ネタは降る星の如く

とりとめもなく、2匹の愛猫(黒・勘九郎と黒白・七之助)やレシピなど日々の暮らしのあれこれを呟くブログ

『りんごは赤じゃない――正しいプライドの育て方』山本美芽

2007-01-24 22:18:30 | 読書
『りんごは赤じゃない――正しいプライドの育て方』山本美芽(新潮文庫) リンク先はamazon.co.jp

 ひと言でいえば、太田恵美子というスーパー美術教師のドキュメント。しかし、いろいろなことを考えさせられる。

 太田先生は最初から教師だったわけではなく、美大を出て結婚し、二児の母となった。しかし離婚して自立する必要に迫られ、子供たちを祖母に預けながら猛烈な勉強をして学校教師の資格を取った。ひとりの人間として認められないという結婚生活を経て、子供たちに対して、徹底的に、ひとりの人間として責任を自覚させると共に、ひとりひとりを認めるという教育をしている。

 美術の時間を通じて、単に美術の技術を教えるのではなく、大人の話を聞き、クラスメイトの邪魔をしないというマナーを「マナーだから」ではなくて個々の人間同士を尊重するという考え方を通じて学ばせる。「りんごは赤」などという常識にとらわれず、モノに徹底的に向かい合うことによって、その対象物を自分なりに正確に表現する色の使い方を学ばせる。そして、調査研究という自由課題に向き合わせることによって、自己責任でもって選んだ課題と向き合う時には自分が納得するまで物事を追及することの楽しさや工夫したり発想したりすることの喜びを学ばせる。そして、いくつかの課題を通じて、人類が文明の発展と引き換えに自然環境を破壊してきたことの危険性を感じさせ、その中で自分たちがどう生きたいかというビジョンをつかませる。

 簡単に「学ばせる」「つかませる」と書いたが、方法論は、そんなに簡単じゃない。枠組みは示しながらも、その中で中学生たちは自分たちなりにテーマを設定し、様々な工夫をして情報を集め、書き止め、理解し、自分たちの言葉に消化する。そのプロセスの中で、太田先生はひとりひとりの出来栄えのよしあしよりも、全力で課題と向かい合っているかどうかという姿勢を見つめ、どんなに小さなことでも褒めることを忘れない。

 要約してしまうと何となく薄っぺらになってしまうけど、社会人になってからも人は学ぶ、そのプロセスと環境に必要なことを中学校の現場でやってらっしゃるなぁという感想を抱いた。いや、ここまで徹底してひとりひとりと向き合っているだろうかと、自らを省みて忸怩たる気持ちを持つだけのスーパー教師だと思う。

 やっていることの根底にある考え方には、共感を持った。私は選抜された社員に対して自分たちで選んだ課題を分析させて提案するアクションラーニングという手法を使った育成プログラムを何回か実施しているけど、太田先生のスタンスと自分のスタンスには(プロとしての徹底ぶりには差はあるが)大きな違いはない。人は、与えられた課題に対しては「やらされ感」を払拭できないのだけど、自分で選んだ課題に対しては時間を忘れてのめり込むものだ。そして、課題の出来栄えそのものの良し悪しよりも、その課題と取り組んだ自分の姿勢から何かを学ぶのだ。

 そういうことを、中学生の時に学べるのは、何と恵まれた環境だろう。本の中に紹介された太田先生の教え子たちの中にはいろいろな軌跡を辿った人がいるが、太田先生に学んだことを忘れた人はいない。そして、その時に学んだことを、自分の人生の価値観の根っこに持っている。

 当時の教育の体制では、太田先生が必ずしも評価されていないというか、周りの教師仲間からは煙たがれたということも、リアリティをもって感じられた。特に、太田先生が教えた学校のある神奈川県ではアチーブメントテストと内申書で進学が左右される教育体制だった。その中で、相対評価をしなければならない太田先生は、その仕組みに反対を唱えつつも相対評価をしなければならないことを生徒に泣きながら謝っていたそうだ。

 信念を形に実現することの難しさ、信念と言行を首尾一貫させることの難しさとそれを徹底することによってできる生徒との信頼関係、周囲の同僚からの嫉妬や不協和音にさらされながら信念を貫くことの難しさ、そんなことも感じた。

大前研一のツッコミに頷く

2007-01-24 13:01:06 | 時事
「産業突然死」の時代の人生論 大前研一
第62回 格差是正はばらまき行政につながる

 大前研一による、安倍首相の念頭記者会見へのツッコミぶりは、論理的思考法・クリティカルシンキングを習った人にはよくわかるんじゃないかな。

 2007年の年頭記者会見で、安倍首相は「美しい国に向かってたじろがずに一直線に進んでいく覚悟」と抱負を述べた。そのなかで内閣の最重要課題として教育改革を挙げ、問題の多い社会保険庁は解体し合理化して信頼される組織にすると強調した。

 しかしわたしは、この会見を聞いて「これだから疲れてしまうのだよ」と非常に悲しい思いにとらわれたのである。そもそも安倍首相は「美しい国」と言いつつ、何が美しいかについて言及していない。景色が美しい国にしたいのか、人が美しい国にしたいのか、街が美しい国にしたいのか、美しいマスゲームがしたいのか、わたしにはさっぱり分からない。首相本人は何が美しいのか分かって言っているのだろうか。一度彼の頭の中をのぞいてみたい衝動に駆られる。


 そもそも「美しい国」とは、何が美しければ美しい国と言えるのか(対象)、その対象がどういう状態になったら「美しくなった」と言えるのか(基準)、その判断を誰がどういう方法で行うのか(評価・検証)。

 大前氏は「一度彼の頭の中をのぞいてみたい衝動に駆られる」と、やんわり表現しているが……何をもって「美しい国」とするか、3つの要素が全て曖昧なまま「美しい国」というスローガンに満足している安倍首相の頭の中には、情念だけがあって、論理的思考力はないように思う(苦笑)。

 さらに大前氏は、安倍首相の国語力不足(または論理思考の不足)、論理矛盾を指摘する。

 驚くべきは冒頭発言である。安倍首相は「昨年は美しい国づくりに向け礎を築けた」と言っている。しかし、それは本当だろうか。みなさんも「ええっ? 美しい国づくりの礎って出来たの?」と驚いたに違いない。わたしも「美しい国づくりに関する動きが何かあったろうか」と思い返してみても心当たりがない。

 首相が胸を張って述べているところを見ると、教育基本法改正のことかもしれない。だが、あの改正でも美しい国の定義はしていないのだ。それに美しい国実現のためというより、彼本人の長年の夢を強引に通しただけという程度のものではないか。もしそのことを指して「美しい国づくりの礎」と言っているのであれば、非常に甘っちょろいとしか言いようがない。やはり美しい国の定義は不明瞭なままで、実像も見えず方向性も混乱しているこの言葉を内閣のキャッチフレーズにしていてもまったく意味がない。

 さらに冒頭では、今年は「美しい国づくり元年」にしたいとも言っている。これに至っては、もう言葉そのものがおかしい。「去年、礎が築けた」とするのであれば、美しく正しい日本語の常識に基づいて考えると、「美しい国づくり元年は去年」ということになるのだ。


 こうして見ていると、安倍首相にはイメージ論・情緒でしか語れない人だなーと思うのだが、さらに大前氏はツッコミを入れる。クリティカルシンキングを習った人には、「まさにそれ!」というツッコミだ。

 意味不明なのはこれだけではない。最重要課題とされている教育再生についても必要な改革を行うとは宣言しているが、肝心の教育再生会議の方向性がさっぱり見えてこない。向かう先の見えないまま改革が行なえるのだろうか。

 例えばこのたび提出された教育再生会議の答申を見ると、ほとんどが問題点の裏返し、となっている。教育の現場で起こっている問題点を羅列して、それらに対策を、と言っているのである。しかし、問題はより深いところにあるのであり、現れてくる現象は結果に過ぎない。

(中略)

 そもそも教育改革というのは(1)ズリ落ちてきている平均値を上げることに目的があるのか(今回の提言はほとんどこの目的でなされている)、(2)トップグループをどこまでも伸ばしていく方向にもっていくのか――そこの議論から始めなくてはいけない。もちろん私は21世紀に日本が今の生活を維持していくためには(2)を極めていくしかないと思っている。少なくとも(2)を担保した上で、(1)の問題を補足的に考えなくてはいけない。


 まず、教育再生会議が挙げている「問題点」「対策」については、「教育の現場で起こっている問題点を羅列して、それらに対策を、と言っているのである。しかし、問題はより深いところにあるのであり、現れてくる現象は結果に過ぎない」と指摘している。これは、言葉を変えると、表面的な症状を挙げているに過ぎず、問題の原因分析ができていないと言っているのと同じだ。そして、問題点の原因がつかめていなかったら、その対策だって所詮は対症療法に過ぎず、根本的な解決には至らない。

 そして、そもそも教育再生は、平均点を底上げすることをゴールにするのか、優秀な人材を育成することをゴールにするのか、と問い掛ける。これも、クリティカルシンキングではおなじみだが、問題の原因を分析し、その原因に対して解決策を出していく過程においても、前提がある。教育再生のゴールが「底上げ」か「優秀な人の育成」によって問題分析から解決策を選別していく過程で判断基準が変わるだろう、という、しごくもっともな話である。

 このように首相の会見を細かく一つひとつ突っ込んでいけばきりがない。首相一人が美しい国と盛り上がっているが、国民である我々にはその実感がないのだ。それなのに、首相本人は実現したような気になっている。それが本当に恐ろしいところだ。


 私はその会見を見たいとも思わなかったが、大前氏のこの感想にはまったく同感だ。特に「それが本当に恐ろしいところだ」というところに。

 日本の首相が日本一頭のいい人である必要はない。首相として何をなすべきかを的確に理解する能力があれば、どうやって問題解決をするかは頭のいいその道のプロに任せることができる。

 しかし、今何をすべきかを「美しい国」という曖昧な言葉でしか理解していなくて、かつ、自分がしてきたことをその曖昧な基準で「できている」と自己評価してしまう自己満足の人に、今の日本を任せていいのだろうか。

 大前氏の再チャレンジ施策に関する論評にも触れたいところだが、これは首相の論理的思考力とは別の切り口でとらえたいと思うので、別項で取り上げる予定。