龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

4月21日(木)のこと<双葉町が抱える困難について>

2011年04月21日 16時08分29秒 | 大震災の中で
双葉町が抱える困難について

全体避難を余儀なくされた双葉町では、行政機能を埼玉県に移したわけだが、そこでもたくさんの困難に直面しているようだ。

なんといっても市町村という地方自治体は、本来そこに住んでいる地域に根ざしたものだ。
地縁的な結合を失ってしまうと、広報一つとっても不便になる。
第一、同じ地域に寝起きして同じ空気を吸っているという共有感覚を失い、それぞれがバラバラになりながら、町という共同体を保つのは容易なことではないだろう。

双葉町長は、町の機能を埼玉県に移した大きな理由の一つに、雇用問題を挙げていた。

確かに、今まで双葉町の雇用を様々な側面で支えていた原発がこんな状況になった以上、地元に帰る算段ばかりをしていても、町民の失われた雇用を確保することは絶望的といっていい。だから、町長の選択には一理ある。

しかし一方、土地に根ざし、地理的空間を共有する姿勢あってこその町ではないか、自分たちの町に戻ることを一義に考えなければ、中長期的には町の存続さえかなわないのでは?という危惧もまた、当然のことであろう。

新聞によれば、自力避難した人が、行政サービスを受ける上でさまざまな不利益を受けている、とも報道されていた。


自然・土地・家・地縁・血縁・友人・親戚・ご近所・雇用・スーパーの商圏・学校・行政などなどどさまざまな「共同体」が多層の網の目となって、人々の生活を支えてきたに違いない。
スーパーマーケット一つとっても、なじみの棚の品揃えが分からなくなると、買い物一つでさえ不便になる。
通い慣れた道、職場の同僚、飲み屋のママさん・マスターとの会話、学校の友人、部活の仲間、釣り友達……。
人間関係だって、数え切れないほどの側面がある。

そういうものの多くが、いったん土地を離れてしまうと、時間を経過すればするほど失われていくに違いない。

さらに、20キロ圏内の警戒区域では、明日から罰則を伴った立ち入り制限が実施されるという。

自分の家にも帰れなくなるわけだ。安全を考えればやむを得ない措置ではあるのだろうが、決定的に「失ってしまった」という思いはさらに募るだろう。

共同体がどんな次元・水準で保持されているのか、を考えると、グルグルするほど難しい。

地理的空間の共有。歴史的時間の共有。土地に根ざした言葉(方言)の共有、同じ学校の生徒・卒業生・PTAというつながり、職場での人間関係、会社と会社の取引関係、日々の買い物をするお店と消費者、そういったさまざまなものを、原発事故は生活の基盤ごと根こそぎ奪ってしまったわけだ。

荒唐無稽に思われるかもしれないが、この際、町民全員に専用メールアドレスを配布し(携帯がない人には配布し)、バーチャルな行政機能を立ち上げてはどうなんだろう。

もちろん国庫補助をしながら、ね。

教育だって、功罪いろいろあるだろうけれど、学校なんて旧態依然としたインフラにたよらず、タブレット端末でも配って、どこでもできる授業とかサテライトでやったらどうなのか。

住むところがどこであっても、行政は、居住できなくなった双葉町を、いつか再び住むことができる「奪還」の場所と位置づけ、その実現に向けて日本全国に散在する町民を、ネットワーク上で結びつけ、連帯を保っていく、なんてことは、できないんだろうか、と思う。

やっぱり荒唐無稽で、かつそんなことでは「町」っていうのは保てないんですかね?
でも、現実に土地を失った地方自治体の行政っていうのは、好むと好まざるとに関わらず、「バーチャル自治体」になってしまっているのではないかしらん。
ことの当否ではなく、現実にそうなっているのなら、埼玉県にい集まった町民だけを「町民」として集わせるのではなく、バーチャルな形ではあっても、全町民を統合するネットワークシステムを構築する価値、すくなくてもそれを試みていく価値はあるんじゃないかしら。
その上で町に戻ることができたら、とっても充実したサービスに発展していけると思うけれど。


4月20日(水)<「自分が受ける線量を意識した生活」を日常とは呼ばない>

2011年04月21日 12時55分07秒 | 大震災の中で
「平時」とは違った安全もしくは危険を察知する能力

原発事故から40日が経ち、ようやく少しものごとが見えてきた。
一つのポイントは、3月14日だったと思う。
いわき市の仲間にいろいろ聞いてみると、やはりこの爆発の日に避難を始めた人が多かった。

その判断はけっこう適切だったと思う。

結果としては飯舘村から福島市を通って中通りを南下していく風に乗って、放射能が飛散していき、加えてそのとき雨が降った場所がピンポイント的に高濃度の飛散放射能が落ちてくることになったわけだが。
私たちは、お上から何かを与えられて、それだけを鵜呑みにしては生きていけない。かといって、
むやみに怯えてばかりもいないだろう。
自分たち自身の情報戦略を持っていなければいきられない。

そこで疑問が一つ。

一ヶ月たって、30キロ圏内の外にあるいわき市は、幼稚園保育園を含む小中高全ての校庭が、文部省の定める放射線量(3.8マイクロシーベルト/時)を下回って、安全だと宣言された。

でもね。

私たち市民の感覚では、これは「安全」とは言い切れないと思う。
だって、私たち福島県民は、野菜だって食べるわけだし、風が吹けば濃度の変わる飛散放射能を浴びているわけだし、いくら注意しろっていったって、雨にずぶぬれとなる子供はいるし、泥だらけになって遊ぶ子供もいることだろう。

常時、自分が受ける線量を意識して生活する、なんてことは全くナンセンスなことだ。

それはもはや「日常生活」ではない。

空襲があったら防空壕に逃げるが普段は「ふつうの生活」をしている……これは立派な戦時下だ。

同様に、福島第一原発事故の恒常的冷却システムの安定的運用のメドが経っていない現在、いつ爆発が起こって飛散放射能が降り注ぐか分からない状態の福島県内=いわき市は、ちっとも安心ではないし、ちっとも安全でもない。

立派な「戦時下」なのではないか。

少なくても、水素爆発の危険はまだ去っておらず、再度それが起これば、飯舘村「規模」のことは容易に再現されてしまうことは、素人の想像範囲内だ。

私は、福島県内の学校について言えば、福島第一原発の冷却システムの安定運用宣言が出されるまでは、屋内活動中心で十分だと思う。

しかし、この前のようになんの備えもないまま(現状、学校には「安全だ」という話があるだけで、爆発があったらどうしなさい、なんて話は全く指示がありません!)、お上が安全だといったから、といって部活動も再開され、校庭も使用が開始になっている。

まあ、「今」安全なのはけっこうなことだ。

しかし、再度の爆発(その危険があるから冷却とか窒素充填とかしているわけですよね?)に対する備えが、福島県内のどの現場でも全くアナウンスされていない現況には、はなはだ大きな疑問を抱く。

6ヶ月から9ヶ月ぐらい学校を止めて、教職員全員を災害救援ボランティアに駆り出せばいい。

実際に行われるボランティアが「教育」であっても一向差し支えはないのだけれど、単位で縛るようなものではなく、家族や子供が安心して選択できる「学び」のシステムをつくる好機ぐらいに考えてはどうだろう?

学校に関わる法律は、所詮「平時」にしか対応できない。

授業時間の確保だけを優先し、結果として子供を学校に縛り付けるのは、やめた方がいいと思うけどなあ。

旧に復することだけが大事なんじゃなくてね。
何もないところから、危険を抱えたところから、どう新たに立ち上げていくか、を考えていきたいと思う。教育に限らず。


4月20日(水)のこと<「装われた日常生活」が幕を上げる>

2011年04月20日 14時54分34秒 | 大震災の中で
昨日は勤務校の入学式だった。
あいにくの雨で、保護者の晴れ着も駐車場にした校庭の泥で台無しになってしまいました。
私も警備係で外に立ってクルマの誘導をしていたら、風邪を引いてしまったようで、昨夜はもう夕方から寝込んでいました。

熱はないけど咳がひどい。

病気をしてベッドで寝込んでいると、外側で大変なことが起こっていても、何やら今ひとつリアリティが感じられず、ついつい自分の体調にかまけてしまう。

そういうものかもしれない。

ただ、今ここで自分の周辺に起こっていることばかりではなく、地域や世界に起こっている事件について耳をそばだてていなければならない、という「緊張感」は、あきらかに3/11以降頭から離れたことはないのも事実だ。

今だに続く余震もそうだし、万一福島第一原発に爆発が起こった場合、どうやってその瞬間の風向きとか強さとかの情報を手に入れられるか否かで、自分の人生は大きく分かれてしまうのだから。

考えてみれば、飯舘村の土地は、シミュレーションのデータ予測を何も知らされないまま、結果として住めないほどの蓄積線量になってしまったわけだし。

経済的な限界がなければ、次回の爆発による放射能飛散まで考えて退避させればいいのかもしれないが、現実のソロバン勘定として福島市30万人といわき市34万人を「避難」させるのは現実的ではないのだろう。

大気中の汚染は確かに逓減している。
だから、私たちいわき市民は、一見「普通」の日常生活に戻ったかのように見える。

しかし、もう一度爆発があれば、そして風向きの如何によっては福島市やいわき市が「飯舘村」の二の舞になるリスクはまだまだ高いと言わねばなるまい。

原発事故の現場では、体力の限界の中で作業員が命がけで闘っていると聞く。

水素爆発の再発が起こらないことを祈りつつ、
我々30キロ権内に隣接した市町村の住民たちは、平たくいうと「緩衝地帯」居住区のような役割を結果として担わされているようなものだ。

つかのまの静けさが、どこまで続くのか。

潜在的な不安を抱えたまま、
「装われた日常生活」
が幕を上げようとしている。

ぶっちゃけた話、いくら安全だ、
とか百曼陀羅聞かせられても、「ストレス死に」しそうだよって感じもするね。
仕方がないから、私たちは「忘却装置」としての日常を生き始めるわけだけれど。
そして、それは、原発が稼働していたころの地域住民の置かれた心理状況と、そんなに変わらないよね。




4月20日(水)のこと<友人からのメール>

2011年04月20日 14時34分59秒 | 大震災の中で
友人からメールがきた

引用開始-----------

ブログでコメントしようとしたのですが、しばしばフリーズするので、ここに少し書きます。
あの地震で、電気は3日、水は5日止まった訳だけど、うちの辺りは果樹園地帯で、古い農家はほとんど、自分の家に井戸を持っており、この辺りは地下にかなりいい水かながれていて、農家は市の水道と井戸水両方を使っているので、電気が通れば水は自給できるのです。わが家は、井戸は残っているものの、家を新築したとき、ポンプを処分してしまったので、電気が通っても、他の新しいし住人たちと同じように、早朝から給水所に並び、トイレ用には家ノ前の小川の水を汲んで使っていました。それに関しては、農家に含むところは全くない。
さて、この果樹園地帯には、共同で出資し管理している井戸が、うちから50メートルの所にある。果樹園に散水をしたり農薬を薄める水として使われています。電気が通って二日目に、ある農家がその水を使って果樹園に散水しているのを見てショックをうけました。近所には未だに給水所でわずかな水を一時間かけて調達するしかない人々の存在がその農家には見えないのです。僕は、牧歌的な昔話をしようとするのではありません。昔とて農家が助け合って生活していたわけでもないでしょう。ただ、役割的に助け合いの振る舞いをする場面はあっただろうと思う。嫌々ながら僕たちが廃品回収などの子供会行事に参加するように、あるいは村八分にされた家でも村の人々が葬式だけは協力するみたいに、今日でもそういう場面の担保があってもいいと思った。そういう場面のシミュレーションとして地域にはいろんな行事が有るのかもしれません。僕はそんなの面倒で全部パスしたい人間だし、若い人たちはなおさらそうだろう。でも、まさしく、浅くてもいいから、そういう地域の人間
関係を担保しておかないと、僕が給水が行われている脇で果樹園に散水する立場にならないとも限らない。
引用終了------------

大震災のようなとてつもない災害の場合、素朴な
「困ったときはお互い様」
を実践してほしいものですね。

平気で無神経なことをしてしまわないように気をつけなくちゃ。
とくに水はね。生活水準維持ばかりじゃなく、生命維持に不可欠なものですから。

まあ震災後初めてスーパーマーケットが開店したときには、ダッシュで卵を買いに入り口から売り場まで走ったりもしたので、あんまり偉そうなことはいえませんが(^^;)





4月18日(月)のこと<「世の中は地獄のうへの花見哉」一茶>

2011年04月18日 22時10分35秒 | 大震災の中で
始業式で、大震災以来初めて生徒と会った。
様々に大変な事情があるけれど、とにかく全員無事だった。

今日ばかりはなぜかクラスの生徒の顔を見ると思わず顔が緩んでしまう。

中には髪の毛の色が虎のようにまだらになっている子もいたりして、

「暇があるとろくなことをしない」

なんて怒ったりもしたけれど、なんだか彼らの顔を見ると、心底ホッとする。

何のことはない、おそらく私自身が不安だったのかもしれない。

賑やかにおしゃべりしている彼ら彼女らもまた、同じだろう。

クラスの生徒だけを見ても、家が流されたり、余震で家が崩壊し住めなくなってしまったり、避難区域で家に戻れないままだったりしている。

おそらく彼らの人生は、この一ヶ月で決定的に変わってしまった。

一茶の句(「世の中は地獄のうへの花見哉」)ではないが、私たちは牛乳を一端沸騰させ、少し冷めた後表面にうっすらとできる薄い膜のような場所に立っているのかもしれない。

そういう風に世界ができている、ということは、これほどの大惨事が起きて初めて分かる。そういう認識の限界を私たちは持っている。

今はだから、せめてこの獲得した世界像をたやすく抑圧してしまったり忘却しようとしたりせずに、むしろしっかりとこの大変な体験を携えつつ、未来への回路をつなげていってほしい、と切に思う。

沈黙や空元気で性急に日常生活を「召還」するのではなく、しばらくは呆然としていたほうがいい。

目標を持って耐えるのはいいが、抑圧や我慢はできるだけしないでほしい。無意識の中にもっとひどいモノを育てることになりかねないから。

教育の大切な意義って、むしろこういうどえらく大変なときに対応できる適切な身振りを、きちんと習得していくことにあるんじゃないかな。

もちろん、自分たちの人生を決定づけるほどのこんなに大きな出来事は、すぐにはその全容や意味はつかめないに決まっている。

急ぐ必要はないから、今起こっていることをしっかりと瞳を凝らして、見つめておけばいい。

そんな気持ちで彼らを迎えた。

もっとも、学校が被災していて校舎が使えないから、授業は連休明けまで再度休みに入る。

だから、とりあえず、生徒にとっては長い春休みがまだまだ続く、ということなんだけどね(^^;)

3月11日以来の緊張が解けてホッとしたせいか、なんだかかぜをひいてしまった。今日は早く寝るとしよう。



4月17日(日)のこと<息子のタイル修理と世代交代>

2011年04月17日 22時07分22秒 | 大震災の中で
3/11の大震災は、瓦が多数飛び散って難儀したが、4/11の余震では壁のひび割れが余計にひどかった。

最初の振動で弱っていたせいもあるかもしれないが、余震では風呂場のタイルが何枚も割れたり落ちたりひびが入ったりして、参った。
子供の頃から図画工作と技術は成績が悪かった。とりわけ図工は評定1をもらったこともある。
そんなわけで、風呂場の補修など自分では絶対に出来ない。しかし、震災後の住宅補修関係の業界はほぼ絶望的な状況だ。
材料は入らないし、職人さんの人手も(原発の放射能漏れのせいで避難した人も多く)不足したまま。
ちなみに同じく瓦が飛んで雨漏りしてしまっと同僚が、市内の瓦屋さんに問い合わせたところ「1000件待ちだ」と言われたそうな。
1000件って……。
ま、断る口実かもしれないけどね。
復興建築景気を当て込んで材料を確保しているその方面の方々も多いとか。

いずれにしても、家の修繕は震災後の被災者にとって難問題である。

そうなれば仕方がないのでDIY。

ホームセンターに出かけてみたものの、お客さんが群がる場所はほぼ一緒。
防水のパテとか防カビのシーリング材の棚は物資が不足気味である。
なんだか分からないままに手当たり次第に買い込むと、その材料を息子に渡して修繕を頼み、自分は遠くから見物するしか能がなかった。

息子はなにやら粘土細工よろしくスイスイと割れたタイルをはがし、パテや接着剤、コーキングだかシーリングだか、練り歯磨きのお化けみたいなものと粘土をとっかえひっかえしながら、半日もかからず補修を終えてしまった。

自分が苦手なことを息子が軽々とやってのけるのは有り難いかぎり、のはずである。実際、とても助かった。
けれど、なんだか身の置き所がないような、なにやら逆上しそうな、不思議な気分におそわれた。

こんな大震災でなければ業者の人に頼んで直してもらったに違いない。
しかし、頼んでもしばらくはらちがあかない、となれば、自分で自分の家は守らねばならぬ、ということになる。
そして、オヤジが死んだからには、私が家の長(おさ)である。守り、直すべきだ……知らず知らずのうちにそういう役割を震災後に担っていたつもりだったのだろう。
瓦の崩落にしても、父の葬儀にしても、なんとなく頼まれもしないのになんかを「背負って」いたのだね。

でも、風呂場の補修は圧倒的に息子のほうが上手かった。

90歳を過ぎてはいても、父親がいるうちは、きっと私は「子供」だった。
それなのに、息子(孫)がすぐに登場してしまっては、立つ瀬がない。
震災後一か月足らずで息子に役割を譲ってしまったような、敗戦処理の中継ぎになったような気分におそわれた……、そんな風にも考えられる。

そうでなければ、息子のDIYでこんなにそわそわする自分の気持ちが、あまりに唐突で説明がつかないのだ。

これはいろんな意味でびっくりだった。

若い頃から、自分は「家を守る」などどいう心性とはおよそかけ離れた存在だとおもっていたし、家とはある種の道具めいたもので、所詮仮の宿だと軽く見ていた。
ところが震災後「家」というものは、人間の生活の安定にこれほどまでに欠かせない重要不可欠なモノだと知った。

そしてもうひとつ、その家を守るのは自分だと「知った」瞬間に、既に息子への世代交代が始まっていることを「知った」のだ。

もう少し早く「家守」の文化を内面化していれば、父親の死と震災とが一度にやってきたからといってあわてることはなかっただろう。

この話、もしかすると多くの人には通じないかもしれない。

だれであろうが家の修理をやってくれるならラッキー、っていう発想は、私が「子供」であったとき、そして、震災で家の大切さを知らなかった時までのモノだったのだし。

これは、実際の家屋の修理という話ではたぶんなくて、でも、実際に人間の生きられ得る空間を分割するほとんど唯一の物理的な質料である「家」という存在の、意義の話だ。

息子に「父親」の領域侵犯をされた、ということではないのです。そんな縄張りの話はしていない。それじゃ「王殺し」の話になっちまう(笑)
そうじゃなくて、バトンが知らぬ間に手渡されて行ってしまっていることに気づく、というか。

それは、たぶん、一年前、二十年も老夫婦だけで住んでいた隠居所に、「放蕩息子」的な私が帰還してきたときの、父親の気分でもあったのではないか、と思い当たったことが、本当の逆上の発端だったのかもしれない、と、今書いていて考えてはじめている。

父親は、ようやく始まった私=息子との同居を喜んではいたと思う。
「これからはなんでもお前に任せるから」
といって、ことあるごとに家に関わる全てのことを説明しようとしていた。

でも私は父親の話を真面目に聞こうとはしなかった。
去年の今頃私はただ、年寄りのそばにいればそれでいい、とだけ思っていた。

本当に「放蕩息子」みたいなもので、父親にとってはあまりにも頼りがいのない子どもだっただろう。
父親本人は、次第にお迎えが近くなってくる自覚の中で、一向に真剣に「遺言」を聞こうとしないバカ息子にやきもきしどおしだったのだろうと、今になって後悔が身にしみてくる。

一方息子は私と違って「家」や「家族」を手渡されることに自覚的であり、それを積極的に引き受けるタイプだ。

だから「放蕩息子」は、父親に対しては最後まで「放蕩息子」でありつづけ、子供に対しては「放蕩親父」でありつづけ、結果としては手品のすり替えの身振りのように、実体を持たぬまま、一代飛ばしでバトンをじいさんから孫について渡す敗戦処理の中継ぎ投手の役割しか担っていなかったのではないか、と「遅れて」気づき、逆上したような気がするのだ。

たぶん、そんなことは父も息子も考えてはいないのかもしれない。

そしてきっと風呂の修繕ごときで何を大げさな、と人は言うのだろう。

その通りなんだけどね(苦笑)

「放蕩」かつ「軟弱」な中継ぎに徹するのも平和な時代の「処世術」としてはそれでもよかったのかもしれない。

でもこの震災で世界像はすっかり違ってしまった。

敗戦処理でも中継ぎでも、どんなバトンであっても、つなげられるモノはつないでいくべきだし、滅び去るモノは、潔く退場すべきときがきたのだろう。

何を引き継ぎ、何を捨てるのか。

大震災と身内の死を重ねて考えずにはいられない今の私にとっては、二重に大きな課題となっていることを自覚させられた1日だった。



4月16日(土)のこと<一つになれないいわき市の事情>

2011年04月16日 12時19分49秒 | 大震災の中で
一つになれないいわきの事情。

もう一ついわき市の困難を挙げておくと、「いわき」はもともと一丸となってなにかをやる文化が希薄な土地柄だ。

平地区は行政と商業地区、常磐地区はもともと炭坑の町、湯本といえばスパリゾートを代表とする観光&温泉街、泉はごく最近住宅&別荘地となった玉露とハイタウン、勿来は化学工場の城下町、小名浜は工場と大型港湾に加えて漁港&魚市場、そこから北の海岸線は、海水浴場と小さな漁港&様々な水産加工、市内全域には、冬でもプレー可能なゴルフ場が多数点在している。

住宅地も、「東北の湘南」をキャッチフレーズに、別荘感覚で関東の人が購入しているものと、旧来の人のものが混在し、大きな港は他地区からの労働者を招き入れ、それは炭坑も同様。
当然、昔からの農家もその間で米や野菜、果樹を作付けしている。

しかも、それぞれの地区が緩やかな丘陵によって分断されており、地区ごとに意識や気風も分かれている。

さまざまな生活形態、さまざまな業種のひとが、だだっ広い土地に丘陵で分断されたまま散在している。

水道料金一つとっても広大な市内をカバーするコストの高さが反映されているし、30万人都市としては、下水道・都市ガスのカバー率も高くない。

いわき市は、ただ合併市だからというだけでなく、文化的にも、地理的にも、産業的にも、なかなか一つにはなれない土地柄なのだ。

つまりは、もともといわき市は、断片がモザイク様に散らばり、それが、さらに地区ごとに分散した地方都市なのである。

加えて気候がいいから(福島県内では年間日照時間がトップクラス)、困難を共に乗り切ってきた感にも乏しいときている。

以上なんだかバラバラでよくない土地であるかのように書いてしまった。
が、この土地に流れ者として20年ほど住んでみての、正直な感想だ。

私はここに書いたことを必ずしもマイナスとしてだけ感じているわけではない。

流れ者の断片のひとつである私としては、(田舎にしては)例外的に住みやすい場所だったと思う。

人口密度が基本的に低いので、バラバラであっても好き勝手を咎める人の目に乏しい。いわゆる「田舎」じゃないみたいである。

加えて、バラバラに違った気風の者たちが寄せ集まっているので、そういう他者に対する「適切な無関心」が、東北にしては濃厚だ。

浜も炭坑も、仕事としては明日を考えるより、流れ者をも労働者として受け入れつつ、今日を稼いでいくのが眼目。

そんな風に考えていくと、いわき市はこの複合的な災害で、その統一的なイメージを改めてどう共有するのか、が試されているのかもしれない。

異なった文化を抱えた無関心のバラバラな身振りが、改めて統合された「いわき市」の市民としてどう振る舞うのか。

多様な断片が、多層の災害において、様々に傷ついている。
この現実において、それをどういう基盤において互いに支えていくのか、という課題である。

原発事故も津波も、被害の軽重には地勢的な要素が大きく関わっている。
被害の種類や程度も実際のところはバラバラだ。

しかし、政治的な振る舞いや、風評、物流、他者の視線においては「いわき市民」として見られていく。

その、「見られていく」こと、や「語られていく」ことにたいする感受性が、今の政治には決定的に重要なのだろう。

そして、その「政治」とは、ただ首長ひとりが才能としてもっていればいいというものではなくなってしまった。

ツィッターでも、SNSでも、ブログでも、どう発信していくか、が改めて問われていくだろうし、マスコミに何を流していけばいいのか、も個々人が身振りにおいて思考すべき範囲になってきている。

私自身、この地震や津波、そして原発事故ごなければ、「フクシマ」や「いわき」という枠組みを内面化した形で言葉をこんな風に発することはなかった。

そういう意味でも、これらの事件は、
「人為=&≠自然」
として
きちんと捉え、考え抜いておかねばならないのだ、とつくづく思う。

「いわきをひとつに」

家からでた瓦礫を捨てに震災ゴミ置き場への道に並んでいると、地域のFM局から、「いわきをひとつに」というキャッチフレーズが繰り返し流れてくる。

フィクションの力、言葉の力が、こう言うときには試されるだろう。

繰り返し書いて置くが、
あくまて瞳を凝らすべきは

「人為=&≠自然」

である。

決して

安全/危険
善/悪
人間/自然

という二項対立を立ち上げておいて、前者にのみ身を置いた上で物事を分類し、満足してはいられないだろう。

世界を縮減し、半分の「安全」だけを「信じた」結果、この
「人為=&≠自然」
を見つめるべき場所に立たされてしまったのだから。

ここから先は個人的な話になるが、
「人為=自然」を改めて(敢えて)運命として受け止めるようなどこぞの古典的評論家のようにはなるまい、と思う。
他方、
「日本はひとつだ」
っていうのは、被災者にとってはありがたい限りだが、期間限定にお願いしたい。

だって、ひとつじゃないし(笑)
でも、

ひとつじゃないけど、ひとつ、なんだよね。日本が一つで「も」ある。
いわきはバラバラで、かつ「いわきをひとつに」なんだよね。

そこにおける「共同性」のあり方、宗教性、社会的意味、超越性、生の基盤などなど、ここも考えるべきポイントですね。

あぁ、まだ瓦礫置き場にたどり着かないなあ……。

県や市という行政の区分を、普段私たちはほとんど意識せずに暮らしてきた。しかし、これからは、それを無意識の共同体として、再び日常という忘却装置に委ねるのではなく
政治的・権力的「覚醒」
が不可欠になるのかな。

くどいようだが、あくまでもその区域へのコミットは「断片」として、浅く、多様にね。




NIMBYとしての原発問題

2011年04月16日 12時19分10秒 | 大震災の中で
福島市に設置されるとして問題になっていた
「福島自立構成促進センター」
も、住民による7万人もの反対署名がありながら、法務省は福島での開所に踏み切った。

あのときに勉強したNIMBYという概念がもっともよく当てはまる公共施設の一典型が、原子力発電所問題である。

NIMBYとは Not In My Backyard の略。

(必要なのは分かるけど)うちの裏庭(近所)じゃないところに(設置して)ね。

という意味だ。
そのほかに誰もが思い浮かべるのが沖縄の普天間基地移転問題。

他には東京杉並区のゴミ処理施設問題、などがよく例として挙げられる。

ゴミ処理施設の場合は、エブリバックヤード、というか小さい処理施設を町ごとにつくると、自分たちのゴミを自分たちで処理することになるので、ゴミのコストや処理のリスクを「自分たちの問題」として考えるようになり、結果としてゴミが減る、という解決方法が一つ考えられる。

大きな施設ほど、断片化した市民には他人事になるからだ。

しかし、近代的なシステムの拡大再生産は、国民国家の内部で大規模化による効率化をめざしていかざるを得ない。

その結果、もともと小さな断片=人為として、大きな総体=自然と向き合っていた人間たちが、

擬制的な共同体としての人為的システムの内部の、組み込まれた上で、「悪しき断片」として自分たちを捉え直すことを求められてしまう。いわゆる「社会化」による大衆化、孤独化、再断片化だ。

この断片化は、たちが悪い。
前者の断片化と、後者の「社会化された上での再断片化」の区別が、今「フクシマ」で問い直されている重要な点の一つだと、私は思う。

後者の「社会化」=再断片化が進む結果として

システム依存&システムの無意識化&神の見えざる手にお任せ

ということになっちまったわけだ。

その結果、市民の良識は「再断片化」を超えた倫理性が持ちにくくなってしまった。


本当は、自分たちの裏庭に作ってほしくないものは、どこの裏庭にも作ってはほしくない。

当然のことだ。

が、それを断片化したまま敷衍していくと、ゴミ処理場でも基地のオキナワでも、そういうNIMBY問題となる施設は

誰かがどこかでやってくれる「自分たちの外部」

として市民生活の意識から抑圧されていってしまう。

犯罪者の更正も、軍隊による日本防衛も、そして原子力発電による電力供給も、普段は「意識の外」に送り出して生活してきたわけである。

まるで星新一の「おーい でてこい」(『ボッコちゃん』所収)というショートショートのようだ。
ある日、空から声と石つぶてが飛んでくる、っていう設定ではじまる「穴」の話に、これはとてもよく似ている。

『ボッコちゃん』星新一と『日本沈没』小松左京の描いた「危惧」の絵図面(構図)は、今でも有効だ。
だが、それはもはやSF作家の想像力の産物ではなく、想像力を働かせ続けなければ認知しにくいような「日常的現実」となっている。
オチまで含めて、ね。

さてでは、放射性物質の飛散が続くこの状況を、日本という「共同性」においてどれだけ背負っていけるのか。
あるいは、「フクシマ」や「オキナワ」を、負の独立国として遇していくのか。

我々福島県人としては、最後に残った尊厳を捨ててまで、日本に交ぜてもらいたい、とは思うまい。

井上ひさしの想像力が作り出した『吉里吉里人』の国のように、あるいは池澤夏樹が『カデナ』で書いたように、断片がそれぞれの契機において独立国に参加する、という意思表示をすべきときに来ているのかもしれない、と思う。

それは単に、「フクシマ」が排除と差別の対象になりつつあるからいじけてそれを逆手に取る、ということではない。

そういえば小松左京には『日本アパッチ族』という楽しい独立活劇ものもありました。

私たちには「フクシマ」という「根の国」「負の国」を地の底から立ち上げていく仕事ができたということだね。

誤解を招きそうだから、付け加えておくと、「NIMBY」を地域エゴやゆすりたかりのように考えると、問題の本質を見失う。

断片的な個が感じた問題を、遠い所に持っていって解決するのは、地域エゴの結果ではない。むしろ、そう考えてしまう「社会化」された枠組みそのものが抱える問題なのではないか、ということだ、

単純に基地問題や原発問題を「地域エゴと国策の関係」として考えてしまう枠組それ自体が問い直されている。

国策もまた、我々だし、NIMBYもまた我々の抱える課題だから。
小さい断片化された我々の「現実」と、国策という国民国家としての「想像」によって支えられたものを、どうであわせていけるのか。

どちらか半分を生きるだけではもう21世紀は生きられない。

国策のコストを税金だけで済ませて知らんぷりをしたり、地域エゴは補償と強制執行ですませる、という時代ではなくなったのだし、他方、地方におけるとりあえず補助金の値段を釣り上げれば地域振興になるとい作戦も破綻したわけだから。

では、どうするか、という課題が「この場所」に集約されたと考えたいのだ。

最近完結した世界文学全集の選書において、石牟礼道子『苦界浄土』だけが日本の小説から採られているが、深く納得。

水俣の深い闇から発せられ、自らがその深いところからの「人為=自然」のエナジーによって傷つき、断片と化した、その場所から立ち上げられたフィクションである。

私たちもまた、この「人為=&≠自然」の裂け目=「穴」の臨界面「フクシマ」に立ちすくむ者たちとして、瞳を凝らすべき倫理的(人間として、いきるべき道という意味で)義務があるだろう。

一時期の「復興物語」が沈静化すれば(そしてそれは早晩避けられまい)、日常という忘却装置がまた働きはじめようとする。

そのときに日本は、そして世界は「フクシマ」をどう記憶し、その「傷」を他人事として丸めて忘却することなく、喚起しつづけていけるのだろうか。

私たち「フクシマ国」の人々にとっても、この「フクシマ」を抱えて生きるべき「日本国」の人々にとっても、大変な課題が示されている。

日本は別にもともと「一つ」ではないし、「みんなで頑張れる」時期は、そう長くない。

そのときに、我々が、社会の便利さによって一元化されたインフラの「内部」の断片としてだけ生き、またぞろ日常性の中にその「裂け目」を忘却していくのか、内部→外部→内部という反転を繰り返しつつ、あるいは反転すべき軸さえも持たずに浮遊し続けつつ傷を受けてほんとうに「断片化」した者として、それでもなお、さまざまな形で開かれた共同性を模索し続けつつけていけるのか。

そういうところが課題だよねえ。

一見NIMBY問題からだいぶ離れてしまったけれど、たとえば津波に被災した沿岸部(元住んでいたところの近く)に仮設住宅を建てるか、安全のためにあくまで離れた高台に仮設住宅を建設するのか、といった具体的な問題一つとっても、単純な正解はないのだろうと思う。

断片ごとに判断が変わる。

それをどこまで許容しつつ、旧に復するばかりではなく、新しい第一歩として踏み出していけるのか。

その支援を厚い基盤としてバラバラにならずに支えていけるのか。

単純に政治や行政のサービスのクオリティ、としてだけ語ることはできまい。

でも、それは細部の多様性と、一元化して支えるべき部分との結節点をどうコーディネートするか、という意味での「政治」や「行政」のクオリティが問われるともいえる。


もともと正解などない「断片」を、たった一つの正解で「一元管理」するのではなく、一元的に明示できることは明確にしつつも、なおどう多様さを支えたまま支援できるのか。

建物、物資、ライフラインの先には、ここ二、三日考えている尊厳の問題が出てくるだろう。

それを考え抜くには、「共同性」や「社会性」を「一元性」と取り違えない瞳の健康がまず必要だ。

そして、一元化しておいて、それが社会の要素として断片化され、数値化されてしまったかに見える個々人を、一つの日本が再度日常性の中に回収してしまわないことだ。

そうではなく、それぞれに傷をもち、切り離されてはいるけれども「断片」として世界(人為=&≠自然)と向き合って生きる存在として遇することができる精神の健康が、求められる。

そういう意味では、「フクシマ国」から「原発」を「輸出」することも必要になるだろう。
「オキナワ」から「基地」を日本国に「輸出」することが必要なように。

そういう一見面倒な「ぐるぐる」を経ていかなければ、被災補償は、単なる原発補助金の延長になってしまう。


ベースになっているのは、戦後自由民主党政権時代に国民がチョイスした結果としての国策(国の官僚だけが国民の危険を無視して暴走したってうストーリーも願い下げです)なんだよね。

この「フクシマ」の地面にぽっかりとあいた洞穴のような「負の裂け目」については、東電という民間企業の補償能力や補償意思の問題ではなく、国が肩代わりして国民が「フクシマ」の補償を負担するっていうストーリーでもなく、つまりはどっかの裏山(自分ちの近くでなく)で誰かが責任をとってくれる出来事ではなく、仕方がないから我慢して払うショバ代のようなものでもなく、

「私たち日本人の傷だ」と引き受けるかどうか、が本当の問題なんだと思う。

そういう種類の傷は、たぶん広島でも、長崎でも、様々な干拓地でも、山間の限界集落でも、普天間でも、さまざまな形でみんなそれぞれの断片が抱えながら生きている。

だから、みんな一つではないのだ。

国民国家的な均質化された想像力とは別の種類の想像力が、今「この場所」では求められている。

バラバラにされ、多様さを数に還元されて、その上で一元化する手続きは、本来限定的に、数量を扱う場面でだけ通用する身振りだったのではないか。

つまりは、システムの中での要素としての断片は、そのシステムの中で意味付けられ、「社会化」してしまう。

ということは、取りも直さず、その日常化=社会化した中で、断片はバラバラにされた上で序列化された存在として再配置されてしまうということだ。

「フクシマ」が断片として闘わなければならないのは、その再配置の働きに対して、である。

一元化された世界像で見てしまうと、断片は単なるバラバラ(よりよく社会化されていないものたち)として遇されてしまう。
他方、バラバラでは生きていけない、となると、均質な共同体がぬっと顔を出す。

なんども繰り返すが、そういうスイッチを切ったり入れたりする二値の交代ではないかたちで、「断片化」を多層に生きる手だてを探せ、と、私たちはいま「啓示」を受けているのではないか。

この項目、まだ続きます。

4月15日(金)のこと<福島県、米の作付け見合わせ>

2011年04月15日 23時55分00秒 | 大震災の中で
福島県内の米作付け見合わせは、13市町村に上った。
いわき市、南相馬市、田村市、川俣町、双葉町、浪江町、大熊町、富岡町、楢葉町、広野町、川内村、葛尾村、飯舘村。

それ以外の市町村は米の作付けがOKなのだそうだ。

ここでも「いわき市」は、難しいところに立たされている。

保留された他の12市町村は全て避難指示区域・計画的避難区域・緊急時避難準備区域のいずれかになっている。

いわき市だけが、なんでもない場所なのに保留だ。
なぜに?と思うのは、いわき市民だけではあるまい。

救援物資の配分・配送が滞っているのも、他の地域に比べて被害状況のアピールが弱いのも市長のせいだ、とか、東京の方に行っていて地元不在の時があったから全てが遅くなるのだとか、政治に頑張ってもらわないと、という期待が市長への批判になって聞こえてくる。

ちなみに私の職場近くの避難所は、一月以上経っているのにいまだに水が出ない。
周辺地域は復旧したのに、避難所だけが断水のままだ。
避難所ぐらい、水の出るところ=トイレとお風呂の心配が少ないところにしてほしいものだが。

一つ一つのことの当否は分からないけれど、なかなかスムーズにことが運ばないのは、いわき市が広すぎるのも一因だろう。

いわき市は単純に面積が広く人口も多い。
米の作付け保留となった13市町村のうち、その他の12市町村は合わせても20万人なのに、いわき市だけで34万人。そして市内の各地区ごとに産業構成も異なっている。
ほんの十年前までは日本一広い市だったわけだし(現在の日本一広い市は清水市と合併した静岡市)。
広大な面積にはりめぐらされた水道管は震災で寸断され復旧に1ヶ月以上かかっている。
さらに4月11日の余震で、また断水が広範囲に起きている。


ほとんど被害がなく、放射線量も十分に低いところもあれば、瓦礫だらけでしかも1ヶ月放置されたために、風評だけでなく本当に累積線量があがってしまい、廃棄物としても、汚染物質としても処理できない「狭間」の瓦礫がなんと290万トンも生じてしまった、という地区もある。

加えて沿岸の津波被害はいわき市においても甚大なのに、一部が屋内待避の円内に入ってしまった結果、物流も人の流れも遅れてしまい、復旧のメドも見えていない。とくに、復旧に不可欠な業者の不足は、さまざまな局面での復興を困難にしている。

そんなこんなでいわき市長は市民からなにかと評判が悪い。
南相馬市長のような怒りを全国に発信することもできず、佐藤知事のように原発被害を強調することもできず、反対に安全性宣言も大きく示すこともできず、風評被害とも十分には戦えなかった。

まあしかし、この1ヶ月誰がやったらうまくいったのか、と考えると、本当に難しい舵取りだったのだろうと思う。

ただ、(ここからは推測の域を出ないが)現いわき市長は、利益の調整や再配分、必要な事業への対応能力は十分ではあっても、こういう非常事態においてもっとも重要な「全体への発信能力・方法の適切な適用・状況定義力」などなどの点には、見るべきものがなかった、ということに尽きるのではないか。
田舎の、単なる調整型の自治体の首長には、いささか今回の舵取りは荷が重かった、ということか。

中途半端に大変さが重なった「いわき市」は、「数値」では汚染で福島市さえ超えられず、被災市民の数では宮城や岩手の町にも及ばない。原発からの距離からしても、微妙に遠い。

だから、目に見える数字や被害を並べただけでは、十分な政治的発信にならない。

だが「権力とは状況定義力」(ミシェル・フーコー)のことだ。
田中康夫元知事でも、東国原前知事でも、石原慎太郎再選知事でも、橋下現知事でも、枝野官房長官でもいいのだが、彼らの政治的武器は、

明らかに言説による「状況定義力」の巧みさと、メディアを意識した発信力の強さだ。ま、もちろんバカじゃ困るから勉強はしてもらわないとこまるし、口先だけじゃ、その「定義力」も長続きしないんだけどねぇ。

いわき市の首長に、上記のような色物的パフォーマーの資質をこんなときだけ願うのは、無い物ねだりだとは知っている。

しかし、今からでもいい。
現況をきちんと発信できる「ことば」を持った人がいわき市にもほしい。
メディアを身近に引きつけて、適切なタイミングで強度を持った「ことば」を世界に向かって差し出せる人が。
今までのような「政治家」ではなくてもいい。

適切に言説権力を行使できるパフォーマーが要るのだ。
それは福島県にも言えることだけれど、玄侑宗久さんとか、西田敏行さんとか、和合亮一さんとか、いないわけではない。

いわき市にもそういう人がほしいな。誰か「ことば」を持った人、選挙に出ませんか?

○×さんとか、▲■くんとか、どうよ(笑)?

(後日、いわき市は完全に制限区域から外れました。米の作付けもできるようになったのかな?それはありがたいことです。「なんでもない場所」としての最前線、いわき市の悩みは続くのでしょうね)






4月14日(木)のこと<カゴメさんありがとう、というべきなのかもしれないけれど>

2011年04月14日 00時07分58秒 | 大震災の中で
カゴメさんありがとう、というべきなのかもしれないけれど。

カゴメが、契約していた福島県のトマト農家に対して買い付け額の1/3の資金援助を行い、今年度は買い付けをしないものの、来年へむけて事業の継続に役立ててほしい、という申し出をした、という報道があった。

ちなみにデルモンテもそれについては検討中、とのこと。

福島の農家をバッサリと切りっぱなしにするのではなく対応してくれたことは、福島県人として素直に感謝したい。

ただ、欲深いことを言わせてもらえば

「自分たちが生殺与奪の権を握っている」

ことがあからさまな順序、

つまり「奪っておいて与える」という身振りじゃなかったらよかったのにね、とつくづく思う。

朝三暮四の話をしたいわけではない。前にいった尊厳の問題として。

必ずしもカゴメさんに限らず、とりあえずより少なく表現してより多くコントロールしたい「欲望」に振り回されて、結果として出来損ないの
「後出しじゃんけん」
みたいになっちゃう危険をさいきんよく感じる。

そういうのは、お互いのために不幸じゃないか。

本気で言葉も金も手間も小出しに出し惜しみして、陰でこそこそうまくやりたい、というならそれはもう論外なんだけど、必ずしもそんなつもりじゃなくて、でも結果として拙いことになっちゃう役立たずの「少し足りない誠実さ」って現象、多いと思う。

もし「奪ってからより少なく与える」という順番自体が、ちゃんとマネージメントされた権力行使のための身振りだとしたなら(つまりはそういう確信犯だとするなら)、もはやコメントするだけ野暮というものかもしれないけど……。


にしてもやっぱりさ、自分たちの権利や権力行使を感じさせるような(あるいは倫理的な意識の不足を露呈するような)身振りを、踏んだり蹴ったりフルボッコ状態的「フクシマ」に対してことさらつきつけなくてもいいだろうにね。

あれ、倫理とは表現問題なのか?
と自問してしまいそうな話ではあるけれど、書いておきます。



4月13日(水)のこと(その2)<二項対立を拒む「断片化」と「公共性」

2011年04月13日 23時14分36秒 | 大震災の中で
余震が続くと心が折れる。

今週始めから、また余震が頻繁になった。

一ヶ月過ぎてからの大規模な余震(いわき市は震度6弱)は、心にかなり負担になっている。

そして追い討ちをかけるような再度の停電と断水。

原発も安定した状態になるまでには数ヶ月から数年(首相の言によれば10年~20年 )かかるとか。

普段私たちは、世界を二項対立でとらえ、その一方を一元化してスタンダードとし、その他を残余として捉える思考方法からどうしても抜け出せずにいるのだが、日々「この場所」にいつづけると、

人間VS自然
揺れている/止まっている
安全/危険
サバイバル状態/インフラの安定的提供

という二項対立がここでは「無効」なのだ、ということが身にしみて分かってくる。

地震が起こったり起こらなかったりしているのではない。

揺れ続けている地盤の上に、私たちは常時乗っていて、体に感じない状態が今まで多少長く続いていただけのことだったのだ。

少し前からこだわっている
「人為=自然」
という概念は、そのことを言おうとしているのだった。

それはふたつを対立させ、分けて考えることによって世界を理解し説明しようとするのではなく、断片化してそこにある我々の間に、多層な「人為=自然」が働きとして出現する瞬間がある、ということが分かること、といってもいい。

人為以前にある自然でもなく、人事の果てに隔絶した超越として示される人為以後の自然ということでもなく、波乗りとかスキーとか、サッカーとか、下手くそだとバッラバラな断片化した動きなのに、それがあたかも調和的に存在するかのような一瞬が現出する、プラスとしてよく示されるのはそういう
「人為=自然」だ。

繰り返しになるが、人為を超克することでもなく、自然をコントロール仕切って一元的に管理することとも無縁な営み。

そういう地平が、私たちの日常にも奇跡のように存在したことを思い出させてくれた、ということです。

私はこのことについて、なかなか言葉を見いだせずにいる。

しかし、激しい余震と長引きかつ繰り返される被災、そして原発事故の不安と不透明のために、私たちは今なお繰り返し「この場所」に引き戻され続けている。

だから、日常に戻って忘却装置を働かせることは、もうできないのだと肌身にしみて知ってしまった。

人間の卑小さとか、逆に人為の偉大さとか、何かを見直せばいい、というような、そういう物語に身をゆだねることも難しくなってしまった。

ひとは古来、何度も何度も「この場所」に立って瞳を凝らし、我々自身のなすべき営みを続けてきたのだ。

もう少しで見えそうな気もするし、いつまでたってもそれは見えるものではないのかもしれない。

ただ、誰も愛でるもののいない中で咲くだろう桜たちを想像する瞳と、完膚なきまでにバラバラになった津波の跡の瓦礫たちとを見つめる瞳との中にたち現れるものを、とりあえず


「人為≠自然」&「人為=自然」

といった形で示してみることしかできない。

放射線も、津波も、およそ人為を寄せ付けない自然の圧倒的な力能なのだが、私たちはそれを、おそらく人為という一元的理解の潰滅において知る。

だから、いま「この場所」に立って見つめる自然は、逆説的なようだがあくまで人為において現れているのだ。

壊滅した街をみる衝撃や、原発事故の影響の大きさに圧倒されることは、自然をそのまま感応しているわけではなく、人為に原因を帰するような分析をした結果の残余の大きさに呆れ恐れているのでもないだろう。

それはまたおそらく、表現系の問題、表象の問題ではない。

考えるべきことの中心から少し離れたところを軸として偏心しながらぐるぐるしているばかりなのだが、このことは、もう少しグルグルしながら考えてみます。



4月13日(水)のこと<夜の森公園の桜を見たい>

2011年04月13日 04時45分37秒 | 大震災の中で
こんな時に言うべきことではないのかもしれないが、この際だから(非常時を理由にするのはずるいだろうか?まあともかく)書いておく。

実は以前、将来引退したら富岡町か双葉町の、原発近くに住みたいな、と思っていたことがある。

原発の近くだからという理由で住みたい、と思ったわけでは必ずしもない。

ただそのとき「何も好き好んで原発のそばに住まなくてもいいだろうに」と自問した記憶はあるから、原発を考慮に入れた上でなお老後をそこで過ごしてもいい、と考えたことは間違いない。

今から二十年以上も前のことだ。

たぶん、原発がいずれ廃炉になって産業としてのにぎわいを失えば、もうそこにはあまり人が住まなくなるだろう。そうすればむしろ静かに老後が暮らせるはずだ、などとさえ思った記憶がある。

今の状況から振り返れば、はなはだ不謹慎な「老後設計」というほかない。

いうまでもないが、こんな大事故は想像もしていなかった。

もうそのころは耐用年数が終わって代替エネルギーもメドが立ち、働き終わった原発はたとえ放射能が残留はしていても、静かにひっそりと佇んでいるのだろう、と想像したのだ。
そんなところには、老人しか住まないだろう、と勝手に結論づけ、その中のひとりになってみようか、という程度の空想、いや妄想だった。

どうしてそんな風に心が誘われたのかといえば、まず理由として挙げられるのは、夜の森公園の桜並木を見たからだ。

富岡町の夜の森公園には、何キロも続く桜並木があり、満開の頃は、花吹雪のトンネルの中を散策することができる。

私はこの桜並木を歩きながら、

「ああ、将来この桜を見て老後を過ごしたい」

と感じたのだ。

30歳ぐらいで「老後」などとは、いささかならず胡散臭いといえばいえる。
しかし、私の中では、ソメイヨシノの美しさと、役目を終えた原発と、老後の自分とは、三題噺ではないがしみじみ抒情をさそうものだったらしい。

もうひとつ心が惹かれたのは、隣町である双葉町に白富士という酒を造る酒屋さんがあって、そこの普通酒はとくに美味ではないのだが、蔵元が趣味に近い形で造っているのか、限定ものの
「しずく酒」
というお酒があまりにもおいしかったからだ。

夜ノ森公園の桜を見る時、前の年の暮れにできた
「しずく酒」
を大切にとっておいて、そのふたつを一度に愛でることができたなら最高だ、とそのときは妄想していた。

三つ目の理由は海の幸。

そのまた海沿いに、請戸という小さな漁港がある。

20代の時、先輩の家が請戸の港の近くで、波の音がどーんと聞こえるぐらいのところに仕事半分遊び半分で泊めてもらったことがある。

その晩、テーブルの上にどんと置かれた大ざるから、はみ出しそうなほどたくさんのヒラガニを振る舞われた。
これがもうあまりにも美味しくて、お腹をこわすほど食べたのが忘れられない。

また、港の前にある食堂では、揚がったばかりの魚料理がだべられる。
秋には鮭が溯上してきて、簗場で食べる鮭汁やはらこ飯がまた最高なのだ。

そんな環境で釣りでもしながら毎日を過ごせたら、どんなにかいいだろう……。

あのとき、確かにそんな空想をして楽しんでいたのだった。

今年ももうすぐ富岡町の桜が咲きはじめる。

おそらく、今は誰一人愛でる人もないまま、放射能の中でひっそりと蕾を膨らませているのだろう。

何の深い考えもなく、ふとあの桜がみたいと思う。

高速で車を飛ばせば一時間半ほどでたどり着けるはずの場所なのに、今は遠い別世界になってしまった。

二十年前と同じように咲いているのかどうかもわからない。

そしてあのときみたいと思った桜が咲くのは今から10年後の未来だ。

私はそのときどこにいて、なにをしているだろう。

またあの夜の森公園の桜の下で花見酒を飲むことができるだろうか。

もしそのときまだいわきに住んでいるなら、お気に入りのオープンカーの屋根を開け、高速を飛ばしてあの桜を見に行こう。
なろうかと、
あんなことがあったけど、大丈夫、こんなにきれいに、なんにも変わらずに咲いているじゃないか、と喜んでやろう。

そして、双葉駅の駅前の酒屋さんであのおいしいお酒を買って、請戸の港に寄って魚を調達したら、先に引退しているはずの、先輩の家を訪ねよう。

やっぱり浜はいいね、といいながら飲み明かそう。

あの夏のヒラガニが食べたいといったら、季節が違うだろ、とおこられるだろうか。

そんなことを、ふと思う。



4月12日(火)のこと<避難地域の見直しが始まった>

2011年04月13日 00時14分29秒 | 大震災の中で
いわき市が抱える困難について

避難地域の見直しが始まった。

飯舘村は計画避難地区になったという。
累積線量が高いのだから、当然の措置ではある。しかし、どうしても対応が遅かった、との印象を拭えない。

IAEAの土壌検査の時には国の基準でいえば大丈夫だ、と数週間前には言っていたのに、結局一ヶ月経ってから、累積線量を「考慮」して計画避難に変更された。
でもさ。
この事故が報道されて一週間程度経ったころには、事態が長期化することは子供でも分かる状況になっていたはずだ。

とりあえず「安全だ」といっておけば住民は言うことを聞く、という程度で政治をやられては困る。

リスクを大きめに計算して安全を図る姿勢は、こういう重大な事故の場合こそ肝要だ。

確かに日本人はパニックなど起こさずに粛々と指示通りに動く。だが、それをいいことに「うるかして」おいてから後出しじゃんけんをする政治には、不信感が募るばかりではないのか。

飯舘村については、ずっと最初の頃から国民全体が(いや、国際的にも!)心配していたと思うのだが、いかがなものだろう。

遅っ!
ってか、このタイミングでの変更が妥当だと評価する市民は少ないと思うよ。

さて。
いわき市の場合はもう少し事情が複雑だ。

今回いわき市は「屋内待避指示」対象になっていた久ノ浜地区がその範囲からはずれ、いわき市全域が、避難や待避を
必要としない「普通の空間」(笑)になった。

枝野長官は
「安全性の観点から問題なければ行政区で線を引いて大丈夫だと判断した」(毎日JPサイト2011年4月11日23時48分)
のだという。

それに先だっていわき市長は、計画避難地区に入らないということは、いわき市は安全だと国が判断したのだ、と理解していると主張(FMいわき)。

4月12日(火)の朝日新聞朝刊では、政府は自治体と調整中とあり、同じ4月12日(火)朝の民友新聞(地方紙)では、いわき市長のコメントが掲載されていた。

微妙にトーンの違いが見える。

ここからは推測だが、いわき市長は市内全域の「安全」を強く主張し、それに応じて政府が判断した、というシナリオを想像してしまうのはうがちすぎだろうか。

実際のところ、屋内待避になっているいわき市北部の久ノ浜が、もし計画待避地区に格上げ指定されてしまったなら、避難開始にむけていわき市全体に対し、
「位置について」
のかけ声がかかったのと同等だ。

そうなると、市内の市民はもとより、いわき市にアクセスする物流関係全体が浮き足立ってしまう危険があるだろう。

そういう意味では、市長が指定区域解除を歓迎して早々とコメントを出したのはうなずける。

だが。

たまたま風向きが北西の方向のときに爆発があり、しかもそのときにたまたま降雨が襲ったために飯舘村の線量が結果として上がったのであって、季節によっては、あるいは今後の爆発と風向きによっては、いわき市にも高線量の放射能が降り注ぐ危険がなくなったわけではない。

そういう意味では、いわき市は難しい舵取りを迫られている。

ある意味でいわき市は、日常生活と原発による「空白の闇」との臨界面ともいえるかもしれない。

一方で「危険だ」と声高に叫べば物流もおぼつかなくなるし、市民も逃げ出してしまう。そしてもし一旦雪崩を打って避難開始、となれば、それ以後の市民生活が成り立たなくなる。

他方「安全だ」といわれて市内にとどまっていれば、結果としては最前線でリスクを意識しつつ日常を生きることになるだろう。その「安全」のかけ声に慣れてしまえば、いざ事故が深刻化したときには準備不足で逃げ切れない、というリスクを背負うことになる。それはかつての福島県民の姿そのものではないのか、という疑問もわいてくる。

いずれにしても難しい。

とりあえずいわき市民としては、いわき市全域の屋内待避解除を受けいれ、飛散放射能の線量が低いうちにできることをできるだけやるしかないのだろう。

津波被害がひどい海岸沿いは、原発事故による汚染の風評が忌避の原因となってか、もう一ヶ月もそのまま放置されてなんの手もいれられてこなかった。

市長が強調する「安全」は、そのあたりの事情に関わる葛藤を踏まえてのことか。

放射線量の比較的低い今の時期、復旧活動を支援してもらうにも、自分たちで動くにも、「安全」宣言が不可欠だったんだよね。

結果、そのまま原発事故が沈静化していけば申し分ない展開になるのですが、都合のよい楽観ほど緊急時に危険なモノサシはないことも確か。

そこにあるのは危険と背中合わせの「安全」なのだと理解し、いわき市民はここからしばらくのあいだ、注意深く「装われた日常」を生きねばならないのかもしれない。

あ。

でもさ、もしかするとそれは別にことさら言うまでもない、誰にでも当てはまる当たり前のことなのかもしれないね。

ただ日常に埋没しているときには気づかないでいるだけのことで。


4月11日(月)のこと(その3)<震度6は余震じゃない!本震だよ……>

2011年04月11日 23時41分03秒 | 大震災の中で
震災からちょうど1カ月。
いわき市では放射線量も逓減し、水も電気もほぼ回復。宅配便も復活して、物流もだいぶ日常に近くなって、ようやく次のことを考えられるようになってきた、と思った矢先、夕方震度6弱の余震におそわれた。
信号は市内全域でストップ。
夕方から深夜まで余震が信じられないほど連続している。
まだ市内半分強で停電が続き、断水は再度市内全域に及ぶかもしれないだという。
夕方の大きな余震以来、地震が起こる度に、さらに大きな地震が起こるのではないか、という不安がよぎる。

これは、一ヶ月前には考えられなかったことだ。あのときは、これ以上の地震など来るはずがない、と、なにか「特別な」心理状態に置かれていたのかもしれない。
一月経って、生活の一部が回復してからの今日の一撃は、正直かなりこたえた。
そんなことは意識していなかったけれど、この一ヶ月緊張と抑圧が続いていたのかもしれない。

今日は、体感できる余震が滅法多い。5分おきにぐらぐら来る。

電気は午後5時の地震から止まったままだし、水も次第に出なくなってしまった。

闇の中で連続する余震を体で感じているのは、当たり前だがあまりいい気持ちはしない。

福島県ではさらに避難区域が広がる、との報道もあったようだ。
なにやらもう幻想の世界に迷い込んだようで、思わず乾いた「笑い」がこみ上げてきそうでこわい。

夜明けが待ち遠しい。

電池で聴けるラジオやテレビが家にないので、クルマのナビが唯一の頼りなのだが、ずっと車の中にいるわけにもいかない。

そこで、大変助かっているのがiPhoneのFMradio
だ。
ローカルFM局がiPhoneで聴ける。しかもバックグラウンドで流せるので、これを書いている最中も、災害&インフラ情報をFMで聴くことができる。

いわきFMとFMradioに感謝しつつ、今日はもう寝ることにします。

飯舘村に対する政府の扱いについて書きたいことはあるけれど、それはまた明日。




4月11日のこと(その2)<友人へのメール>

2011年04月11日 14時49分20秒 | 大震災の中で
昨夜友人に出したメールです。

引用開始ーーーーーーーーーーー

今晩は。
foxydogです。

もう普通に仕事が始まって忙しいですか?
うちの職場は生徒の立ち入りが禁止で、水も出ません。

まだ時間が止まったままです。

土曜日は、福島市で、親戚まわりをしていました。
お葬式やらなかったから、一応挨拶を、ということで。

これも死んだ親父の指示なんだけど。

父親は当時の商家にはありがちなことで、の3歳ぐらいまで里子に出されていたのね。
だから、自分の家にすみ出してからも、いわゆる乳母の家が心のふるさとになっていたらしい。

死ぬ前にも、
「俺は、自分の家に戻されてからも、泣きながら坂の下にある乳母の家の方を見てたんだ」
なんて話はきいてた。

その家にも挨拶にいったら、親父は戦中満州にいたんだけれど、その乳母の家が借金のかたになっててばなさなきゃいけなくなったときに、満州に「雄飛」するときに実家からもらった財産分与金みたいなお金を、親父はその里親の家に全部仕送りして、乳母の家の危機を救ったんだって。

かっちょいい。

なんだか死んだ後にだんだん親父の全体像が見えてきて、不思議な気分になります。
そんな感じで思い出話を何度も何度も親戚まわりしながらしゃべっていたら、いささか気持ちが疲れました〓

で、今日はいわきの海岸線を南から北へ、家族を乗せて走ってきました。

小浜、小名浜、永崎、中之作、江名、豊間、新舞子と回ったのですが、本当にとんでもない惨状です。

特に、海岸線沿いに家が立ち並んでいた豊間は、中学校を含めて、山際まで家がことごとく壊滅していました。
こんなことが身近に起こってしまうのだ、と知らされ、改めて「畏れ」を抱きます。

どうすることもできないことってあるのですね。

隣接する地区では全く何でもない日常が続いているのに、その圏域の中は何一つ残っていない。

無慈悲で容赦なく人為をひたすらなぎ倒していく圧倒的な「チカラ」。

無力感、というのでは足りない。自分とか人間とかと、「それ」を対比することはできない種類の「畏れ」を覚えます。

人為=自然という関係の総体が裂けてしまったことへの「畏れ」なのでしょうか。
単純に
人為=矮小VS自然=圧倒的力
という対比なのではなく。

そういう種類の対比によって分け得る向こう側の「自然」という表現では足りない何かが、人の営みのうえに降り注ぎ、全てを瓦礫に戻してしまっているこのあられもない物凄さ。

考えてみれば「瓦礫」という印象それ自体、人為の壊滅の中にこそ「自然の猛威」を見い出しているってことですよね。

向こう側に自然がいてたまたまこちらにやって来たというだけでは足りない。

なんていうのかな、むしろ全く別次元の、ぱっくり空いた洞穴を覗き込む感じ、とでもいえばいいのでしょうか。

そういう「異和」があるのです。

人為=自然のその総体のとらえ直しを迫られるような文字通り地面から根こそぎひっくりかえされたどうしようもなさ。

簡単には整理できないショックを受けています。

授業は5月からですが、なんだか、社会復帰できるのかどうか心もとないですね。義務免か年休を取って何かせずにはいられない思いがしてきます。自分のところ(職場と自宅)が見通しついてきたので、これからでも何ができるか問い合わせてみようと思います。

なんだかもう、以前と同じ日常はもう営めないかもしれません。

一体なにをどうしていけばいいのやら。

今はしっかり立ち止まって考える時なのだとつくづく思います。

まあ、ゆっくりいきましょうかね。
ではお休みなさい。

引用終了ーーーーーーーーーー

被災を受けた地区を自分の瞳でみておかねば、
という思いがあると同時に、結果として他人の不幸を物見遊山的気分で見ることになってしまうのではないかというためらいの間で葛藤がありました。
1カ月経って、自分の頭の上のハエが追えるようになったところで、訪ねてみようと決心したのですが、やはりショックでした。
自衛隊の方や、外国の支援団体の方も少しだけ活動してはおられたようです。
場所によっては道路脇に被災ゴミが並んでいて、復旧・復興の動きが見える箇所もありましたが、まったく手つかずの場所も少なくありません。
何かできることはないのか。

でも、何も分からない。

とりあえず市民ボランティアについて検索してみます。