『りんごは赤じゃない――正しいプライドの育て方』山本美芽(新潮文庫) リンク先はamazon.co.jp
ひと言でいえば、太田恵美子というスーパー美術教師のドキュメント。しかし、いろいろなことを考えさせられる。
太田先生は最初から教師だったわけではなく、美大を出て結婚し、二児の母となった。しかし離婚して自立する必要に迫られ、子供たちを祖母に預けながら猛烈な勉強をして学校教師の資格を取った。ひとりの人間として認められないという結婚生活を経て、子供たちに対して、徹底的に、ひとりの人間として責任を自覚させると共に、ひとりひとりを認めるという教育をしている。
美術の時間を通じて、単に美術の技術を教えるのではなく、大人の話を聞き、クラスメイトの邪魔をしないというマナーを「マナーだから」ではなくて個々の人間同士を尊重するという考え方を通じて学ばせる。「りんごは赤」などという常識にとらわれず、モノに徹底的に向かい合うことによって、その対象物を自分なりに正確に表現する色の使い方を学ばせる。そして、調査研究という自由課題に向き合わせることによって、自己責任でもって選んだ課題と向き合う時には自分が納得するまで物事を追及することの楽しさや工夫したり発想したりすることの喜びを学ばせる。そして、いくつかの課題を通じて、人類が文明の発展と引き換えに自然環境を破壊してきたことの危険性を感じさせ、その中で自分たちがどう生きたいかというビジョンをつかませる。
簡単に「学ばせる」「つかませる」と書いたが、方法論は、そんなに簡単じゃない。枠組みは示しながらも、その中で中学生たちは自分たちなりにテーマを設定し、様々な工夫をして情報を集め、書き止め、理解し、自分たちの言葉に消化する。そのプロセスの中で、太田先生はひとりひとりの出来栄えのよしあしよりも、全力で課題と向かい合っているかどうかという姿勢を見つめ、どんなに小さなことでも褒めることを忘れない。
要約してしまうと何となく薄っぺらになってしまうけど、社会人になってからも人は学ぶ、そのプロセスと環境に必要なことを中学校の現場でやってらっしゃるなぁという感想を抱いた。いや、ここまで徹底してひとりひとりと向き合っているだろうかと、自らを省みて忸怩たる気持ちを持つだけのスーパー教師だと思う。
やっていることの根底にある考え方には、共感を持った。私は選抜された社員に対して自分たちで選んだ課題を分析させて提案するアクションラーニングという手法を使った育成プログラムを何回か実施しているけど、太田先生のスタンスと自分のスタンスには(プロとしての徹底ぶりには差はあるが)大きな違いはない。人は、与えられた課題に対しては「やらされ感」を払拭できないのだけど、自分で選んだ課題に対しては時間を忘れてのめり込むものだ。そして、課題の出来栄えそのものの良し悪しよりも、その課題と取り組んだ自分の姿勢から何かを学ぶのだ。
そういうことを、中学生の時に学べるのは、何と恵まれた環境だろう。本の中に紹介された太田先生の教え子たちの中にはいろいろな軌跡を辿った人がいるが、太田先生に学んだことを忘れた人はいない。そして、その時に学んだことを、自分の人生の価値観の根っこに持っている。
当時の教育の体制では、太田先生が必ずしも評価されていないというか、周りの教師仲間からは煙たがれたということも、リアリティをもって感じられた。特に、太田先生が教えた学校のある神奈川県ではアチーブメントテストと内申書で進学が左右される教育体制だった。その中で、相対評価をしなければならない太田先生は、その仕組みに反対を唱えつつも相対評価をしなければならないことを生徒に泣きながら謝っていたそうだ。
信念を形に実現することの難しさ、信念と言行を首尾一貫させることの難しさとそれを徹底することによってできる生徒との信頼関係、周囲の同僚からの嫉妬や不協和音にさらされながら信念を貫くことの難しさ、そんなことも感じた。
ひと言でいえば、太田恵美子というスーパー美術教師のドキュメント。しかし、いろいろなことを考えさせられる。
太田先生は最初から教師だったわけではなく、美大を出て結婚し、二児の母となった。しかし離婚して自立する必要に迫られ、子供たちを祖母に預けながら猛烈な勉強をして学校教師の資格を取った。ひとりの人間として認められないという結婚生活を経て、子供たちに対して、徹底的に、ひとりの人間として責任を自覚させると共に、ひとりひとりを認めるという教育をしている。
美術の時間を通じて、単に美術の技術を教えるのではなく、大人の話を聞き、クラスメイトの邪魔をしないというマナーを「マナーだから」ではなくて個々の人間同士を尊重するという考え方を通じて学ばせる。「りんごは赤」などという常識にとらわれず、モノに徹底的に向かい合うことによって、その対象物を自分なりに正確に表現する色の使い方を学ばせる。そして、調査研究という自由課題に向き合わせることによって、自己責任でもって選んだ課題と向き合う時には自分が納得するまで物事を追及することの楽しさや工夫したり発想したりすることの喜びを学ばせる。そして、いくつかの課題を通じて、人類が文明の発展と引き換えに自然環境を破壊してきたことの危険性を感じさせ、その中で自分たちがどう生きたいかというビジョンをつかませる。
簡単に「学ばせる」「つかませる」と書いたが、方法論は、そんなに簡単じゃない。枠組みは示しながらも、その中で中学生たちは自分たちなりにテーマを設定し、様々な工夫をして情報を集め、書き止め、理解し、自分たちの言葉に消化する。そのプロセスの中で、太田先生はひとりひとりの出来栄えのよしあしよりも、全力で課題と向かい合っているかどうかという姿勢を見つめ、どんなに小さなことでも褒めることを忘れない。
要約してしまうと何となく薄っぺらになってしまうけど、社会人になってからも人は学ぶ、そのプロセスと環境に必要なことを中学校の現場でやってらっしゃるなぁという感想を抱いた。いや、ここまで徹底してひとりひとりと向き合っているだろうかと、自らを省みて忸怩たる気持ちを持つだけのスーパー教師だと思う。
やっていることの根底にある考え方には、共感を持った。私は選抜された社員に対して自分たちで選んだ課題を分析させて提案するアクションラーニングという手法を使った育成プログラムを何回か実施しているけど、太田先生のスタンスと自分のスタンスには(プロとしての徹底ぶりには差はあるが)大きな違いはない。人は、与えられた課題に対しては「やらされ感」を払拭できないのだけど、自分で選んだ課題に対しては時間を忘れてのめり込むものだ。そして、課題の出来栄えそのものの良し悪しよりも、その課題と取り組んだ自分の姿勢から何かを学ぶのだ。
そういうことを、中学生の時に学べるのは、何と恵まれた環境だろう。本の中に紹介された太田先生の教え子たちの中にはいろいろな軌跡を辿った人がいるが、太田先生に学んだことを忘れた人はいない。そして、その時に学んだことを、自分の人生の価値観の根っこに持っている。
当時の教育の体制では、太田先生が必ずしも評価されていないというか、周りの教師仲間からは煙たがれたということも、リアリティをもって感じられた。特に、太田先生が教えた学校のある神奈川県ではアチーブメントテストと内申書で進学が左右される教育体制だった。その中で、相対評価をしなければならない太田先生は、その仕組みに反対を唱えつつも相対評価をしなければならないことを生徒に泣きながら謝っていたそうだ。
信念を形に実現することの難しさ、信念と言行を首尾一貫させることの難しさとそれを徹底することによってできる生徒との信頼関係、周囲の同僚からの嫉妬や不協和音にさらされながら信念を貫くことの難しさ、そんなことも感じた。