札幌市郊外のとある住宅街。
ここをブラブラしていて発見したものは・・・。
お、電柱に「広島」と書いてありますね。
三年前の「ブラタモリ」京都伏見編で、タモリさんの口から、電柱を見るとその地の歴史が分かる(例えばこんな具合)旨が語られて以降、私も電柱に注目しながら町歩きをするようになったのだけど、これは何でしょうね・・・。札幌の隣の北広島市だったら、こういうのがあってもおかしくなさそうだけど・・・。
お、ここにもありましたね。
これらの電柱があるのは、札幌市西区西野のこの辺り。
「西野」という地名は、その由来は残念ながら不詳のようですが、一体広島とどういう関係があるのでしょう?
ナナマガラーさんがブラブラ歩いて解き明かします。
(↑「ブラタモリ」の草彅剛さんのナレーション風に(笑))
そんな住宅街の一角にある小さな公園。
記念碑があります。何の碑でしょう・・・?
そうです、先程の電柱の表示の意味は、こういうことだったのです。
西野地区は、明治4年(1871年)、越後出身の森三吉ら5名が、現在の琴似発寒川沿いに当たる「ベツカウシ」と呼ばれた箇所に入植したのが始まりとされていますが、本格的な開墾の歴史は、明治18年(1885年)、広島県人の前鼻村七ら68名の入植により始まりました。
この68名の入植によって開墾されたのが、西野の西側にある「西野第二」と呼ばれる地区で、琴似発寒川や、西野と手稲方面とを結んでいる「中の川」という川から水を引くことによって用水路を完成させ、先日紹介した「五天山公園」に復元されたような水車も稼働させながら、「西野米」と呼ばれる一級の米を生産する水田地帯として発展を遂げました。
現在は閑静な住宅街となっていますが、この記念碑によって、そうした歴史が後世に語り継がれていっているということなのです。
因みに、同じく広島県人の入植によって拓かれた、札幌の隣の北広島市との関係でいうと、西野地区に入植した人の中には、先に現在の北広島市に移住し、その後、開拓史から払い下げを受けていた学田地(学校の農業教育実習の場として活用された水田)の小作人募集に応え、西野地区に再移住した人も少なくなかったそうです。
(この記念碑の場所はこちら。)
西野第二地区のメインストリートとも呼べる通り。
この道路は「広島道路」という通称で親しまれています。
地域の歴史がそのまま地区名になっている「西野第二」のバス停。
ここからも地下鉄琴似駅前とを往復するバスが出ており、高校生のときには、たまにその路線に乗って帰宅したことがあったので、私にとっては懐かしい場所の一つです。