ふせちゃんのブログ

布施隆宏 公式ブログ。 鉄道写真 風景写真 ジオラマ制作など 趣味の世界を紹介します。

犬釘 の語源

2022-05-31 19:36:10 | ローカル鉄道写真
 鉄道用レールタイプレート木マクラギ に固定する 犬釘 です。
 左は、日本の鉄道で一般的に使われていたもの。 右は、イギリス型と呼ばれます。

   栃木県日光市の あしおトロッコ館(古河足尾歴史館内)に収蔵しています。




 日本で見かける犬釘は頭部が楕円形の、タートル スパイキ( アメリカ型 )です。




 犬のあたまのような 可愛らしい型をしているのが ドッグ スパイキ。 「犬釘」の語源 です。 鉄道発祥のイギリスや欧州で普及していました。
 アゴの部分でレールを固定し、耳の部分にバールを引っ掛けて引き抜きます。

 線路の両脇にある狭い空間を 犬走り と呼びますが、そちらは古くから 建築用語 として存在しているもので、犬釘等とは関係ありません。。。


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ラックレール

2022-05-24 17:43:21 | ローカル鉄道写真
 国鉄 信越本線碓氷峠横川-軽井沢間 の旧線( 通称:碓氷線 )の アプト式区間で使われていた ラックレール です。 実物は7mありますが、3山分だけ保存しています。

 栃木県日光市の あしおトロッコ館(古河足尾歴史館内)に収蔵しています。




 3本のラックレールが線路の中央に設置され、機関車の車軸の歯車とかみ合います。 3本のラックレールを少しずつずらして置くことで、滑らかに歯車とかみ合います。




 荷がかかるので、右側が変形・摩耗しています。 つまり、右側が軽井沢寄りになります。 歯の左側は摩耗した分を溶接で肉盛りした様な形跡が見られます。

 アプト式鉄道では、機関車は必ず坂道の下側に連結します。 万が一、連結器が外れた場合の、客貨車の逸走防止対策です。




 碓氷第三橋梁( 通称:めがね橋 )です。 現在は遊歩道になっており、上を歩けるようになっています。




 めがね橋の南側に 短いラックレールが突き刺さったのが見えます。 かつてこの上に 直径10cm程の鉄パイプが載っていました。 軽井沢駅と横川駅の間は線路に沿って パイプライン が埋設されていました。

 アプト式区間は輸送重量に制限がありました。 当時、日本海側と首都を結ぶ鉄道は 信越本線しか無く、物資輸送がとどこおっていました。
 新潟県で産出した石油は軽井沢駅まで貨車で運び、パイプラインの自然落下で横川駅まで流し、再び貨車に載せて運搬していました。
 ここで使った鉄パイプは、ドイツ製の シームレスパイプ です。 標高差500m以上の条件下では、日本製の 電縫菅 では強度が持たなかったのでしょう。。。



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双頭レール

2022-05-13 00:00:01 | ローカル鉄道写真
 こちらの写真は、栃木県日光市の あしおトロッコ館(古河足尾歴史館内)に収蔵する 双頭レール です。
 150年前の明治5年に開業した、新橋-横浜間 で使われていたものです。 双頭レールは、摩耗したらひっくり返して再利用できるとして採用されたレールです。 実際には 斜めに摩耗してしまうので、反転させると座りが悪く、使い物になりませんでした。
 なので、開業からわずか5年で すべて撤去されています。

 撤去されたレールは建築資材に転用され、中でも、米子駅のホームの屋根の骨組みとして現存している事が知られています。




 こちらの写真は、リニア・鉄道館 で撮影したものです。

 新橋-横浜間の鉄路の3分の1が海に建設されました。 高輪周辺には 西郷隆盛 ら薩摩藩の武家屋敷があり、のちに海軍の所有地になるのですが、西郷隆盛は鉄道建設よりも軍隊の強化を重視し、鉄道建設用地を提供しませんでした。
 仕方なく、海に築堤を造る事になりました。

 10月14日は 鉄道記念日 ですが、その4か月前に 品川-横浜間が営業運転を開始しています。 築堤建設に時間がかかった為か、品川駅からの暫定開業になりました。
 10月14日は 全線開業の記念日で、明治天皇をはじめ、時の要職者が記念列車に乗車しています。 営業運転は 15日からで、貨物扱いは翌年から始まっています。

 「鉄道とは、町と町を結ぶもの」という印象がありますが、日本で最初の鉄道は 少し意味合いが異なります。 「国際港の横浜港と東京都心を直結するもの」と考えるのが妥当です。
 現に、当時の駅舎と税関は街中ではなく埠頭にあり、貨物線路は船に横付けする位置に存在していました。
 海外から訪れた来賓客は横浜港に降り立ち、列車に乗車して東京都心へと向かいます。 彼らに鉄道を見せる事で、「日本の文明は決して欧米に引けを取るものではありません。」と、アピールしたかったのでしょう。
 大航海時代以来、アジア、アフリカ、南米は長い間 白人種によって支配 されていました。 その脅威にさらされていた 明治政府は必死だったのです。 そんな想いを、この双頭レールから 感じとって頂けたらと・・・。

 ちなみに、日本の線路幅が グローバルスタンダードの 1435mmではなく、1067mmの狭軌になった理由は、イギリスが植民地にしていたインド で 双頭レールの軌道を使っていたので、イギリス人技師がそれを転用させた説が有力です。





 こちらの写真は、新津鉄道資料館 で撮影したものです。 双頭レールは 新橋-横浜(港)間のほか、明治7年開業の 大阪-神戸(港)間でも使われています。 それらの転用品と思われますが、新潟県内の石油関連施設でも 双頭レールが使われていました。
 新潟県は天然ガスのほか、石油も産出しています。 新潟の石油関連の記事は後日投稿します。。。


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