1995年1月17日午前5時46分。あれから、干支が一回りした。でも、あの日あの時のことは、忘れないだろう。
眠っていたのだが、眠りが浅かったせいか、地鳴りを聞いた。これが地鳴りかと思った時に、縦揺れか来た。その縦揺れの大きさから、次に来る横揺れはヤバイぐらい大きいと思った時に、横揺れ。ベッドが左右40センチは動いたと感じられた。
縦揺れと横揺れの間に時間があったから震源はそれほど近くはないと思ったが、横揺れの激しさにベッドから降りてベッドの下に潜り込む余裕なんてなかった。ぼんやりと、(その当時住んでいたアパートの寝室は)頭上がロフトになっていて、それ以外の物が落ちてくる怖れはないけれどアパートが崩れてロフトが落ちてきたら自分は生きていられないかも知れないと思った。少しでもクッションになればと、布団の中に潜り込んだ。恐怖の中、長い数十秒が過ぎた。
終わってみたら、幸い……置いていた家具の位置が地震の揺れに対して直角だったせいか、デスクから落ちかけたパソコンがコードのおかげで床に落ちずに済んだとか、冷蔵庫に入れていた食料がほとんど飛び出していたとかはあったのだけど……背が低くて割れ物を高いところにしまっておかなかったことも幸いして、割れ物ひとつなかった。ただ、電気と水道は止まっていた。
小銭を手にして外に出て、近所のタバコ屋で緑の電話(グレー電話は、停電すると使えない気がしたし、近所にはなかった)に走った。幸い、数人しか並んでなかった。電話の順番を待っている間に、近所では火事が起こらなかったことを確認……どこか遠くでサイレンの音が聞こえていたかも知れない。東京の実家に、早朝で親を叩き起こすのは申し訳ない気はしたが「ともかく無事で元気だから」とだけは伝えた。
帰宅して片づけ物をしてるうちに、7時過ぎだったか、電気が回復した。つけたテレビでは、その頃はまだ関西方面で地震があったとしか伝えていなかったと思う。倒壊した高速道路の映像が電波に乗ったのは、8時半頃だったような記憶がある。
自分のアパートは、電気もガスも通じていた(水道は途中で水道管が破裂していたので、それから2週間ほど、トイレなど生活用水のために破裂したところに水汲みにに行くのが日課だった)し、アパートは壊れ物もなく壁に亀裂が走ったぐらいだったので、仕事場に行ければ行こうとアパートを出た。その1月に人事部門のマネジャーに昇進したばかりで、畑違いではあるけれど非常事態に対処するために出社できる社員は出社した方がいいと思った……この時点で、震源が大阪なのか神戸だったかは、まだ定かではなかったと思う。
バスは通じていたが、阪急神戸線の駅では電車が止まっていた。この時点では、おそらく9時半頃。とりあえず、10時に開店するダイエーで飲み水を買いあさって(この辺りは自分でも冷静な判断だったと思う)帰宅し、今度は別方向のバスに乗ってJR尼崎駅に出たが、ここでも運休。駅前の公衆電話で自分の部下の自宅に電話して、全員の無事を確認した。人事部長である上司に報告したが、その人事部長の家が一番一番震源に近くて被害が大きかったらしいことは、後でわかったのだが……。
この時点で自転車に乗って出社するという選択も考えたのだが、会社への道は大きい国道しかわからなかったし、こういう時に国道のように大きな道は自動車で混んでしまっているだろうし事故も起こっているかも知れないと判断して、その日は水と食料を確保して自宅待機し、テレビで事故の報道を見ていた。刻々と、被害状況が伝わるにつれ、震源地の神戸では大変なことになっているということ、自分の住む市内でも場所によっては家屋が倒壊したり火事が起こったりして犠牲者が出ていることを知った。
幸い、阪急神戸線が翌日には梅田~阪急西宮間が復旧して、私は出社できた(そして、前日に人事部門の誰も出社していなかったことを責められた^_^;……うーん、私以上に遠距離通勤している社員ばっかりだったんだよぅ)。新大阪にある本社でも、スチール製のファイル庫が倒れていたりずれていたりして、もし日中に地震が起こったらもっとひどいことになっていただろうとぞっとした。
それから3ヶ月、人事部門にいたし、非常時には研修どころではなかったので、対策本部に詰めっきりだった。社員と家族の安否の確認(社員に死者はなかったが、社員の家族で亡くなった方が確かふたり……合掌)、会社の財産と敷地内の被害の確認、出社できない社員に対する自宅待機の指示と災害休暇の付与、会社近辺のホテルとアパートを確保して被災した家族に提供したり水道の届かない社員や家族の入浴やシャワーに提供したり、被災した社員の家屋の損害の評価と災害見舞金の設定、その間に移動できる社員は救援物資を積んで被災した社員の家族に災害見舞い。医薬品の会社なので、一般の被災者向けに薬も無償提供された。すべてを思い出しきれないほど、するべきことが山ほどあった。
被災地を訪れたのは、まだ電車が復旧していないがバス便は復旧した、4月頃のことだったと思う。被災した状態が生々しい時期には、救援する物資もすべも持たない自分が訪れても野次馬でしかないと思ったから。胸の中で何度も手を合わせながら、倒壊した木造家屋をいくつも見た。
……あれから12年。亡くなった家族や近親がいる人にとっては、長くもあり短くもあっただろうと想像する。
そして、地震の巣である日本列島にいる限り、どこに住んでいても、その危険はいつでもあるのだということを、心に刻みつける。ことに大都市では、天災に人災が加わるリスクを、意識せずにはいられない。
犠牲者の方々、被災した方々、その方々の近親の方々のために、祈る。この震災からの教訓が忘れられませんように……。
眠っていたのだが、眠りが浅かったせいか、地鳴りを聞いた。これが地鳴りかと思った時に、縦揺れか来た。その縦揺れの大きさから、次に来る横揺れはヤバイぐらい大きいと思った時に、横揺れ。ベッドが左右40センチは動いたと感じられた。
縦揺れと横揺れの間に時間があったから震源はそれほど近くはないと思ったが、横揺れの激しさにベッドから降りてベッドの下に潜り込む余裕なんてなかった。ぼんやりと、(その当時住んでいたアパートの寝室は)頭上がロフトになっていて、それ以外の物が落ちてくる怖れはないけれどアパートが崩れてロフトが落ちてきたら自分は生きていられないかも知れないと思った。少しでもクッションになればと、布団の中に潜り込んだ。恐怖の中、長い数十秒が過ぎた。
終わってみたら、幸い……置いていた家具の位置が地震の揺れに対して直角だったせいか、デスクから落ちかけたパソコンがコードのおかげで床に落ちずに済んだとか、冷蔵庫に入れていた食料がほとんど飛び出していたとかはあったのだけど……背が低くて割れ物を高いところにしまっておかなかったことも幸いして、割れ物ひとつなかった。ただ、電気と水道は止まっていた。
小銭を手にして外に出て、近所のタバコ屋で緑の電話(グレー電話は、停電すると使えない気がしたし、近所にはなかった)に走った。幸い、数人しか並んでなかった。電話の順番を待っている間に、近所では火事が起こらなかったことを確認……どこか遠くでサイレンの音が聞こえていたかも知れない。東京の実家に、早朝で親を叩き起こすのは申し訳ない気はしたが「ともかく無事で元気だから」とだけは伝えた。
帰宅して片づけ物をしてるうちに、7時過ぎだったか、電気が回復した。つけたテレビでは、その頃はまだ関西方面で地震があったとしか伝えていなかったと思う。倒壊した高速道路の映像が電波に乗ったのは、8時半頃だったような記憶がある。
自分のアパートは、電気もガスも通じていた(水道は途中で水道管が破裂していたので、それから2週間ほど、トイレなど生活用水のために破裂したところに水汲みにに行くのが日課だった)し、アパートは壊れ物もなく壁に亀裂が走ったぐらいだったので、仕事場に行ければ行こうとアパートを出た。その1月に人事部門のマネジャーに昇進したばかりで、畑違いではあるけれど非常事態に対処するために出社できる社員は出社した方がいいと思った……この時点で、震源が大阪なのか神戸だったかは、まだ定かではなかったと思う。
バスは通じていたが、阪急神戸線の駅では電車が止まっていた。この時点では、おそらく9時半頃。とりあえず、10時に開店するダイエーで飲み水を買いあさって(この辺りは自分でも冷静な判断だったと思う)帰宅し、今度は別方向のバスに乗ってJR尼崎駅に出たが、ここでも運休。駅前の公衆電話で自分の部下の自宅に電話して、全員の無事を確認した。人事部長である上司に報告したが、その人事部長の家が一番一番震源に近くて被害が大きかったらしいことは、後でわかったのだが……。
この時点で自転車に乗って出社するという選択も考えたのだが、会社への道は大きい国道しかわからなかったし、こういう時に国道のように大きな道は自動車で混んでしまっているだろうし事故も起こっているかも知れないと判断して、その日は水と食料を確保して自宅待機し、テレビで事故の報道を見ていた。刻々と、被害状況が伝わるにつれ、震源地の神戸では大変なことになっているということ、自分の住む市内でも場所によっては家屋が倒壊したり火事が起こったりして犠牲者が出ていることを知った。
幸い、阪急神戸線が翌日には梅田~阪急西宮間が復旧して、私は出社できた(そして、前日に人事部門の誰も出社していなかったことを責められた^_^;……うーん、私以上に遠距離通勤している社員ばっかりだったんだよぅ)。新大阪にある本社でも、スチール製のファイル庫が倒れていたりずれていたりして、もし日中に地震が起こったらもっとひどいことになっていただろうとぞっとした。
それから3ヶ月、人事部門にいたし、非常時には研修どころではなかったので、対策本部に詰めっきりだった。社員と家族の安否の確認(社員に死者はなかったが、社員の家族で亡くなった方が確かふたり……合掌)、会社の財産と敷地内の被害の確認、出社できない社員に対する自宅待機の指示と災害休暇の付与、会社近辺のホテルとアパートを確保して被災した家族に提供したり水道の届かない社員や家族の入浴やシャワーに提供したり、被災した社員の家屋の損害の評価と災害見舞金の設定、その間に移動できる社員は救援物資を積んで被災した社員の家族に災害見舞い。医薬品の会社なので、一般の被災者向けに薬も無償提供された。すべてを思い出しきれないほど、するべきことが山ほどあった。
被災地を訪れたのは、まだ電車が復旧していないがバス便は復旧した、4月頃のことだったと思う。被災した状態が生々しい時期には、救援する物資もすべも持たない自分が訪れても野次馬でしかないと思ったから。胸の中で何度も手を合わせながら、倒壊した木造家屋をいくつも見た。
……あれから12年。亡くなった家族や近親がいる人にとっては、長くもあり短くもあっただろうと想像する。
そして、地震の巣である日本列島にいる限り、どこに住んでいても、その危険はいつでもあるのだということを、心に刻みつける。ことに大都市では、天災に人災が加わるリスクを、意識せずにはいられない。
犠牲者の方々、被災した方々、その方々の近親の方々のために、祈る。この震災からの教訓が忘れられませんように……。