最近、西部地区ばかり散策していたので、たまには郊外にあるスポットをと思い、前から興味がありつつ、行っていなかった場所へ行ってきた。


函館市郊外の陣川町(「相棒」ファンの皆さん、過敏に反応なさらないように(笑))にある「北海道東照宮」。

「東照宮」と言えば、「東照大権現」たる徳川家康を祀る神社であり、日光にあるのが何と言っても有名ですが、北海道にも、五稜郭が完成した1864年、鬼門(東北)の守護神とするために、日高管内様似町の等澍(とうじゅ)院から東照大権現を分霊する形で東照宮が誕生しています。

箱館戦争で1869(明治2年)年に社殿を焼失するも、御神体を辛うじて残り、その後は市内を転々とした末、1992年(平成4年)に元の鎮座地に近い現在の場所に移転することになり、同時に社名を北海道東照宮に改称しています。


敷地内には、こうして、箱館戦争にゆかりの小さな祭神が祀られています。
ここにもまた、「碧血」という言葉が使われていますね。

これは、敷地内にある手水鉢(ちょうずばち)。
どこの神社にもよくあるものだけど、これは、函館の歴史を語る上での貴重な財産となっています。

そう、箱館戦争時の弾痕が、ここに残っているのです。


わかりますか?
この凹んだ部分が、その弾痕です。
ですが、この弾痕が生じた時、この手水鉢は、現在のこの場所にはありませんでした。
ではどこにあったかと言うと・・・、

ここは、現在の東照宮から少し離れた所にある、神山稲荷神社。

そう、先程書いた、様似町の等澍院から分霊された東照大権現は、現在のこの位置に建てられた、旧東照宮に祀られていたのです。
明治元年、五稜郭を占拠した旧幕府脱走軍は、東照宮の先に四稜郭を構築し、さらに、念には念を入れる意味で、五稜郭と四稜郭の中間地点に在した東照宮にも「権現台場」を構築し、防衛体制を強化していました。
しかし、新政府軍の函館一斉攻撃により、四稜郭と権現台場は同時攻撃を受け、権現台場が先に陥落しそうになりますが、権現台場の守備兵達は、重要拠点である台場を守るべく必死に抵抗し、先の手水石の砲弾痕もこの時、この場所で生まれたと伝わっています。
1869年(明治2年)5月11日のこととされています。


現在の神山稲荷神社は、ご覧の通りの小さな神社ですが、箱館戦争の激戦地という、函館の歴史上重要な意味を持つ場所として、これからも、その意味するところが語り継がれていくことでしょう。


函館市郊外の陣川町(「相棒」ファンの皆さん、過敏に反応なさらないように(笑))にある「北海道東照宮」。

「東照宮」と言えば、「東照大権現」たる徳川家康を祀る神社であり、日光にあるのが何と言っても有名ですが、北海道にも、五稜郭が完成した1864年、鬼門(東北)の守護神とするために、日高管内様似町の等澍(とうじゅ)院から東照大権現を分霊する形で東照宮が誕生しています。

箱館戦争で1869(明治2年)年に社殿を焼失するも、御神体を辛うじて残り、その後は市内を転々とした末、1992年(平成4年)に元の鎮座地に近い現在の場所に移転することになり、同時に社名を北海道東照宮に改称しています。


敷地内には、こうして、箱館戦争にゆかりの小さな祭神が祀られています。
ここにもまた、「碧血」という言葉が使われていますね。

これは、敷地内にある手水鉢(ちょうずばち)。
どこの神社にもよくあるものだけど、これは、函館の歴史を語る上での貴重な財産となっています。

そう、箱館戦争時の弾痕が、ここに残っているのです。


わかりますか?
この凹んだ部分が、その弾痕です。
ですが、この弾痕が生じた時、この手水鉢は、現在のこの場所にはありませんでした。
ではどこにあったかと言うと・・・、

ここは、現在の東照宮から少し離れた所にある、神山稲荷神社。

そう、先程書いた、様似町の等澍院から分霊された東照大権現は、現在のこの位置に建てられた、旧東照宮に祀られていたのです。
明治元年、五稜郭を占拠した旧幕府脱走軍は、東照宮の先に四稜郭を構築し、さらに、念には念を入れる意味で、五稜郭と四稜郭の中間地点に在した東照宮にも「権現台場」を構築し、防衛体制を強化していました。
しかし、新政府軍の函館一斉攻撃により、四稜郭と権現台場は同時攻撃を受け、権現台場が先に陥落しそうになりますが、権現台場の守備兵達は、重要拠点である台場を守るべく必死に抵抗し、先の手水石の砲弾痕もこの時、この場所で生まれたと伝わっています。
1869年(明治2年)5月11日のこととされています。


現在の神山稲荷神社は、ご覧の通りの小さな神社ですが、箱館戦争の激戦地という、函館の歴史上重要な意味を持つ場所として、これからも、その意味するところが語り継がれていくことでしょう。