかすみも たちかくさなむ
若菜摘む われを人見ば あさ緑 野辺の霞も 立ちかくさなむ
若菜を摘む私の姿をもし人が見ることがあったならば、浅緑の野辺の霞もすぐに立ち広がって、私の姿を隠してほしい。
若い娘の恥じらいの気持ちを詠んだ歌とされます。同じモチーフの類歌が 250 にも登場しますね。
のべなるを ひとやみるとて わかなつむ われをかすみの たちかくすらむ
野辺なるを 人や見るとて 若菜摘む われを霞の 立ちかくすらむ
うめがえに ふりかかりてぞ しらゆきの はなのたよりに をらるべらなる
梅が枝に 降りかかりてぞ 白雪の 花のたよりに 折らるべらなる
梅の枝に白雪が降りかかっていて、それが花のように見えるので枝が折られてしまうのだろう。
水面に映る情景と並んで貫之が得意とする「見立て」。枝に降る雪を梅の花に見立てての一首ですが、それを「花のたよりに」の一言で表現しきってしまうのが手練れの技ですね。
この歌は、拾遺和歌集(巻第一 「春」 第13番)にも入集しています。
延喜十七年八月、宣旨によりて
ひとはむべ おそくしりけむ うめのはな さけるのちにぞ はるもきにける
人はむべ おそく知りけむ 梅の花 咲けるのちにぞ 春もきにける
延喜十七年(917年)八月、天皇のご下命によって詠んだ歌。
梅が咲いたあとに立春となったので、なるほど、人は梅の花よりも遅く春の訪れを知ったというわけなのであろう。
暦と実際の季節の風物の時期のズレに着目して、それを「おもしろいもの」として詠んだ歌ですね。