ふせちゃんのブログ

布施隆宏 公式ブログ。 鉄道写真 風景写真 ジオラマ制作など 趣味の世界を紹介します。

テハチャピ ループ線

2022-12-09 17:35:01 | ローカル鉄道写真
 世界一有名な 鉄道ループ線と言えば、テハチャピ ループ です。
 YouTubeで素敵な空撮動画を見つけたのですが、ブログへの直貼りを拒否されましたので、以下にURLを付けて置きます。

 https://www.youtube.com/watch?v=RpRGygks_HY&t=6s

 テハチャピループは ユニオンパシフィック鉄道 が所有する路線ですが、Trackage Rights(軌道権免除)契約によって BNSF鉄道 の列車も乗り入れます。 しかも、BNSF鉄道の方が 列車本数が多い めずらしい区間です。

 アメリカでは鉄道会社同士の 機関車のプール運用 を行っているため、他社の機関車を編成に組み込んで運行する事があります。 これによって、カナダの機関車がアメリカ南部の砂漠地帯を走る姿も見かけます。

 全長2kmの貨物列車を 直径200mのループ線で走らせるには、中間補機後部補機 が必要です。

 川崎汽船 商船三井、台湾の エバーグリーン社 はユニオンパシフィック鉄道と契約しています。 デンマークの maersk社 はBNSF鉄道と契約しています。
 つまり、Kライン ONE のコンテナをBNSF鉄道に積載する事はありません。 鉄道模型でコンテナ編成を組むのに注意が必要です。


Tehachapi Loop in 4K

 こちらの動画も上手に編集されています。 サウンドがナイスです。。。


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犬釘 の語源

2022-05-31 19:36:10 | ローカル鉄道写真
 鉄道用レールタイプレート木マクラギ に固定する 犬釘 です。
 左は、日本の鉄道で一般的に使われていたもの。 右は、イギリス型と呼ばれます。

   栃木県日光市の あしおトロッコ館(古河足尾歴史館内)に収蔵しています。




 日本で見かける犬釘は頭部が楕円形の、タートル スパイキ( アメリカ型 )です。




 犬のあたまのような 可愛らしい型をしているのが ドッグ スパイキ。 「犬釘」の語源 です。 鉄道発祥のイギリスや欧州で普及していました。
 アゴの部分でレールを固定し、耳の部分にバールを引っ掛けて引き抜きます。

 線路の両脇にある狭い空間を 犬走り と呼びますが、そちらは古くから 建築用語 として存在しているもので、犬釘等とは関係ありません。。。


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ラックレール

2022-05-24 17:43:21 | ローカル鉄道写真
 国鉄 信越本線碓氷峠横川-軽井沢間 の旧線( 通称:碓氷線 )の アプト式区間で使われていた ラックレール です。 実物は7mありますが、3山分だけ保存しています。

 栃木県日光市の あしおトロッコ館(古河足尾歴史館内)に収蔵しています。




 3本のラックレールが線路の中央に設置され、機関車の車軸の歯車とかみ合います。 3本のラックレールを少しずつずらして置くことで、滑らかに歯車とかみ合います。




 荷がかかるので、右側が変形・摩耗しています。 つまり、右側が軽井沢寄りになります。 歯の左側は摩耗した分を溶接で肉盛りした様な形跡が見られます。

 アプト式鉄道では、機関車は必ず坂道の下側に連結します。 万が一、連結器が外れた場合の、客貨車の逸走防止対策です。




 碓氷第三橋梁( 通称:めがね橋 )です。 現在は遊歩道になっており、上を歩けるようになっています。




 めがね橋の南側に 短いラックレールが突き刺さったのが見えます。 かつてこの上に 直径10cm程の鉄パイプが載っていました。 軽井沢駅と横川駅の間は線路に沿って パイプライン が埋設されていました。

 アプト式区間は輸送重量に制限がありました。 当時、日本海側と首都を結ぶ鉄道は 信越本線しか無く、物資輸送がとどこおっていました。
 新潟県で産出した石油は軽井沢駅まで貨車で運び、パイプラインの自然落下で横川駅まで流し、再び貨車に載せて運搬していました。
 ここで使った鉄パイプは、ドイツ製の シームレスパイプ です。 標高差500m以上の条件下では、日本製の 電縫菅 では強度が持たなかったのでしょう。。。



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双頭レール

2022-05-13 00:00:01 | ローカル鉄道写真
 こちらの写真は、栃木県日光市の あしおトロッコ館(古河足尾歴史館内)に収蔵する 双頭レール です。
 150年前の明治5年に開業した、新橋-横浜間 で使われていたものです。 双頭レールは、摩耗したらひっくり返して再利用できるとして採用されたレールです。 実際には 斜めに摩耗してしまうので、反転させると座りが悪く、使い物になりませんでした。
 なので、開業からわずか5年で すべて撤去されています。

 撤去されたレールは建築資材に転用され、中でも、米子駅のホームの屋根の骨組みとして現存している事が知られています。




 こちらの写真は、リニア・鉄道館 で撮影したものです。

 新橋-横浜間の鉄路の3分の1が海に建設されました。 高輪周辺には 西郷隆盛 ら薩摩藩の武家屋敷があり、のちに海軍の所有地になるのですが、西郷隆盛は鉄道建設よりも軍隊の強化を重視し、鉄道建設用地を提供しませんでした。
 仕方なく、海に築堤を造る事になりました。

 10月14日は 鉄道記念日 ですが、その4か月前に 品川-横浜間が営業運転を開始しています。 築堤建設に時間がかかった為か、品川駅からの暫定開業になりました。
 10月14日は 全線開業の記念日で、明治天皇をはじめ、時の要職者が記念列車に乗車しています。 営業運転は 15日からで、貨物扱いは翌年から始まっています。

 「鉄道とは、町と町を結ぶもの」という印象がありますが、日本で最初の鉄道は 少し意味合いが異なります。 「国際港の横浜港と東京都心を直結するもの」と考えるのが妥当です。
 現に、当時の駅舎と税関は街中ではなく埠頭にあり、貨物線路は船に横付けする位置に存在していました。
 海外から訪れた来賓客は横浜港に降り立ち、列車に乗車して東京都心へと向かいます。 彼らに鉄道を見せる事で、「日本の文明は決して欧米に引けを取るものではありません。」と、アピールしたかったのでしょう。
 大航海時代以来、アジア、アフリカ、南米は長い間 白人種によって支配 されていました。 その脅威にさらされていた 明治政府は必死だったのです。 そんな想いを、この双頭レールから 感じとって頂けたらと・・・。

 ちなみに、日本の線路幅が グローバルスタンダードの 1435mmではなく、1067mmの狭軌になった理由は、イギリスが植民地にしていたインド で 双頭レールの軌道を使っていたので、イギリス人技師がそれを転用させた説が有力です。





 こちらの写真は、新津鉄道資料館 で撮影したものです。 双頭レールは 新橋-横浜(港)間のほか、明治7年開業の 大阪-神戸(港)間でも使われています。 それらの転用品と思われますが、新潟県内の石油関連施設でも 双頭レールが使われていました。
 新潟県は天然ガスのほか、石油も産出しています。 新潟の石油関連の記事は後日投稿します。。。


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足尾線貨物の魅力

2022-03-12 01:05:20 | ローカル鉄道写真
 1985.5.5 13:37  小中 - 神土 1795レ

 短いトンネルの先から、重連機関車の重低音が空気を震わせているのが伝わってくる。 緑深い木立ちの中を進みながら、複式喚呼の警戒吹笛が 谷あいに響き渡った。




 1985.7.28 9:04  間藤 - 足尾本山 1791-1レ

 足尾駅で編成を組み直し、身軽になった列車。 急こう配なのだが、この区間は補機を持たない。
 朝の1791列車は、二回に分けて足尾 - 足尾本山間を往復する。 松木川を渡り、製錬所へと向うところ。




 1987.3.22 12:47  間藤 - 足尾本山 9792レ

 上掲写真の鉄橋を高台から眺めている。 奥は本山小学校。 そして、備前楯山。


旧国鉄足尾線貨物編



足尾銅山・光と影(1)



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樺太(カラフト)鉄道の存在

2021-07-14 19:01:10 | ローカル鉄道写真
 戦前の鉄道地図 です。 北海道開拓の歴史 を 鉄道の観点から見てみたいと思い、いろいろと検索してみました。
< 公的なサイトから 地図の一部をコピーさせていただきました >

 北海道の北、樺太にも 鉄道路線網があった事が解ります。 日本国有鉄道 樺太東線、西線 などから成っています。




 稚内港から210km離れた大泊港まで、8時間かけて定期船が結んでいた事が、当時の鉄道時刻表に掲載されています。
 地図中の赤い線は旅客の航路を示していますが、そのほか多数の漁港が存在しています。 炭鉱もありました。

 近年発行されている日本地図では その存在が抹消されている樺太ですが、70年ほど前まで、これほど発展した場所が日本にあったとは 実に感慨深いです。




 樺太は アイヌ民族 の居住地でした。
 江戸時代、間宮林蔵 が 樺太と大陸が陸続きでないことを確認し、西洋の地図に 間宮海峡 と記載されました。
 当時のロシアは冬になると 自国の全ての港が凍ってしまうため、凍らない港が欲しくて 朝鮮半島や樺太の強奪をくわだてました。
 2WW(第二次世界大戦)後の サンフランシスコ平和条約 により、南樺太はどこの国でもない「帰属未定の地」という扱いなのですが、ロシアが実効支配して現在に至っています。。。



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高崎客貨車区

2021-06-30 17:01:01 | ローカル鉄道写真
1984.7.22 撮影 

 高崎客貨車区 < 未掲載の懐かしい写真を紹介します >

 1982年に 東北・上越新幹線 が開業すると、在来線のダイヤに空きが出来ました。 お座敷列車や団体専用列車の設定が容易になり、空前の ジョイフルトレイン ブームが訪れました。
 鉄道雑誌にはジョイフルトレインの運行表が掲載され、全国を撮影して回る アマチュア鉄道カメラマンが増えた時代です。




 高崎駅に隣接した留置線には 優等列車が停泊する事が多く、人知れず恰好の撮影ポイントになっていました。



1985.6.16  サロンエクスプレス東京 車内 

 時には車内の立ち入りを許可して貰えることもあり、単独の撮影会が始まります。 古き良き時代でした。 









1985.6.16 撮影 






1986.9.27 撮影 

 高崎客貨車区は「くつろぎ」と「やすらぎ」のホームグラウンドです。 ですが両車、早朝出勤&深夜帰宅運用が常なので、週末の昼間に2編成が並ぶのは珍しいです。
 ちなみにこの夜、両編成併結の12両編成で 金沢へと出張しています。






1986.5.3 撮影 



1986.9.27 撮影 

 水戸の81系「ふれあい」との並び。



1986.10.5 撮影 

 トラ90000 を改造した「トロッコ列車」。 4両居るはずですが、1両は検収中でしょうか。




 例によって、車内立ち入り許可。



1987.5.17  JR 足尾線 : 沢入 → 原向 



1986.8.3 撮影 

 高崎客貨車区の在籍車両は他に 12系客車旧型客車 が居ます。
 この頃の旧客は、EF55 の復活運転で「GOGOトレイン」として、上越線:高崎 - 水上 で活躍していました。 トロッコ列車と組む事もありました。






1986.10.5 撮影 

 この日は午後に12系「江戸」が入場予定だったので、トロッコ列車などを写して待っていると、職員さんが「このあと 珍しいのが入って来るよ」と教えてくれました。
 「EF55」の牽く「サロンエクスプレス東京」でした。

 鉄道ファン誌主催のミステリー列車で、ツアー参加者も当日まで行き先を知らされていません。
 どうやらここで、参加者限定の撮影会の予定らしいです。
 ところがそこに、カメラを持った若造が待ち受けて居たものだから、主催者の人はご立腹です。 一人があからさまにムッとした態度で言い寄って来ました。

 こっちこそ、腹立たしいです。




 強い西日の中、「サロンエクスプレス東京」と「江戸」の並び。。。


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高崎第二機関区 ②

2021-06-26 08:00:01 | ローカル鉄道写真
1985.8.17  135mm F8 1/250sec ハーフグレーフィルター

 高崎第二機関区 < 未掲載の懐かしい写真を紹介します >



1984.7.20  210mm F5.6 1/500sec AE

 夏草の茂る引込み線を EF62 が片パン走行。
 本線では両パンを上げる直流機も、分岐の入り組んだ 複数のセクションを渡って行く際は 片パン運転にしないといけません。



1984.7.20  210mm F5.6 1/500sec



1985.4.1 撮影 

 機関区の敷地に入った所にターンテーブルがあります。 イベントの際は EF55 などがグルグル回ってました。



1985.8.17 撮影 



1985.4.1 撮影 

 EF60 の運転席。 運転体験として、ノッチの使い方や抑速ブレーキについて教えて頂きました。



1985.4.1 撮影 



1985.4.2 撮影 



1985.4.1 撮影 



1985.4.1 撮影 

 この頃の EF64 1001 はまだ 一般色でした。



1987.4.2 撮影 

 お座敷列車「くつろぎ号」がミルクキャラメル色に塗装変更したのに伴い、専用機として 茶釜に変更されました。



1987.4.2 撮影 

 となりに居る DD51 はトップナンバーです。 各部のRが大きく、丸いデザインでした。



1985.4.2 撮影 



1987.4.2 撮影 



1986.8.3 撮影 

 直流専用機のとなりに交流専用機。 さすがに パンタグラフは上げられないのかな。



1986.10.11 撮影 

 パンタグラフは上がってますが、ヘッドライトは点灯していません。 架線の給電は停止している様です。



1986.10.11 撮影 

 まさか高崎で、関門トンネルの電気機関車を 目にする事になるとは思いませんでした。
 国鉄として最後の鉄道記念日、記憶に残ります。



1986.10.11 撮影 



1986.10.11 撮影 



1987.4.2 撮影 



1986.10.11 撮影 



1986.10.11 撮影 



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高崎第二機関区 ①

2021-06-21 18:35:45 | ローカル鉄道写真
 高崎第二機関区 < 未掲載の懐かしい写真を紹介します >

 1986年10月の、鉄道記念日 のイベントの写真を中心に掲載します。















1985.4.1 撮影 



1985.4.1 撮影 












1985.4.1 撮影 

 高崎第二機関区の敷地に入るとすぐに転車台があり、ここに EF55 が展示されていました。 復活運転に向けた工事を受ける前の姿です。
 フロント側には連結器が装備されていなかった事が分かります。



1987.4.2 撮影 

 本線運転のため、連結器が取り付けられました。 おでこにはアンテナも設置されています。



1986.7.27 12:05  F22 1/30sec RD100  上越線 : 敷島 → 渋川



1986.8.3 撮影 



1987.4.2 撮影 


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お座敷列車「やすらぎ号」

2021-06-10 20:10:01 | ローカル鉄道写真
 お座敷列車『 やすらぎ号。 < 未掲載の懐かしい写真を紹介します >

 お座敷列車『 くつろぎ号に次ぐジョイフルトレインとして、JNR 高崎鉄道管理局 が誕生させたのが『 くつろぎ号 』です。
 写真は、高崎駅北側の駐車場で 1986年5月3日に行われた お披露目会の様子です。




 編成の両端は 大窓を持つ展望車で、この列車の魅力の一つでした。




 大きなモニターとカラオケ設備。 収納式のイスとテーブル。 “ 走る宴会場 ” になってました。



1986.10.5 13:30  200mm F8 1/125sec ネガ

 やすらぎ号のホームグラウンドである 高崎客貨車区 にて。

 この頃、良く 高崎客貨車区に遊びに行ってました。 木造の建屋の二階が事務所になっていて、ノートに名前と住所を書き込み、列車の撮影を行えます。
 職員さんとの会話も楽しめ、めずらしい列車が入線すると、車内に立ち入らせてもらった事もありました。

 はたして現在でも見学を許可しているかどうかは分かりません。 無断立ち入り厳禁です。




 1987年4月1日、日本国有鉄道が民営化されました。 そのタイミングで 高崎第二機関区 にて、機関車の展示会が行われました。

 EF60型 19号機は やすらぎ号の専用機として、やすらぎ塗装 を纏っての登場です。



2001.3.18 7:03  80mm F4 1/500sec RDPⅢ

 使い回しの良い 485系電車を改造したジョイフルトレインとの置き換えで、やすらぎ号が引退する事になりました。 地元の鉄道ファンは慌てふためいて、撮影に奔走しました。

 この日の やすらぎ号の運用は、高崎 → 上野 → 横川 → 上野 → 高崎。
 写真は、高崎線 : 新町 → 神保原にて。 朝の回送列車。



2001.3.31 11:39  170mm F4-5.6 1/500sec RDPⅢ

 写真は、上越線 : 後閑 → 上牧。 やすらぎ号の最終運転は、蒸気機関車の牽引です。

 季節はずれの雪が舞い始め、居合わせた多くの鉄道ファンの、だれ言うとなく口を突いて出た言葉は「 なごり雪 」。 涙の引退運転になりました。




 間もなくして やすらぎ号の、JRから わたらせ渓谷鉄道 への売却が発表されました。 やすらぎ号は サロン・ド・わたらせ号 として復活しました。

 「 あの日の涙を返して! 」と思いましたが、嬉しい想いの方が上です。
 わたらせ渓谷鉄道にはすでにイベント列車として トロッコ列車が運用されていましたが、梅雨どきや冬季の運転を補完するため、お座敷列車が最適だったのです。
 6両の内の3両を改装し、他の3両は予備車(部品取り)です。




 やすらぎ号の特徴でもある 展望車の大窓が、車両の老朽化を早めてしまいました。 ガラスの重量にフレームが耐え切れず、雨漏りが頻発するようになりました。
 2009年、運用を終了しました。。。


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