大峰正楓の小説・日々の出来事・日々の恐怖

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大峰正楓の小説・日々の出来事・日々の恐怖

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A,日々の出来事

☆( 1年間366日分の日々の出来事  )

B,日々の恐怖

☆( 日々の恐怖 )

C,奇妙小説

☆(  しづめばこ P574 )                          

日々の恐怖 ワイの話 (6) アパートの子

2018-04-30 19:38:29 | B,日々の恐怖






  日々の恐怖 ワイの話 (6) アパートの子






 小4の春、ワイは一時期だけ叔父の家に住んどった。
家庭的な事情は割愛するが、実家から離れた県庁所在地にある叔父一家のマンションにお世話になってた。
 叔父の息子はよくしてくれて、マンションの子らとワイを引き合わせてくれて、皆でマンションの中庭でよく遊んどった。
そのとき、だるまさんがころんだを中庭でやる時にルールがあった。

“ アパートの子が来たら解散。”

 マンションの裏手に藪があって、その奥に小さな木造アパートがあったらしい。
そこの子が、だるまさんがころんだに、いつの間にか混ざることがある。
 まぁ今だから言えるが、アパートとの経済的格差を意識して、マンションの親たちが代々言い聞かせたことが受け継がれただけかもしれん。
そして混ざるのは生きた子じゃないことも、マンションの子供たちには暗黙の了解として認知されとった。
 その日、ワイがだるまさんの鬼をやった。
従兄弟含めマンションの子が6人くらいおった気がする。
 何回目かの、

「 だるまさんがころんだっ!」

の掛け声で振り返ったとき、中庭の隅っこに知らん男の子がおったような気がした。
背の低い髪の短い子やった。
 身なりは普通で、幽霊めいたところはなかったように思うんやが、中庭に入るにはオートロックで仕切られたマンションの通路を通らなあかんし、知らんマンションの子が入ってきたら普通は誰か気づく筈や。
ワイはブルッと来たが確証が無かったため、とりあえずだるまさんを継続することにした。
 ところが振り返るたびに、その子が近づいてくる。
庭木の陰、分電盤の下、すぐ目の前の排水管の陰・・・・。
 ワイは、

「 この子にタッチされたらどうなるんや・・・・?」

と思った。
そしたら、めちゃめちゃ怖くなった。
 そして、

「 だるまさんが・・・・。」

と言った時、肩を、

“ ぽん。”

と叩かれた。
 半分小便漏らして(これは叔母に苦笑されたからよう覚えてる)振り返ると、楽しげにスタート地点へかけ戻るマンションの子たちの背中が見えた。
 誰かが普通にタッチしたんやろうな。
その中にあの男の子はおらんやった。
 その後、従兄弟含め皆がが鬼をやって、別の遊びもして夕方には解散した。
帰りのエレベーターの中で、従兄弟がワイに、

「 男の子だったど?」

と突然言った。

「 一人混じっとった男の子、見たど?」

聞けば従兄弟か鬼のときも、知らん男の子か混じっていたらしい。
 ワイはさらに肝が冷えたが、実はこれは初めてでは無いらしい。
だるまさんがころんだだけでなく、例えばゲームボーイを持ち寄って中庭で遊んでいるときも、不思議そうに覗き込む男の子の視線を幾度も感じてたらしい。
 ワイはルール通り解散しなくて良かったんか聞いたと思うが、従兄弟が何と答えたか覚えとらん。
 多分、実害がないからほっといてるとか言われたと思うんやが、

“ 従兄弟は、だれでも遊びに混ぜてくれるような優しいヤツなんやなぁ・・・。”

って感心した覚えがある。
 その後、叔父の家から実家に戻って、ワイはあのマンションに一度も行ってない。
次の盆に従兄弟とあったら、あのときのことを改めて聞いてみようと思っとる。

















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日々の出来事 4月30日 ジョージ・ワシントンと桜の木

2018-04-30 10:40:54 | A,日々の出来事_







  日々の出来事 4月30日 ジョージ・ワシントンと桜の木







 今日は、ジョージ・ワシントンが初代アメリカ合衆国大統領に就任した日です。(1789年4月30日)

『 うわ~、誰だ、桜の木を切ったのは!』
『 僕です、お父さん。
 ごめんなさい。』
『 よく正直に言った、偉いぞ。』

お父さんは、ワシントンが正直だった事を喜びました。

 マウントヴァーノン教区の牧師、メーソン・ロック・ウィームズは出版社に言いました。

「 おい、本屋、これを、第五版から載せようぜ。」
「 いいのか、こんなでっち上げを載せて。」
「 いいの、いいの。
 これで、“逸話で綴るワシントンの生涯”は、もっと売れるぜ、イッヒッヒ!」

かくして、世界中の人々がメーソン・ロック・ウィームズに騙されました。
そして、今も、騙され続けています。
さらに、マウントヴァーノン教区も嘘っぱちで、存在しておりません。

みなさん、騙されてはいけないのです!












   ジョージ・ワシントンと桜の木



















☆今日の壺々話














   小学校の授業風景








先生が質問しました。

「 ワシントンが桜の木を切ったことを正直に話したとき、彼の父親はすぐに許しました。
何故だか分かりますか?」
「 は~い。
ワシントンはまだ斧を持っていたからだと思います。」





















     混乱







 小学高学年か、中学?ぐらいの可愛い女の子二人が電車の中で。

女の子1「さくらちゃんが好きなのはあきら君なんだけど、あきら君はけいた君が好きなんだよ。」

自分:Σ(´Д`;

女の子2「そうなんだ。でもけいた君はかおりちゃんが好きなんじゃなかったっけ。」
女の子1「そうだよ。でもかおりちゃんは、さくらちゃんかあきひろ君か、どっちを選ぶか悩んでた。」

自分:Σ(´Д`lll

女の子2「うまくいかないねー。」
女の子1「ねー。」


乱れてる、乱れてるよ!!(゚∀゚;



 コメント

個人的にはあきら君の恋が実ってほしいですw。























  質問









質問
『 どっかで見たんだけど、“年代順でモテるヤツの分類”ってどんなんでしたっけ?』




(1)、これではないですか?

モテる男の子のタイプは成長過程で3度変わる。
昔、モテる男の子のタイプは成長過程で3度変わると聞きました。

小学生でモテるのはとにかく面白い男の子。
中学生になるとモテるのは運動のできる男の子。
高校生になるとモテるのは頭のいい男の子。
大学生になるとモテるのはお金持ち。

思い返してみて、どうですか?
あってないですか?

私が思ったのは、確かに、運動のできる子がモテるのは中学生・・・。
体育祭が懐かしい。
歳を重ねると全くどうでもいい条件になってしまっています。



『 うーん、似てるけど違う・・・惜しい!!』



(2)、こんときの質問に似てますね。

ある年齢毎にかっこよさの基準というものがあると思います。
小学生ならばスポーツができること、中学生ならば不良っぽいこと、高校生ならば勉強ができること、オシャレであること、など。
そして、私は30代にさしかかりましたが、また基準が変わりつつあるのを感じつつあります。



『 これも正解ではないなぁ・・・。』



(3)、これですか?

小学校:運動できる奴がモテる。
中学校:不良がモテる。
高等学校:純粋にイケメンがモテる。
大学:社交的な奴がモテる。
社会人:金持ちがモテる。



『 おおおおお、限りなく記憶のものに近いです!!!!』



(4)、これで、どう?

小学生のモテるやつ→多種多彩
中学校のモテるやつ→主にスポーツできるやつ
高校生のモテるやつ→イケメンとか清純そうなやつとか
大学生のモテるやつ→話とかが面白いやつ
社会人のモテるやつ→一流企業、年収


小学校→身体能力の高い体のきく奴の勝ち。足が速いと効果大。
中学校→一生懸命やれば、何でもそこそこ。できないと思われている奴の一生懸命さには皆優しい。
高校 →器用さがすべて。運動能力関係ねー。


小学校→運動神経
中学校→身長
高校→筋力
大学→話力
社会→実力


小学校では足の速い人にキャーキャー言っ、て
中学校ではヤンキーに憧れ、
高校・大学では話の面白い人を好きになり、
社会人では金のある人を狙うもんなんだよ。


小学校・・・体育が得意な子が注目のまと
中学校・・・勉強の出来る子に視線がシフト
高校・・・・だんぜんきれいな子に人気集中
大学以降・・実家の実力(女みがくのもお金がかかる)



『 おおおおおおおおおおおおおおお、あなたの優しさに感謝!!! 』



(5)、おおおおおおお、こーだ!

小学校・・・ちびでいじめられる。
中学校・・・なまいきでズボン脱がされる。
高校・・・・ホモに初体験奪われる。
大学以降・・性犯罪で警察に捕まる。



『 ちょちょちょwww~、俺の求めてるもんとちゃうwww~。』




















コンビニ








 さっきコンビニ行ったら、ガキが安いお菓子をポケットに入れて店を出て行った。
俺もそのまま追いかける形で店出たら、そのガキが5〜6軒先の本屋の前で立ち止まって、 店の外で回転するラックんとこで昆虫図鑑みたいの見始めたんで声をかけた。

「 さっきの店から持って来たモン、俺が謝って返しといてやるから、もうやるな。」

って。
 そのガキ、しばらく唇噛みながら俺をじっと見つめてたんだが、だんだん目に涙が浮かんで来て、

「 ごめんなさい。」

って言いながらポケットから菓子出して俺に渡した。
色々有ると思うけど、男はどんな時でも間違った事だけはしちゃいけねえよ、みたいな事を軽く説教してやった。
 ガキはずっと黙ってたが、俺がじゃあなって行こうとしたら、後ろから袖を引っ張って、俺の目を真っ直ぐ見つめながら、

「 もう絶対しない・・・、男だから。」

って強い口調で言った。
俺、その菓子食いながら家に帰った。





















チャリ







 俺は中学の頃、チャリのケツに乗っけてもらってて、警官に怒られたことがある。
癪にさわったから、地面につま先付けて腰だけわずかに荷台から浮かして、よちよちガニマタで歩いた。
前のヤツも俺の行動に、

「 文句ねーだろ!これで文句ねーだろ!」

って言って、わあわあわめいた。
 警官は穏やかそうなおじさんだったけど、

「 よし!それならいい、気を付けるんだよ!」

とにこやかに俺を眺めてやがる。
むかつく。
 俺たちはそのまま、よちよち歩きだしたんだけど、振り向くと警官は笑顔でまだ見てる。
かなり歩いて、振り返ってもまだ見てる。
 やがて股関節が痛くなって、泣きそうになってきたんだけど、友人も俺に気をつかってプルプルしながら必死で低速運転してるし、そのままひたすら進んだ。
俺は苦痛に耐えながら、なんでこんな事をしてるのか、さっぱりわからなくなった。
たぶん友人もそうだったと思う。
 ただ、俺は必死で震えながら歩いていた。
春の柔らかい日差しの中、すごく桜がきれいだった。

















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4月29日(日)のつぶやき

2018-04-30 09:44:53 | _HOMEページ_



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日々の出来事 4月29日 飛行機

2018-04-29 09:36:02 | A,日々の出来事_







  日々の出来事 4月29日 飛行機







 今日は、日本で始めてプロペラ飛行機が空を飛びました。(1891年4月29日)

「 今日の昼飯は、うまいなぁ~。」
「 カァ~ア、カァ~ア。」
「 おや、カラスが飛んで来たぞ。」
「 !」

これにヒントを得た二宮忠八は、1891年、4月29日、プロペラ式模型飛行機を香川県の丸亀練兵場で3mの滑走の後10m飛行させました。

「 よし、次は、有人飛行機だ!
でも、資金が無い。
陸軍に頼もう。」
「 却下!」
「 仕方ない、薬屋で働いて資金を貯めるぞ!」

二宮忠八が支店長になるまで、10数年開発は停滞しました。
そして、いよいよ資金が貯まって来たので再開です。

「 よーし、後は、この玉虫型飛行機にオートバイのエンジンを載せるだけだ。
さあ、新聞でも読むか。
えっ、何、ライト兄弟が飛行機で、空を飛んだって・・。
が~ん、ショック!
遅かった・・・。」

そして、傷心の二宮忠八は開発を中止しました。
 こうして、ライト兄弟より早く有人飛行機に着手した二宮忠八の研究は終わってしまいました。
開発が停滞しなければ、二宮忠八は世界の歴史に名を残せたのかも知れません。
後に、軍部は、この研究を評価し直し、二宮忠八を表彰しております。
また、却下したことに関して謝罪しております。
 二宮忠八は、その後、飛行機事故で亡くなった人を弔うために飛行神社を設立、自ら神主になりました。
飛行神社は、京都府八幡市にあり、今も自衛隊の偉いさんが毎年お参りに来ています。
祭神は、天磐船に乗って地上に降臨した饒速日命を祭っています。










二宮忠八飛行機(模型)


























☆今日の壺々話












         脱出








 ある飛行機にM・ジョーダン、M・ジャクソン、ビル・ゲイツ、そして少年と老神父が乗り合わせていました。
しばらくすると、突然機体は激しく揺れだし、続いて機長のアナウンスが響きます。

「 えー、当機は間もなく墜落します。
 しかし幸い下は海、用意されたパラシュートは5つ、皆さんの幸運を祈ります。
 グッドラック!」

そう言うと、機長はパラシュートをひとつ掴み飛び降りました。

「 俺は世界一のプレーヤー、世界の人間が俺を必要としている!」

そう言うと、M・ジョーダンはパラシュートを手に飛び降りました。

「 俺は世界一の歌手、世界の人間が俺を必要としている!」

そう言うと、M・ジャクソンもパラシュートを取り飛び降りました。

「 俺は世界一頭のいい男、世界の人間が俺を必要としている!」

そう言うと、ビル・ゲイツもまたパラシュートをひっさらって飛び降りました。

残されたパラシュートはひとつ、老神父は優しく微笑んで言いました。

「 少年よ、ワシは十分に生きた。
 それはお前が持って行きなさい。」

老神父の言葉に少年は答えました。

「 大丈夫だよ、神父様。
 あの世界一頭のいい男は、僕のリュックを持って行ったんだ。」






















大空








幼稚園・・・手を思いっきり羽ばたかせれば飛べると思い、自宅の2階から決行。足首を骨折。

同年・・・・骨折治癒後、高さが足りなかったと分析 今度は2階屋根上から決行・・・、する前に親に見つかり未遂。

消防1年・・忍者ハットリくんに感化され、風呂敷の四隅を四肢に結びつけてダイビング。 胸骨を骨折。

同年・・・・パーマンに感化され、首に風呂敷を結んで(省略)。 左鎖骨骨折。

同年・・・・ダンボール製の手作りの羽を背負い(省略)。 右手首から肩にかけての裂傷。

消防2年・・メリー・ポピンズに感化され、こうもり傘を持って(省略)。 強風の日だったので一瞬浮遊、直後落下。 擦り傷切り傷多数。

同年・・・・通信簿の「家族からの一言」の欄に「この子をベランダに近づけないで下さい」と書かれる。

同年・・・・理科の実験で使ったモーターとプロペラをクラス中から集め自分の身体中に装着。 学校の2階から(省略)。 右腹部に深い裂傷、入院。  退院したら担任の先生が替わっていた。

消防3年・・初めて飛行機に乗る。 窓の外の風景に感動するも、いきなり飛行機の窓を開けようとガンガン叩き始める。 その後なんとか外に出ようと飛行機内で出口を探しまくり、同乗の親父にえらい怒られる。

現在・・・・セスナ機の免許取得のため現在勉強中。

























光の速度








あの、光の速度の話があったけど・・・。
例えば、マッハ1で飛んでいる飛行機から、マッハ1のミサイルを撃ったら、外からはマッハ2で飛んでいるように見えるの?


マッハ1でミサイル撃ったりしたら、反作用で機体がとんでもないことになりそう。
っていう揚げ足取りは止めて・・・・。
その通り、マッハ2だよ。
時速80kmの電車内で時速10kmで走れば、外から見たら90km/hで走ってるように見える。


つーことは、光の速さで移動中に射精したら、俺は自分の遺伝子を過去に送ったことになるのかな。


そんなことより自分の遺伝子を未来に残す努力をしろよ。




























機長色々










ANAの機長は面白いなぁー 。
私も先日 ホノルルから成田に行く便で、

「 おいちゃんはぁー ちっちゃいころ空を飛びたかったんだぁー 。」

ってアナウンスを聞いて、ほのぼのしたことがあります。
そのおいちゃんは更に、

「 この飛行機の中には8人のスーパーモデルが働いています。
おいちゃんと一緒に働いてる人たちです。
ハワイの楽しい思い出にこのスーパーモデルたちが着ている洋服と同じ服を着て写真が取れるように用意しました。
ぜひとっていってください。」

といっていた。
しかし、復路だったのでみんな疲れて写真をとってる人はいなかった。




3年前のクリスマスイブ。コンチネンタル グアム行き、バスから降りて、ふと見上げるとコックピットから窓空けて、パイロットとコーパイがサンタの格好。
あごひげまでつけて、乗客に手をちぎれんばかりに振っていた。




昨年ラスベガスに行った時、帰りのUA機内で。
空港を離陸して、ラスベガスのあの町並みが窓越しに。
すると機長が一言、

「 右手をご覧下さい。
ここがお客様の財布からお金を抜き取っていった町、ラスベガスです。
ラスベガスに向かって皆さんさよならを言いましょう。」

客全員大ウケ。
これ以来UAひいきにしてるよ。




今年の6月にガルーダインドネシア航空を利用して、バリ島デンパサールから関空の機内のアナウンスで 「通路で寝ないで下さい。」と言っていた。
夜間の便なので有りそうとも思った。




クリスマスの時期にサウスウェストに乗った。
CAさんが、クリスマスソングで替え歌を歌ってくれた。
でも内容が

「サウスウェスト、飲み物のコップは安いプラスチックだし、つまみはいっつもピーナッツ。 それでもこれからもSWをよろしくね♪」

みたいな自虐的な歌詞だった。。。
機内は大爆笑&大喝采でした。




サウスウエストをよく利用してました。

「 ただいまラスベガス空港に到着いたしました。
手荷物の忘れ物が多いので、忘れ物の無いようご注意願います。
もし、忘れた場合、週末のフリーマーケットで売りに出すと思いますので、お近くのフリーマーケットのサウスウエストのブースまでお問合せください。」

ってな内容のことを言ってた記憶がある。

サウスウエスト最高!




サウスウエストいいよねー。
初めて利用したとき、少し時間が遅れて搭乗開始したと思ったら アナウンスで、

「 あと5分で出発したい、つか遅れたくないんだー。
だからみんな急いで席についてちょうだいな!」

って感じで言われた時びっくりした。
そのあと機上で、クイズが始まったりしたのでさらにびっくり。
CAが問題だすと、答えわかった客がスチュワーデス呼ぶボタン押すの。
んで、あたったらなんかクーポンもらってた。
日本の飛行機会社しか知らなかった私にはすべてが目から鱗でしたよ。
それ以来ファンです。はい。




新婚旅行でエジプトに行ったときの事。
時期が6月中旬でメッカ巡礼の真っ最中。
国内線の民間パイロットをみんなそちらに取られてしまい、国内観光の操縦士はエジプト軍兵士が借り出されていました。
そこで機長が一言。

「 私は民間機を操縦するのは今日が始めてですが、戦闘機では一度も落ちたことがありませんので安心してください。」

ガイドが訳してくれたんだけど、最初は冗談かと思っていた。
そのうちスチュワーデスが機体が揺れるたびにお祈りをし始めて・・。・
乗り心地はジェットコースターの方がまだましでした。
特にあの着陸時の急降下!一生の思い出に残る。




アメリカ国内便(ユナイテッド)で、ラスベガスに行った時のFAのアナウンスが最高だった。
かなり甲高い声で、ボリュームいっぱいでアナウンスが始って、(英語)

「 本日はユナイテッド航空をご利用下さいまして・・(中略)・・。
酸素マスクが降りてきましたら、まずはご自分が最初にマスクを付けて、
それからお子様またはお子様みたいな我侭態度の大人の方にマスクを付けてください。
なお、御用のございます方はコールボタンを押してください。
一度目は完全にフリー、2度目からのコールは一回につき5ドルになっております。
5回以上押した方は、当機から即座にキックアウトされますのでご了承ください。」

機内は爆笑で、やんやの喝采でした。
無事に到着して最後のアナウンスでは、

「 ・・・・・・・次回もデルタ航空をご利用ください。」(って他所の宣伝でいいのか?)

で乗客は、またもや喝采でした。
アメリカって面白い国です。
あのFAのアナウンスまた聞きたいよ!




7,8年前にUSairでロスからシスコに向かったとき、4時間遅れて離陸したのは夜の9時か10時くらいで 乗客は自分を含めてたったの6人。
離陸前に機長がアナウンスで、

「 本日はお客様が大変少なく、クルー一同大変心細く思っております。
このように心細いと安全な飛行を約束しかねます。
皆様、どうか私どもを励ますためにももっと近くに来て下さい。」

みたいな事を喋ってたんです。
したらスチュワーデスが、
「 機長は寂しがり屋なので、皆様ファーストクラスの方へどうぞ。」と言って、全員ご招待。
初めて乗ったファーストクラスと機長の計らいに感動した。
飛行機でシャンパン飲めるなんて初めて知った。




某国より帰還時の話。
もう15年も前の話だが、リノ→ワシントンのAAで、途中いきなり機体の右側をググッとさげた。(バンクって言うのかな?)
それも機内で”オオッー”って声が挙がる位激しく。
何事と思ってたら以前噴火をしたセントヘレナ火山上空だった。
このとき機長は「このくらいで見えるかな?見えますか~?もうチョイかな~?」とアナウンス。
そして次にまたググッーと今度は左に。
そして「ハイ~今度は左側の人達。」「噴火の時は遠くから噴煙が見えた」などと詳しく解説。
機内は大喜びだった。
怖かったがメチャ面白かった。
日本じゃ無理だろうな。




10年くらい前、ニューオリンズからロスまでの国内線で「ただいまより機長が皆様にご挨拶に参ります」というのでどうするのかと思ってたら、

客席に出るやいなや客席後方のトイレへダッシュ
 ↓
しばらくしてサッパリした顔で登場
 ↓
空いている客席に座って隣のおばあちゃんに大声で砂漠の解説
 ↓
ついでに周りの客いじり
 ↓
ツッコミ役の乗務員に連れ戻される
 ↓
( ゚Д゚)ポカーン

なことがありました。




友人から聞いた話で高校時代の修学旅行でのこと。
機内はほとんど修学旅行生だったみたいです。
アメリカ人かイギリス人の方でやけに日本語の上手な機長(パイロットかな?)だったみたいです。
数年前に聞いた話などで細かいところは忘れましたがだいたいこんな
感じでした。

「 僕の父は昔、戦闘機乗りでした。
45年前、私の父もこの上空で日本人と同じ時を過ごしていました。
私は高校生の頃、父が生涯愛したパイロットになることを目指し、大学入学後に父の尊敬する日本人の言葉を学びました。
父はいつも日本の侍達と命を懸けて戦えたことを誇りに思っていました。
そして私は今、侍の子供たちを乗せて父の愛する飛行機を操縦していることを誇りに思っています。」

うーん、お客が日本人の高校生だったので、こんな話をしたのでしょうか。




ちょっと前になるけど、米国内線に乗っている時乱気流の激しさで機体が大揺れに揺れたことがあった。
テロ直後と言うこともあって乗客の殆どが祈りだしたり、ひざを抱えて安全姿勢とったりし出して、ほんまにヤバイんかなって思い出した頃、機内アナウンスで、

「 当機はただいま気流の非常に悪いところを飛行中ですが、私はこの道20年のプロです。
UA入社前は、空軍で実戦にも参加経験があります。
幸いこの乱気流は敵軍から砲撃されるより安全です。
どうぞ、ご安心下さい。
それに心配しても乗客の皆さんにはどうすることも出来ないんですから、私に命をあずけてもらいます。」

と流れてきました。
日本人の私は何てこと言ってんだこの機長って思ってましたが、あちらの人はこのアナウンスで大盛り上がり!まだ機体は揺れているのに機内一帯となってのオベーションです。
何とか無事着陸したときは「当機はただいま○○空港へ到着しました。」というCAのアナウンスの後、「こちら機長です。ドンナモンダイ! だから言ったろ!!」と言うアナウンスが有り、拍手の嵐。
降機時には皆操縦席まで行って機長と握手してました。
これも乗客を安心させるパフォーマンスなのか!? こんなことしてるから会社が傾くのか・・・?  
でもチョッとスリリングでホットなフライトでした。



















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4月28日(土)のつぶやき

2018-04-29 08:26:07 | _HOMEページ_






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日々の恐怖 ワイの話 (5) 祭囃子

2018-04-28 19:15:28 | B,日々の恐怖







  日々の恐怖 ワイの話 (5) 祭囃子







 これは小学校から高校まで続いた話。
ワイが一人で寝つけない夜、時々遠くで笛と太鼓の祭囃子が聞こえる。
聞こえるのは数年に一回程度で、決まって夏の夕立後の涼しい夜やった気がする。
ひょっとこが踊りだしそうな、割と楽しげな一定のリズムと音階をずっと繰り返すんやけど、次第に音は遠くなっていって、ワイはそのうち寝てしまう。
 それで、とうとう中学ん時、

“ このお囃子は何や?”

と疑って正体を確かめようと思い立った。
真っ先に思ったんは、実家の裏手にある神社の神楽舞の練習や。
 今はもう廃れて長いが、その頃は地域の小さな神社にも神楽舞を奉納する風習が残っとった。
薪能とも狂言ともつかん、演目の意味も誰も分からなくなったような代物。
氏子の年寄がシテ方、ワキ方(神楽を舞う人)を毎年交代でやり、演奏方は基本的にその息子たちが担った。
 田植えが近くなると神楽舞の準備がはじまって、関係者は公民館で練習をしてた。
舞の奉納自体はGW前には終わる。
だから夏に聞こえてくる祭囃子は、演奏方のヤツが腕が鈍らんように練習しとんのかなと思った。
 ワイの家は演者の家ではなかったが、ジッジが昔区長として神楽を取り仕切ったことがあったから、ある日ジッジに聞いてみた。

「 ジッジ、ワイには時々妙なお囃子が聞こえるが何か知っとるか?
演奏方の誰か練習しとん?」

ジッジはワイの話を聞くと、目を細めてこう言った。

「 もうワシには聴こえんばってん、昔はよう聴こえよった、聴こえよった。
こぎゃん音頭やろ?」

そういってジッジは、ワイが聞いてたのと同じ囃子を口笛で吹いた
ワイは音痴やからお囃子の音まで伝えてなかったから、心底驚いた。
 ジッジは、

「 ありゃあ、畑ん神さんの祭りたい。
もうワシには聴こえんけん、神さんはおらんごつなったと思うたばってん。
まだおるたいなぁ~。」

とニカニカして米焼酎をあおった
 神楽の練習は騒音になるからと公民館以外ではやらないらしかった。
ちなみに神社の祭神は天神さんやけど、きっとローカルな神さんもおったんやろうな。
高校卒業してワイが地元を発つまで、その音はときどき聞こえていた。
 最後に聞いたんは大学受験勉強中、やっぱり夕立後の涼しい夜やった
ワイは窓を開けて、楽しげな音色をぼんやりと聞いてたんや。
 その前年にジッジは逝ったから、なんとなく、

“ ジッジも、聞いとるんちゃうかなァ・・・。”

と思った。
 ワイは夏に帰省しても、もう祭囃子は聞こえんくなってしもうたが、地域の若いやつが聞いてたらええな。

















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日々の出来事 4月28日 蛤御門

2018-04-28 09:31:45 | A,日々の出来事_






  日々の出来事 4月28日 蛤御門






 今日は、宝永の大火があった日です。(1708年4月28日)
1708年、京都で大火事が発生しました。
大名屋敷21軒、公家屋敷95軒、寺社119ヶ所、町数417町、家数1万351軒が焼失しました。
 京都御所の周りには、公家町と市中の境界であった九つの門があります。
このうち、御所の西側にあった新在家門は常に閉ざされていました。
 そして、宝永の大火の際、行き来が出来るように初めて開門されたことから、“焼けて口開く蛤”に例えられて蛤御門と呼ばれるようになりました。
後の“蛤御門の変”と呼ばれる幕末の長州藩と会津・薩摩藩の最大の激戦地がこの門なのです。
今も、蛤御門の柱には、その時の弾痕が残っています。










         蛤御門の弾痕

























☆今日の壺々話















    言葉遊び“夏のハマグリ”





冷やかし客は、大阪では“夏のハマグリ”です。
“身腐って、貝腐らん。”
“見くさって、買いくさらん。”
“見ただけで、買わない”ってことです。





















   クラムチャウダー





「 いったいどうしたのかね?
 先月ここで食べたクラムチャウダーは、あんなに旨かったのに・・・。」
「 ご冗談でしょう!
 同じ日に同じ店から仕入れたハマグリなんですぜ、旦那!」



















火事



 一人暮らしを始めた頃、斜め向かいの家が火事になった。
大きな火柱上げてて「燃え移ったらどうしよう!」とパニックになってしまったぐらいだった。
全焼だった。
放火なのか不始末なのか、近くに知り合いもいなかった私は情報を得ることが出来ず、疑問に思いながら火の始末に気をつける日々を送っていった。

 数日後、近くの喫茶店で喫茶店の店主(女)からその火事の話を聞くことが出来た。
火事になった家は母子家庭だけれども裕福な家だということ。
子供がいわゆるDQNで、夜中でも平気で遊びまわっているということ。
放火の疑いがあるけれども、その子供が火遊びをして燃えてしまったんじゃないかと疑う人が多いということ。
確かに、夜中にバイクの轟音で目が覚めたりするから、そう言われると私も子供を疑ってしまった。

 後日、喫茶店の前を通ろうとした時、パトカーが止まっていることを発見。
喫茶店の店主が「私じゃないわよ!あの女が悪いのよ!」って叫びながら連行されていた。
近くの人達も出てきて怪訝な顔をしていたので、どうしたんですか?と聞いてみたら、あの人が放火したらしいということだった。

小説のような話だけども、マジであった話。
全くそんな人には見えなかったのになぁ…。






















記念写真






 大分前の話、長いけど聞いてくれ。
俺が住んでたボロアパートが火事になった。
1階の一番道路に近いとこの部屋ら辺が火元で、その上の部屋とか、隣の隣の隣あたりまで、数部屋が焼けてしまった。
 昼間だったからみんな出かけてて、幸いにも怪我人は無かったし、全焼もまぬがれた。
俺の部屋は道路から一番奥だったから、ギリギリ焼けはしなかったけど、すぐ隣の部屋まで火がきてたみたいで、消火の水で水浸しになってた。

 夜になって帰ってきて、家焼けてるから呆然としてたら、大家さんのおばあちゃんが消防の人となんか話してるのが見えた。
大家さんはアパートの隣の小さい家に1人で住んでて、年金と家賃で暮らしてるって言ってた。
毎日アパートの通路や階段を綺麗に掃除してくれて、宅急便とか預かってくれるし、宅急便取りに行くと、ついでにお菓子とか果物くれたりすることもあって、会うと気さくに声かけてくれるいい人で、俺もいろいろ話したりして、結構仲良くさせてもらってた。

 大家さんはボロボロに泣いてた。
声かけたら、「私がちゃんとみてなかったから、こんなんなっちゃってごめんね」って、泣きながら謝ってくれた。
大家さんこそ、アパート無くなっちゃってこれからどうやって暮らしていくのか、心配になってこっちも涙ぐんでしまった。

 他の部屋の奴らが帰ってきて大家さんを責めてて、大家さんはやっぱり泣きながら謝ってた。
家財道具全部焼けちゃって、キレる気持ちは本当に良く分かるけど、大家さんを責めるのは何か違うんじゃないか、なんて思いながら見ていた。
その後、消防の人からいろいろ聞かれたり、他にもいろいろあったんだけど省略。

 友達に事情を話したら、しばらく泊めてもらえることになったから、俺は自分の部屋に行って、貴重品と、あとまだ使えるものは無いか掘り出したりした。
服や本、家電なんかは全滅だったけど、CDとか皿とか無事だったし。
その時も、大家さんは手伝ってくれた。
 で、荷物まとめて、お別れだねって話をした。
また大家さんは泣いて、泣きながら謝ってくれた。
俺もまた涙ぐみながら、いろいろお世話になりました、お元気でって、大変だろうけど頑張ってって、挨拶してわかれた。

 それから半年後ぐらいに、その焼けたアパートに住んでた人から連絡をもらったんだよ。
( 何かあった時の為に、数人だけだけど、お互いに連絡先を伝えてた。)
火事の原因は放火だったって。
 しかも犯人が大家。
アパートにかかってる火災保険目当てだって。
なんじゃそりゃ?
もう衝撃。
衝撃杉。
つーかババァふざけんな!
 何で一番道路側に火を付けたかっていうと、一応俺とは仲良くしてたから、気を使ってくれたんだって。
冗談じゃねぇよ!
そんな気遣い全然いらねーよ!!
どうしてくれんの俺の服とか家電とか!
あん時ババァ責めてた他の住民さん正解、大正解。

 最後の荷物掘った日、記念にって焼けたアパートの前で一緒に写真撮っちゃったよォ!!
二人並んでVサインだぜェ!
何てことしてんだよォ!
あの日の俺の涙を返せ!
思い出すたんびにすんっげー腹立つ。
マジムカツク!!
























火災報知器







 以前いた会社の社員寮で、突然火災報知器のベルが鳴った。
あわてて外に飛び出したけど、火が出ている様子がなくて、みんなで不審に思ってたら、館内放送で、

「 すみません…、部屋でさんまを焼いてしまいました…。」

と流れた。
隣の部署の先輩だった。
それから10分位してまたベルが鳴った。

「 すみません…、2匹目を焼いてしまいました…。」

涙声だった。























    北朝鮮の名物料理“ハマグリのガソリン焼き”最新情報






 北朝鮮の名物料理といえば、ハマグリのガソリン焼きだ。
これを食べずして北朝鮮旅行をしたとはいえない(と言ってる人もいる)。
それくらい人気の料理ならば食べないわけにはいくまい。
 ということで、実際に北朝鮮を旅行した日本人旅行者から「ハマグリのガソリン焼き体験」を聞くことができたのでお伝えしたいと思う。
最初は「危ない食べ物」というイメージがあったらしいが、食べてみるとかなり美味しかったという。


・本来は冬にやらない料理

 2012年1月下旬、その日本人旅行者はマイナス10度以下という極寒の状況下でハマグリのガソリン焼きを体験。
外でしか調理できないため、ブルブルと震えながら調理を見守ったという。
本当は、この季節にはやらないそうだ。
 

・使用したガソリンはペットボトル2本分

 観光ガイドスタッフがハマグリを市場で購入してホテルの裏庭の地面に置き、そこにガソリンをぶっかけてライターで火をつける。
「ゴッバオン!」と爆発するのではないかとドキドキしたそうだが、それはなかったようだ。
 ガソリンは500mlペットボトル2本分を使用し、少しずつハマグリにぶっかけていく。「ブボボモワッ!」と火柱が出ることもあったが、爆発することなくハマグリは焼かれていき、およそ5分ほどで炎が消えたという(調理終了)。
 

・ハマグリには少しだけ生の部分も

「あまりにも寒かったため、ハマグリが発する熱で手を温めました。
本当はこの場で食べるのですが、マイナス10度以下で厳しかったのでホテルに持ち込んでレストランで食べましたよ」と語るのは、今回ハマグリのガソリン焼きを体験した日本人旅行者。
 で、いちばん重要なお味はどうなのか? 
日本人旅行者によると「予想に反して激ウマでした! 絶対にガソリン臭くて無理だと思っていのですが、今まで食べたハマグリのなかでもトップクラスの美味しさでしたよ。まったくガソリン臭くなくて、新鮮なのもわかりました。でも少しだけ生っぽいところもありましたね」とのこと。
 

・たまに当たる人がいるけど焼酎飲めば大丈夫

えっ? 生で食べても大丈夫なの? 
北朝鮮の港では獲れたばかりのハマグリを生のまま食べることがあるそうで、少しくらい生でも気にすることはないらしい。
たまに当たることがあるらしいが、そういう人は決まってビールを飲んでいるという。
 「ガイドさんが言ってましたが、稀らしいのですがハマグリのガソリン焼きを食べて当たる人もいるそうです。当たる人には法則があるそうで、ハマグリと一緒に焼酎を飲んでいなかった人が当たることがあると言ってました。ビールのようなアルコール度数の低いお酒を飲んだ人は当たりやすいのかもしれません。」(日本人旅行者 談)。
 

・ハマグリにカニが入っているとラッキー

 ハマグリのガソリン焼きを食べていると、たまにカニの子どもが入っていることがあるという。
北朝鮮では「ハマグリにカニが入っていたらラッキー」といわれているらしい。
 冬のハマグリの場合はカニが入っている確率が低くなるらしいが、日本人旅行者が食べたところカニが入っていたとのこと。
ラッキーですな!
「日本語が流暢な朝鮮人のガイドさんに、最近日本で流行っている言葉を教えてほしいといわれたのでステマ(ステルスマーケティング)を教えてあげたんですけど、そしたら「これハマグリのステマ」とか言い出して困りました(笑)」。
 

・灯油で焼かない理由

 とにかく、ハマグリのガソリン焼きはかなりの美味らしい。
それにしても、どうして灯油じゃなくてガソリンで焼くのだろうか? 
それには理由があり、ガソリンは燃焼するとニオイを残さないらしく、燃料臭くならないらしい。
灯油で焼くと、かなり灯油臭くなるという。
 ハマグリのガソリン焼きは調理に慣れている現地の人たちだからできるものであり、皆さんは絶対に真似をしないようにしよう。
大きな事故やケガに繋がる可能性もあるので、絶対にやめよう。
ちなみに、北朝鮮にはハンバーガーショップも存在する。




















近所の百貨店の魚屋






 ちょっと気になること、あるんだけど・・・。
許せないって類の話じゃないが、ちょっと意図不明な気が・・・。
 近所の百貨店の魚屋に、金掛かってそうな結構なサイズの生け簀があるんだ。
洒落たレストランの水槽みたいな凝ったデザインで、水掛け流す形のヤツ。
 いかにも“店の顔”って感じで一番目立つ位置にあるんだけど、魚がいない。
魚の代わりにいつもどぺぇっと舌出した異様にデカいミル貝が1、2匹鎮座。
売れ残りとかではなく、朝から晩まで。
 いや、餌代とか水道代とか維持費も掛かるだろうだし・・・。
もうちょっとこう、購買意欲刺激するようなディスプレイにしてはどうかな・・・?


















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4月27日(金)のつぶやき

2018-04-28 08:18:58 | _HOMEページ_






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しづめばこ 4月27日 P519

2018-04-27 19:13:58 | C,しづめばこ



 しづめばこ 4月27日 P519  、大峰正楓の小説書庫で再開しました。


小説“しづめばこ”は読み易いようにbook形式になっています。
下記のリンクに入ってください。
小説“しづめばこ”



大峰正楓の小説書庫です。
大峰正楓小説書庫


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日々の出来事 4月27日 悪妻の日

2018-04-27 09:29:19 | A,日々の出来事_






  日々の出来事 4月27日 悪妻の日






 今日は、悪妻の日(哲学の日)です。
紀元前399年、哲学者ソクラテスは、悪法も法と毒ニンジンの汁をあおり刑死しました。(紀元前399年4月27日)
また、彼は、世界三大悪妻の一人とされているクサンティッペを妻としていました。

今日も、クサンティッペはソクラテスに文句を言っていました。

「 うだうだうだうだ、がみがみがみがみ・・・・。」

ソクラテスは、木に止まって鳴いているセミを見ながら呟きました。

『 セミは幸せだ。
 なぜなら物を言わない妻がいるからな。』

それを聞いたクサンティッペは、カンカンになって怒り出しました。

「 このとうへんぼく、とっとと出てお行き!」

クサンティッペは、ソクラテスの頭に水を浴びせました。
でも、ソクラテスは平然と言い放ちました。

『 雷の後は、雨はつきものだ。』

それを見て、結婚を控えた若者が不安な顔をしてソクラテスに聞きました。

「 ソクラテスさんを見ていると、結婚しようかどうか迷ってしまいます。」
『 いや、気にすることは無い。
 ぜひ結婚しなさい。
 よい妻を持てば幸せになれる。
 悪い妻を持てば私のように哲学者になれる。』

『ソクラテス』の名言集でした。












    ソクラテスさん
















☆今日の壺々話















       無知の知






 哲学教授が、満席の教室の生徒に質問しました。

「 このクラスで無知を自認する人がいたら、立ち上がって下さい。」

ところが、いつまで経っても、生徒は誰も立ち上がろうとはしません。
哲学教授は、しびれを切らして言いました。

「 君たちは誰一人、“無知の知”と言う言葉を知らないのか?」

その言葉に生徒の一人が答えました。

「 え~と、その言葉は知ってるんですけど・・・・。
 先生が真っ先に立っているので、無知であることに、よっぽど自信があるの
 かと思って・・・。」




















       思い込み





 ある日、男が家に電話をかけると、彼の妻ではなく、知らない女が電話を取りました。
不審に思った男は彼女に尋ねました。

「 誰だね君は?」
「 私はこの家で働いているメイドです。」
「 うちではメイドは雇ってはいないはずだが・・・・。」
「 ええ、でも私は今日奥様に雇われたばかりなので、ご主人にはお会いして
 いません。」

夫はまたかと思い、苛立ちを隠さず言いました。

「 妻に替わってもらえるかね?」
「 奥様は今寝室で休んでおいでです。
 一緒にいる男性がご主人だと私は思っていたのですが・・・・。」

それを聞いた男は何かを考え込むように黙り、そして思い切ったように言いました。

「 君は5万ドルほど稼いでみる気はないかね?」
「 どうすればいいんですか?」

男は静かに言いました。

「 電話台の下の引き出しに拳銃が入っている、弾は既にこめられている。
 君がやるのは二階へ行って二人を撃ち殺すことだ。
 できるかね?」
「 分かりました。
 やりましょう。」

 受話器が置かれる音がしました。
そして階段を上っていく足音が聞こえました。
そのあと2発の銃声が聞こえました。
そしてまた階段を降りる足音がしました。
メイドが電話に戻りました。

「 もしもし・・・・。」

男はほくそえんで訊いた。

「 やってくれたかね。」
「 ええ、死体はどう処分しましょう?」
「 そうだな、プールにでも放り投げておいてくれ。」
「 プール?
 家にはプールはありませんが・・・・。」
「 ・・・・・・・・・。」

二人の間で長い沈黙が続きました。
そして最後に男は訊きました。

「 ええと、お宅の電話番号は・・・・・?」





















相談







 鉄道模型を捨てました。
かなり古い模型が、まさに大量(線路も敷いてて一部屋使っていた)という感じでした。
結婚2年目ぐらいから「こんなにあるんだから売り払ってよ」と夫に言い続けたのですが、毎回全然行動してくれずに言葉を濁す夫にキレてしまい、留守中に業者を呼んで引き取ってもらえるものは引き取ってもらいました。
帰ってきた夫は「売り払ったお金は好きにしていい」、「今まで迷惑かけててごめん」と謝ってくれました。
残っていた模型も全部処分してくれたので、すごく嬉しかったです。
 でも、その後夫は蔵書をはじめ自分のもの全てを捨て始めてしまいました。
会社で着るスーツとワイシャツや下着以外は、服すらまともに持たなくなり、今では夫のものは全部含めても衣装ケース二つに納まるだけになってしまって、あまりにも行きすぎていて心配になり、色々なものを買っていいと言うのですが、夫は服などの消耗品以外絶対に買わなくなってしまい、かえって私が苦しくなってしまいました
これだけ夫のものがないと、夫がふらっといなくなってしまいそうですごく恐いのです。
こういう場合ってどうしたらいいんでしょう?




















残業





 昨日残業して午前2時頃帰ったら、リビングに行き倒れ状態の嫁と娘が。
嫁の手にはクラッカー、娘の手には「ぱぱおにんじょびおめでと」のカードが。
部屋はお誕生日パーティの飾りが、冷蔵庫には食べかけの俺の大好物のラザニアとケーキ(どちらも普段は太るからと、めったに食卓には上がらない)とシャンパンまで・・・。
残業だから先に寝てろって言っといたのに・・・。
泣きながら布団かぶせたら、嫁が起きて、

「 ごめん、1時までがんばったんだけど・・・。」

その声で娘も起きて、寝ぼけ眼で、

「 パパ、あけましておめでとう。」

また泣いた。




















車炎上





 先日、向かいの家の車が凄い勢いで炎上した、
下町で家が密集してたから、火が移るのではないかと近所の人達が大慌てで消化活動してて、俺も急いで現場に行ったのだが信じられない光景が広がっていた。

 俺の母は子供用の小さいバケツを持ったまま騒いでるだけ。
父は水道に繋げてないホース持って「水が出ない!」と吠える。
向かいの家の家族は揃って座布団を抱えてオロオロしてて。
隣のオッサンは水を頭からかぶり「もう平気だ!落ち着け!」と叫ぶ。
 みんなの混乱した様子を面白く眺めてた俺は、パンツ一丁で竹刀を持って跳ねていたと家族は語る。



















事実





 聞いてくれ。
昨日嫁の家の片付けしててとんでもない事実を発見した。

俺 30才
嫁 30才

もうじき結婚2年目、仲良しです。
俺は岩手、嫁は岐阜の産で、25才すぎるまで当然お互いの存在をしる筈もなく生きてきた。
出会いは26才当時、バリ島の格安ツアーで一緒になった事。

 んで、昨日まで嫁さんの実家で慶事があったんで有休で行ってたんだ。
ついでに、実家の納戸を片付けてあげようって事になって(義母一人暮らしで男手無いもんで)、がさごそやってたら、お決まりの古いアルバムやらクラス文集やら発掘して、ぱらぱらめくって眺めたりしてたんだ。
 そしたら、アルバムの中に何故か俺の見覚えのある写真があった。
カブスカウトの制服を着たちびっ子達が二列縦隊で行進してる。
行進の先頭は俺だ。 
だって、この写真俺の実家のリビングに昔貼ってあったもん。

俺「 なんでこの写真がここにあるの?」
嫁「 え?だってほら先頭の女の子あたしだもの」

えええええええええええええええええ!!

 この写真は俺が確か小3の頃、静岡のどっかで行われたジャンボリー(ボーイスカウトの大会)に参加した時のものだ。
写真に写ってる2列縦隊の先頭で、俺と嫁は22年前に既に一緒に手をつないでどっかに向かって歩いていた。



















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4月26日(木)のつぶやき

2018-04-27 09:22:01 | _HOMEページ_






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日々の恐怖 ワイの話 (4) 祭り

2018-04-26 19:15:28 | B,日々の恐怖






  日々の恐怖 ワイの話 (4) 祭り






 ワイはよく中学まで親父と釣りに行った。
泊まりがけで、夜通し防波堤から投げ釣りをやる、夏休みの定番行事や。
 たぶん中1の時やけど、行きしに親父の車が迷った。
その日はいつも行く港が護岸工事の関係で使えなくなってた。
ほんで急遽他のポイント探しに出たんやが、親父もワイも山の人間やから土地勘がないねん。
 そうこうするうち、漁村とおぼしき集落に降りる道を見つけたんやが、妙に明るい。
夜8時は回ってるはずやから、この辺の夏とはいえもう暗いのに、人もずいぶん多くなった。
皆浴衣や作務衣で、いかにも夏祭りの風景が見えた。
 もともと車一両がやっと、という道の両脇に、次第にたくさんの出店が現れ、行く手はいつしか人で埋め尽くされて、車は徐行のような状態になった。
 ワイは引き返したほうがいいのでは、と言おうと顔を助手席から親父に向けた。
親父は険しい顔をして、ブツブツ何かを呟いとった。
よく聞くと、それは阿弥陀経やった。
 ワイは親父がおかしくなったんかと思ったが、すぐに合点がいった。
この祭りは音がしない。
いくら冷房のために窓を締め切ってても、すぐ近くで行き交う人々の声や屋台で何かを焼く音とか、おおよそ祭りの喧騒が聞こえてこない。
消音にしたテレビみたいや。
 しかし、人々はワイらの車を不思議そうに避けるだけで、決して迷惑そうにされたり、ドアを叩かれたりすることはなかった。
 その状態が体感的には50メートルばかり続くと、視界が開けて船着場に出た。
船着場には小さな漁船が10台ほど停められていて、それらは現実のもののように思われたんやけど、そのいちばん奥にギラギラ光る大きな木造船が泊まっとった。
 傍目には巨大なイカ釣り漁船にも見えたが、よく見ると船全体がいろんな色で光ってるのが分かった。
帆までついとったが、蒸気で動きそうな煙突があったんが印象的やった。
 祭りの人たちは遠巻きにその船を幸せそうに眺めとって、ワイらはその群衆と船の間に飛び出したような状態やった。
 見とれていると、不意にタバコの匂いがした。
親父が珍しくタバコに火をつけとって、ゆっくり車を出した。
 しばらくするとその集落を抜け、海沿いの暗い道になった。
なんとなく、普通の道に戻ったことが分かった。
 親父は窓を全開にすると、安心したように、

「 大潮の日には、あぎゃんこつもあっとだろ。」

と言った。
 ちなみにその日は全く釣れなかったし、調べても似たような祭りは無かった。
ワイらは、何を見たんやろうな。
















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日々の出来事 4月26日 チェルノブイリと象の足

2018-04-26 09:25:08 | A,日々の出来事_






  日々の出来事 4月26日 チェルノブイリと象の足






 今日は、チェルノブイリの日です。(1986年4月26日)
1986年、ソ連(ウクライナ共和国)のチェルノブイリ原子力発電所で事故が起こりました。
 当日、原子力発電所では、原子炉が停止して電源が切れたとき、原子炉内の蒸気タービンの余力で発電を行い、原子炉が動作不能に陥らないようにする実験を行っていました。

「 それじゃ、出力を20%に落とそう。」
「 あれっ、1%まで落ちちゃったよ。」
「 まずいなぁ~、落としすぎだよ。」
「 じゃ、出力回復のため、制御棒、抜いちゃうよ。」
「 そうだな、そうしよう。」
「 よしよし、7%まで回復したぞ。」
「 何か、不安定な気がするぞ。」
「 安全装置が邪魔してるんだ。」
「 外しちゃえ。」
「 大丈夫かな?」
「 どうってことないよ。」
「 OK、外したぞ。」
「 ん、出力が急激に上昇したぞ。」
「 うわっ、緊急停止だ。」
「 間に合わない。」
「 うわっ!」

 発電所は爆発し、現状を知らされていない人たちは普通の消火活動を行って被曝しました。
火が消えた後には、砂や鉄やコンクリートで封印した大きな石棺が出来ました。
今も、湿気により石棺のコンクリートや鉄筋が腐食し続け、放射能が漏れ出しています。
ウクライナ国内の被曝者総数は342.7万人にのぼります。



( 以下は2010年時点での記述です。 )


“ さて、日本の原発は細心の注意を、ホントに払っているでしょうか。
クリーンなエネルギーとして、原発は世界中で見直されつつあり、今後は建設ラッシュが続くと思います。
でも、事故に関して言うと、日本の原発は何回も事故を起こしているのは事実です。
 それに、原発の排水の汚染も気になるところです。
原発の排水は完全処理しているので大丈夫だと言っている原発利権の国会議員は、ハチマキで日の丸の扇を頭に括り付けて、原発の出した排水の中に浸かって、古式泳法の立ち泳ぎをしながら、短冊に墨で“原発安全”と書いて欲しいと思います。
原発については、必要なものとしてはしかたないとして、チェルノブイリの石棺を教訓とし、今ある以上の細心の注意と監視をとる必要があると思います。”



さて、ここからは現在です。


事実『 地震や津波で福島原発は崩壊しました。 』


 しかし、これまで“原発は安全だ”と嘘を言い続けたクソ政治家は真摯な反省を未だにしておりません。
また、国民マインドコントロール担当の“原発は安全読本”を全国の小学校に配っていたクソ文部省も、いつの間にかコソッと読本を廃止しました。
 そして、悪いことには、業界団体との利権を維持しようとしているクソ政権や役所のクソ官僚、その他甘い汁を吸っていた肥ったクソシロアリたちが、今ものうのうと生き続けようとしています。
こんなクソバカヤロ~たちは、全員叩き潰すしかありません。




   電力の今後


 電力は今まで原発に依存しており、それは国策でもありました。
そして、こんな現状下では、原発全廃なら企業も一般生活も破綻することもありえます。
よって、必要最小限の原発を動かして生活を守りながら、他のエネルギーによる発電を充実させて行く政策を進めて行く方法しか、今後はないのではないかと思います。



















☆今日の壺々話










   ちょっと長いですが・・・。










      チェルノブイリ
 


                       エレーナ・ワコリュク

 こんなことを書くことになったのはすべて、チェルノブイリ原発事故という、私をおそった不幸のせいである。私の罪でも意思でもないのに、不幸は私や家族の生活を破壊してしまった。不幸というものは、いつも予期しないときにやってきて、弱い者を痛めつける。私が経験させられたこと、いや私だけでなく数百、数千の人々が経験したことは、チェルノブイリの囚人とでも言うべきものだった。故郷で私たちは「死刑囚」と呼ばれている。なんとも恐ろしい言葉であるが、本当のことでもある。

 一九八六年四月二八日、私の家族みんな(私、夫、四才半の息子)は、六才半の息子を連れた姉と一緒に、ホイニキ地区オレビチ村の両親のところに到着した。ジャガイモの植え付けを手伝い、五月一日のメーデーと復活祭の休日を過ごすためだった。多くの人々が、自分たちの両親の住む村々へとやってきていた。ホイニキの駅で、原子力発電所で火事が起きたことを聞いた。バスの中はその話でもちきりだった。しかし、確かなことはだれも知らなかった。何か悪い予感がし、胸がドキドキした。

 目に涙を浮かべながら、母は私たちを出迎えて言った。「ああ子供たち、なんと大変なときにあなた達はやってきたの。原発で大きな火事が起きたとみんなが言ってるよ。消防やら軍隊がいっぱいやってきて、住民にどこへでも行けるところに去れと言ってるって。」

 四月二九日と三〇日にジャガイモを植え付けた。天気は申し分なく、暖かく少し暑いぐらいだった。子供たちは原っぱで遊び回り、私たちは、上着をぬぎ素足で働いた。自分のところが済むと隣の植え付けを手伝った。そのとき、もう誰もそのジャガイモを食べることはなく、汚染された地面を歩き回り、有毒な空気を吸っていたなど、どうして頭に浮かべることができたであろう。

 頭上では始終うなり音がしていた。右の方ではチェルノブイリへ向かう飛行機が、左の方では戻ってくる飛行機が、まるでベルトコンベアのように飛んでいた。父が言った。「またえらく飛び回ってることよ。こりゃ発電所の火事は尋常ではないな、何やら深刻になってるようだ。農業役場へ寄ってみなきゃ、そこなら事情を知ってるはずだ。」

 野良仕事を終えたそのとき、近くにヘリコプターが着陸し、兵士が出てきて何やら測定した。私たちに、速やかに畑から立ち去り、子供たちを表に出さないよう告げた。地面も空気も大きな放射線量を示していた。

 放射能とはいったい何なのか?私たちの誰も知らなかった。空気には、電線を溶かした時のような、何やら気色の悪い匂いが立ちこめた。年寄りは、放射能が匂うと言った。放射能には匂いも色もないことなど、どうやって彼らに知ることができたであろう。そして、大きな被曝が死をもたらすことを。

 通りではあちこちに人々が集まり出来事について話合っていたが、どうしたらよいのか誰も知らなかった。多くの人は野菜畑で仕事を続け、時折通りに出ては情報を聞きだそうとした。

 荷物を背負い袋やカバンを下げた人々が村を通って行った。原発のあるプリピャチ市、さらにチェルノブイリ市や隣接の村々から人々が避難したことを知った。事態がどうなっているのか知るため、父は農業役場へ出向いた。私たちは家に残り、テレビのニュースに聞き入ったが、何も言わなかった。私には、モスクワでも何も知らないのか、それとも知っていながらパニックが起きるのを恐れているのか、どちらかであろうと思えた。

 父が何やら粉末を持って帰ってきた。水に溶かして子供たちや自分たちが飲むための粉末だそうだ。父の話では、地区の役人がやってきて次のように警告したという。原発から放射能が放出され一帯が汚染された、井戸の水を飲んではならない、子供にミルクを飲ませてはならない、できるだけ表には出ないように、近いうちにここのソフホーズも避難するであろうと。

 悪夢と怖れ、未知への不安が襲ってきた。戦争が始まったかのような気分だった。その気持を言葉で表すことは出来ない。

 五月一日、メーデーの祝日だったが、気分は晴れず嬉しくもなかった。テレビやラジオはすでに事故が起きたことを伝えていた。いわく、何も怖いことはない、政府は事故処理に着手している、と。他のチャンネルでは、ある女性が何百万もの無知な人々に語っていた。放射能なんて怖くありません、被曝によって体内のすべての有害な微生物が死にます、などと。私はその女性に質問してやりたかった。あなたはどこで学位を買ったのですか、いったいなぜ放射能は体に良いのですか、微生物と一緒に放射能は命も奪うんじゃないですか、と。なぜ人々を欺く必要があったのだろう。

 父はしばしばソフホーズの事務所へ出向き情報を仕入れてきた。牛を放牧することはすでに禁止されていた。私たちのところから五km離れたクラスノセリエ村が避難したことを知った。人々にはパニック的な気分と不安が広まった。次は自分たちの番だろう、何をしたらよいのか、家畜はどうなるのか、ひょっとしてじきに戻ってこれるのでは、と。

 私たちは仮設救護所に呼ばれた。ミンスクからやってきた検査員たちが血液を検査し、放射能を計った。放射能測定器の針は勢いよく、子供の場合とくに勢いよく端までふれた。子供たちを直ちに連れ出す必要があった。しかし、両親をどうしたらよいのか、結局残らざるを得なかった。

 五月三日、復活祭の料理を準備した 。ピロシキを焼き、いろいろ飾り付けをし、卵の絵付け細工をした。すべてがおさまり、私たちの脇を悲しみが過ぎ去ってしまうのでは、というかすかな希望がわいた。

 五月四日、大きな音で目がさめ窓からのぞいた。避難だ。通りを家畜トラックの長い列が、その後にはバスが通って行った。

 私たちの番がきた。書類、貴重品、着替えの下着、三日分の食料、急いで必要なものをまとめた。

 ミンスクから来ていた叔父が、母と姉、子供たちを自分の車に乗せて行くことになった。私と夫、それに父はバスで出発することにした。母と子供たちが車に乗り込んだとき、みんな涙を流した。その時のみんなの気持を言葉で伝えるのは不可能だ。

 家は空っぽになった。テーブルの上には復活祭のピロシキがのったままだった。牛と豚は連れて行くが、山羊、ガチョウ、ニワトリは置いて行くよう言われた。家畜たちが泣くなんて誰が見たことあるだろう。庭で小家畜たちが私に寄ってきて手に鼻をすりつけ涙をながした。動物たちは、話せないだけですべてを分かっていた。それから向きを変えて離れて行った。たぶんお別れをしたのだ。

 私の心は空っぽになった。子供時代、青春時代を過ごし、祝日や休暇のたび、自由な時間があるたびに戻ってきた両親のいる私の家、この村に、もう一生戻ってくることはないだろうと感じられた。たまらなく涙がこみ上げてきた。永遠に戻って来れないのだろうか?耐えがたくなり表へ出て農場へ行ってみることにした。家畜が集められていた。

 農場には村の人が集まっていた。夫を見つけた。彼は牛をトラックの荷台にのせるのを手伝っていた。父はいなかった。父はソフホーズの事務所へ行って仕事をしていた(父はソフホーズの副長だった)。

 父がやってきて、まだたくさん仕事が残っているので、自分を残したまま出発するよう言った。父はソフホーズの事務所と一緒に避難するそうだ。

 国道は、自動車やすし詰めのバスが連なり、その行列には終わりがないかのようだった。私たちは乗用車に乗り込んだが、その運転手は疲れはてていて、今にもハンドルの上に寝込んでしまいそうだった。道中運転手は、どんなふうにプリピャチ市や隣接の村々から人々が避難したか語った。

 国道の端では人々が、荷物を背負い、袋やカバンを下げ、家畜を連れて歩いていた。戦争中の難民のようだった。そんなことを自分の目で見、経験しなければならなかった。

 五月五日にミンスクへ戻った。母と姉、それに子供たちはカリーニングラードへ行っていた。そこには姉と私の姑が住んでいる。私は身内が心配で、数日後そちらに出かけた。息子のイーゴリは州病院に入院していた。なんとも納得できないことに、私は息子の病室に入れてもらえなかった。担当の医者は、息子の気分は上々だと言ったものの、息子のような患者ははじめてで、はっきりしたことや先のことについては何も言えなかった。息子さんは放射能でたっぷり汚染され、彼の衣服はすべて処理にまわされました、と告げられただけだった。

 私が息子に会えたのは三日目であった。見たとたんにショックを受けた。イーゴリは何やらガラスの箱の中に入れられていた。並んで同じようなガラスの箱にもう一人子供がいた。息子は蒼白い顔で横たわり、目の下に隈ができ、泣いていた。その部屋には、看護婦や看護人は誰も入って来なかった。息子の放射能を恐れて、近寄らなかったのであった。医者は私に、息子の状態はまずまずと繰り返し、ヨウ素剤投与で治療していると語った。衣服はすべて処理に回されていたので、着替えなどを持ってくる必要があった。私はあれこれかき集め翌朝病院へ持って行った。その夕方、姑のところに保健所から車が来た。病院へ持って行った物も放射能で汚染されており廃棄しなけばならないとのことだった。

 イーゴリは一〇日間入院し、良くなって退院した。じきに私たちはジョジノの家へ戻った。息子は再び悪くなり、お腹が痛む、頭がふらふらする、吐き気がする、足がふるえると訴え、歩くことも出来なくなった。病院に出向き、息子に付き添って私も入院した。毎日どころか日に何度も血液検査を受けた。聴診、触診と検査がありビタミン投与を受けた。私と息子はともに「自律神経失調症」という診断をもらって退院した。

 息子はほんとに度々病気になった。頭が痛いと訴え弱っていった。走ったりはしゃいだりせず、横になっていることが多くなった。食欲が落ちずっと眠気がしていた。視力も悪くなった。医者もどうしたら良いのか分からなかった。医者が処方してくれた薬も役に立たなかった。ミンスクに検査に出かけた。多くの専門家がイーゴリを検査した。いったいどれくらいの検査室を訪ねただろうか。息子は州子供病院に入院した。いろいろな診断が山のようにたまって退院した。いったい全体どうしてこんなことになったのか。息子は風邪以外の病気になったことはなかったのに。再び専門家から専門家へと診断に回ることになった、血液検査、心電図、レオグラムと。

 ある専門家のところで、「すべては被曝が原因でしょうか?」と聞くと、「たぶん、そうでしょう」と答えた。めったにない機会なので、もう医者のところを走り回らなくてすむよう、カルテにそう書いてくれるよう頼むと、「そんなことを書くのは許されていない、あなたのおかげで仕事をなくすのはまっぴらだ」と彼は答えた。

 つまりは、まったくのところすべては秘密にされ、手加減され、被曝の線量とか診断が下されることはなかった。ただ、「この子供はチェルノブイリからやってきた」とだけ医者たちは書いてくれた。医者の立場も理解できた。いったい誰が好き好んで仕事をなくすことをしたがるであろう。

 この歳月、息子と私たちは病院がよいに明け暮れた。私たちは放射線医学研究所に登録され、半年毎に検診に出かけた。医者らは私たちにとても慎重に接した。診察の度にさらに複雑な診断が加えられた。

 息子は、大きくなるにつれ、ますます健康状態が悪くなった。一九八六年の四月から一九九二年までに三〇〇回以上医者にかかった。この間、一人の医者も病気とチェルノブイリ事故とを結び付けることをしなかった。時は過ぎ、さまざまな経験をさせられた。中傷や侮辱に耐えねばならなかった。役所の審査に何度も出かけた。私たちは休暇で「ゾーン」に居た、ということを証明する書類を持っていたが、そこで暮らしていたのではなかった。同じことの繰り返しで、役所ではいつもこんなせりふを聞かされた。「誰かがあなた方をそこへ行かせたのではない」と。このせりふはいつも私の心にグサリと刺さった。実際、誰かが私たちをそこへ行かせたのではない。しかし、ではなぜ汚染ゾーンへの切符を売り、そこへ入らせたのか。

 息子は毎年、アクサコフシチェーナにある放射線医学研究所の病院に入院している。退院しても同じように治療と投薬を続けている。しかし、私たちには治療など出来なくなってきた。薬がないし、あっても買えないほど高いのだ。その時に休暇でゾーンにいたという理由で、私たちは何にも被災者手当てを受け取れなかった。

 わずかでも公正さを期待してチェルノブイリ問題政府委員会に出向いた。私たちの話を聞き、同情しながら言った。「あなた方のような被災者については、法律は適用されておらず、何の救済もできません。子供さんが病気でしたら、共和国の専門家審議会に出向いて、チェルノブイリ事故と病気との関連を証明してもらって下さい。」共和国専門家審議会に行くと、共和国レベルではそのような問題は扱っていない、州専門家審議会のミンケビッチ氏のところへ出向くよう、丁寧に答えてくれた。しかしミンケビッチ氏はろくに私の話を聞こうともせず、「またやってきたのか被災者め!我々はそんな問題は扱っていない、ぜんぶ地元で決めているんだ、自分の病院へ出向いてあんたがどうしたらよいのか地元で決めてもらえ」と吐き捨てた。大変な屈辱を受けながら彼のところを去った。このように、誰も助けてくれようとせず、理解さえしてくれようとしなかった。しかし、遊びですむ話ではないのだ、生きている人間、子供のことなのだ。ようやく私は、何か貢ぎ物はないのか、コネはないのか、という役人たちの間に長く深く根付いている事実を理解した。しかし、何も貢ぐものがない私にできることはなかった。

 ジョジノでチェルノブイリ被災者の運動をしている、リディア・アナトーリエブナ・オクネバヤのところに出向いた。彼女は、すべての書類を持ってもう一度州専門家委員会へ申請するよう勧めてくれ、自分で書類を持って出向いてくれた。

 期待しながら何週間も待った。メンバーの休暇や出張やらの後、やっと委員会が開かれた。そして、何の結果も得られず書類が戻ってきた。すべては、私たちが休暇でゾーンに居た、ということがネックだった。いま一度、チェルノブイリ事故被災者としての認定を求めて政府委員会に出かけた。しかし、そこでの答は、私たちは如何なる条項にもあてはまらず、法律は私たちには適用されない、とのことだった。

 一九九四年、ゾーンに居たという証言を集めて、その事実を新たに証明するためホイニキ地区を訪れた。すべての証言は確認され、ホイニキ市執行委員会はしかるべき証明書をくれた。しかし、それも何の役にも立たなかった。

 いったい、どれだけ屈辱を耐え、何度頭を下げ、どれほどの中傷と侮辱を受けたらよいのであろうか。政府の役所での出来事をこれ以上書く気にはなれない。ただ、他人の不幸は自分には無関係ということだろう。他人の痛みというものは、自分もそれを経験した人にしか感じられない。心の底から腹立たしいのは、どこに、どの方向にチェルノブイリがあるのか知らない人でさえ、多くの人が「被災者証明」を受け取っていることである。私たちのように、本当に地獄を経験し、今もそこから抜け出せずに苦しんでいる人々は、死なんとしている。まさに私たちは死刑囚である。九年が過ぎ去り、あと一年も生きられるだろうか。もっと短いかも知れない。

     (ベラルーシ・ミンスク州ジョジノ市在住、ナバート・一九九五年第八号)







象の足です




チェルノブイリの事故で、ドロドロに溶けだした炉心が再度固まった状態。
見ただけで死ぬと言われている通称“象の足”。
直径2m程なのにその重量はなんと100トンある。
横にモップあります。





~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~






      発電所(炊飯界での常識)  




60Hzと50Hzでは、ドッチの方がご飯がおいしく炊けますか?

50Hzの方が美味しく炊けます。
そのなかでも東北電力の秋田北送電が最高です。

電源コードを変えると味が変わるのは炊飯界では常識です。
私は発電所から専用線で我が家まで電力を引っ張り込んでいます。
電線の材質は無酸素銅が最高ですよ。
おかげで、ウチはマイコンですが、IHよりいい味がしますよ。

ちなみに電力会社の違いでも味付けにサがでるよ。

電力会社     長所      短所   お奨め度
---------------------------------------------------------
東京電力     バランス   モッチリ遅い    C
中部電力    粘度強い  粘度強すぎ    A+
関西電力    さっぱり   粘度薄い   B
中国電力    透明感     粘度薄い   B+
北陸電力    ウェットな艶   個性が無い   A-
東北電力    密度と色   粘度薄い    A+
四国電力    色とニオイ   粘度薄い     A
九州電力     バランス  コメの距離感   C
北海道電力    品質    味が狭い     B-
沖縄電力    芯に艶    味モッサリ      A

で、上は発電所から5Km地点での特徴。
それより自宅~発電所間の距離が長いと上記特徴+マイルドの味付け、
短いと上記特徴+刺激的な味付けが加わるよ。


僕は薪と釜で炊く派です。
















伝説の鈴木さん







 新入社員の頃、課内で「伝説の鈴木さん」という名前がよく出ていた。
初めは気にならなかったが、社員が伝説、伝説というのでだんだんと気になってきた。
一体何が伝説なのだろう・・?
俺の伝説の鈴木さんに対する想像はどんどん膨らんでいった。
 ある日、主任から「この書類、伝説の鈴木さんに渡してきて」と頼まれた。
「どこにいらっしゃるのですか?」と聞き返したら、
「伝説の鈴木さんなんだから伝説の部屋に決まってんだろ、3階の奥だよ。」と言われた。

“ついに伝説の鈴木さんに会える!”

俺はわくわくしながら3階の奥へ行くと「電気設備課」があった。

















電気系統のトラブル





 みなさんが普段乗っているクルマは、もちろん量産車のはずなので、こんなことは経験することは絶対ありません。 
というか、ないことを願ってやみません。

   === Start === 聞いた話

カーメーカーで電気系統の設計をしてて、試作車を見に行ったときのこと。
先輩から聞いた話では、試作車トラブルの中では、電気系トラブルが最も笑えるそうです。


 ・ステレオを鳴らそうとすると、エアコンのスイッチが入る。
 ・するとエアコンは、一旦入ってしまったが最後、どのスイッチを操作しても
  切れない。バッテリを外してやっと止まった。ほんとにやっと止まったって。
 ・ハザードスイッチを入れると、ブレーキランプがつく。
 ・ブレーキを踏むと、テールランプがつく。
 ・リバースギヤにしたら、やっぱりテールランプがつく。
 ・ライトスイッチONでウインカー右、HIビームでウインカー左が作動する。
  そのとき、テールランプはついてない。
 ・ライトをつけるには、ハンドル中央ホーンスイッチを押し続ける必要がある。
  ちなみに、何をやってもLOビームはつかない。HIビームだけのクルマ。
 ・ドアを全部閉めたときだけ、ルームランプがつく。ドアをどれか1つ半ドアに
  すると、数秒後スウッとルームランプが消える。車内爆笑(全員電気担当者)。
 ・走行中、ワイパーは止まらない。せめて間欠だったからまだよかったのに。
 ・走行中、ホーンは鳴りっ放し。この時は、うるさいだけでちゃんと走ったよ。


そんな話を聞いて、自分だけはやるまいって思うでしょ?
やりますよ、誰でも。


   === Pit Out === 僕がやった大スパーク


 試作車に乗り込み、あれこれ操作してみました。
あのスイッチもこのスイッチもちゃんと作動します。
ホレみたことか、この僕はカンペキな電気技術者なのだとほっぺたがピクピクしました。
そして、エアコンをONにしました。
ゴオオッと音がしました。
おー、やっぱ僕ってカンペキって思って、待ちましたがなかなか冷えません。 
ぜんっぜんキません。
で、ふと、エアコンの噴出し口に顔を近付けてみると?

噴出し口から、 噴出し口から…
                 吸いこんでる。


   === Goal(と同時に大破) ===


&余談(本題)

このような苦労(漫才とも言う)を経て、量産乗用車は発売されます。
 切実なお願い。
たのむから電気系統だけは改造しないで。
マジ死ぬから。
プロの熟練自動車電気系統設計者でも間違うんだから。














電飾




なんかぁ。
むかしぃ。
バイクにぃ電飾つけてあそんでてぇ。
そんでみんなやってるからぁ。
車とかもあるしぃ。
船でやってみたらぁ。
イカあつまってきたんすよねぇ。

















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4月25日(水)のつぶやき

2018-04-26 09:24:47 | _HOMEページ_



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日々の出来事 4月25日 歩道橋

2018-04-25 12:36:35 | A,日々の出来事_








  日々の出来事 4月25日 歩道橋







 今日は、歩道橋の日です。
今日、大阪駅前に日本初の歩道橋が完成しました。(1963年4月25日)
この歩道橋の下のある横断歩道は、日本一、渡る人のスピードが速い横断歩道です。
赤信号の時から、もう、前のめりで、中には見切り発車する選手もいます。
そして、この歩道橋から、下の横断歩道を渡る人のスピードをストップウォッチで計る事が出来るのです。
























☆今日の壺々話













     歩道橋








 母親は東大出の学者で大学教授、専門分野では今では結構名の知れてる博士。
父親は高卒で町のクリーニング屋の3代目でチョイワルぶってる親父、かなりの格差婚。

親父は、若い頃はワルで馬鹿だったけど、ちょっとハンサムってことで商店街では人気者。
母親は、頭がめっちゃ良くて、良い学校に特待生で入学したりと、地元の期待の星だった。

 年が同じで、実家が近所だったが(ちなみに東京の下町)、別に幼なじみというほどでもなく、親父にとって母親はずっと高嶺の花の憧れのお嬢様で、恥ずかしくてまともに口も聞けなかったと。

 時は流れ、両親26歳のとき、院生だった母親に病院長の息子とかのお見合い話が来た。
その頃はもう真面目なクリーニング屋だった親父は、その噂を聞いて大ショック。
「失うものは何もない」と覚悟を決めて、母親に猛アタックをかけた。

 母親はまだ結婚するつもりなんてなかったし、よく知らなかった親父からの突然のストーカー行為(当時そんな呼び名なかったそうだが)にも困っていたが、ある日、家の近くの歩道橋の下で親父が待ちぶせしてたら、やってきた母親がそれに気をとられて階段で足を踏み外したんだそうだ。

すかさず助けに入った親父、落ちてきた母親を見事受け止めたが、自分は地面に顔面を思い切りぶつけて前歯が4本折れた。

父親が差し歯を光らせながら曰く、
「 そこで自分の身を犠牲にして守ってくれた父ちゃんに、母さんは惚れてしまったんだ。」

母親こっそりと俺だけに曰く、
「 顔がそこそこ良いのだけがお父さんのとりえだったでしょ?
 それを傷物にした以上、責任を取らないといけないと思って…。」

半年後に結婚。

そういうことだそうです。

 美人というわけではありませんが、バリバリでかっこいい自慢の母親です。
そして母親があの世代の女性としては珍しく学者として成功できたのは、自営業の親父が家を守って支えてきたから。
母さんがドイツの大学に3年間赴任した時は、俺と2人で寂しそうだったけど頑張って強がってた。
そんないつもかっこつけてる父親のことも尊敬しています。

だけどな両親よ、

父親「 せっかくの母さんの遺伝子だったのに、俺が馬鹿なせいでお前が…。」
母親「 ごめんね、お父さん似の顔に産んであげられなくて…。」

と、まったく別々に申し訳なさそうに言われた時はかなり傷付きました。





















阪神高速









十年以上前だと思う。
大阪のFM局で、阪神高速の道路情報が立て続けに流された。

「 阪神高速○○線××付近で豚二頭が逃げ出し、……。」
「 阪神高速△△線□□付近で大量の米が落下し、……。」
「 阪神高速☆☆線★★付近で積荷のキャベツが落下して、……。」

思わず『トンカツ定食か…』と呟く。





















危なくなった君へ











 俺、数年前半年デスマーチが続いて死にたくなった事があったよ。
毎日会社行ったらクライアントが来て、職場の椅子に座ってんのね。
そん時向かいの席の先輩が客先に人質になってて、席が空いてたのよ。
 でね、俺のクライアントがその空いた席に座ってノート広げて向かいの席で報告用の書類作ってんのよ。
その状態が半年。
そう半年。
 職場の上司もそのお客さんには頭が上がらないから、俺に押し付けてる。
フォローもしてくんない。
職場は禁煙でそのお客さんは喫煙者だから、しょっちゅう喫煙室に行くわけよ。
 で、帰ってきたらまた不機嫌そうに向かいの席でわざと視線合わさないでプレッシャーかけてくんの。
息抜きもできない状態で休日も1日も無い状態で、さすがに精神が参っちゃって、ある日朝家を出て、駅まで歩く途中で突然、そうホント突然、死のうと考えたわけよ。
 でね、職場は千葉の柏だったんだけど、なぜか俺神奈川の関内に行ったわけよ。
何で関内かっつーと、今まで一番好きだった子と学生時代によくデートした町なんだ。
そこから1日中歩いた。
風が強い秋の日だったよ。
 知らない間に猛暑の夏も終わってて、そんな事も気付かずに半年も働き詰めたのに初めて気付いて、それもショックだった。
その子とも別れて1年、新しい彼女ができるでもなく、そういう感覚も忘れてた。
 そんな事を考えながらふらふら桜木町まで歩いて、名物のガード下の落書き眺めながら横浜まで歩いて、一緒によく朝まで過ごしたファミレスの近くまで歩いた。
もう夕方になってた。
そのファミレスの前に大きな歩道橋が掛かってて、下には車がぶんぶん。
 でね、ここだ!って決めたわけよ。
でもね、不思議な事にそういう時ってなぜか人目を気にしちゃうんだよね。
歩道橋を通る人がなかなか途切れてくれなくて、踏み出せないのよ。
 ずぅ~っと待ってて、やっと途切れて、今だ!って手すりに乗り出そうとした瞬間、そのファミレスの店員さんと目が合っちゃったんだ。
店員さんは凍りついた感じでこっち見てた。
何故か俺走って逃げちゃったんだよね。
 でね、またふらふら歩いてそのまま何故か伊勢崎町。
横浜の人なら地理解ると思うけど、一日かけて関内~横浜を往復しちゃってたの。
 でね、ずーっと歩いて京急日の出町の駅まで来ちゃった。
そこね、俺がその子に告白した場所だったんだ。
その瞬間、その日一日デートコースを一人で歩きながら一度も思い出せなかったその子の顔や表情、しぐさ、声を急にはっきりと思い出しちゃって、一人で泣いちゃったんだ。
あの頃は輝いてたのに。
俺今何やってんだろう、って。
 ひとしきり泣いて、泣きつかれて、そのまま藤沢の実家に帰ったよ。
実家に着いたのはもう深夜。
俺が帰ったらお袋が泣きながら俺に抱きついてきた。
会社から電話が掛かってきてたらしい。
 朝寮を出て出社してない、彼の勤務が最近厳しかったので疲れているんじゃないか、会社としても非常に心配している、何かあったらすぐに連絡して欲しい、との事だった。
警察からも連絡があったらしい。
 管内の駅で捨てた鞄が警察に届けられてて、中の携帯から実家に連絡が行っていたそうだ。
親父が受け取ってきたその携帯には上司や先輩や同僚や後輩からバカみたいに沢山着信が入ってた。
 普段口うるさい親父が一言、「よく生きて帰って来た、今日は安め」って言ってくれたのを憶えている。
結局死ななかったけど、その夜は眠れなかった。
一晩じゅう「俺の幸せってなんだろう?」って自問自答してた。

 翌日昼から出社して、上司に全部話した。
上司も何も文句を言わなかった。
結局その案件は先輩が引き継いでくれた。
 クライアントはもう来なくなってた。
担当も替わってた。
 引き継いだ後、1週間休みを貰った。
1週間、横浜の大桟橋の脇の船着場の浮き桟橋で波に揺られて毎日ぼぉ~っとした。
「俺の幸せってなんだろう?」って。
俺はやっぱりコンピュータが好きだ。
プログラミングが好きだ。
誰かとその事で議論するのも好きだ。
後輩に教えるのも好きだし、先輩から昔の話を聞くのも好きだ。
お客さんがすっげえ喜んでくれるのも好きだ。
 でね、1週間の長い休みが明けて会社に行って、上司に「やっぱりこの仕事が好きなので続けます」って言ったら喜んでくれた。
こんな事があって、絶対辞めると思ってたらしい。
それから、適当に息を抜く技を身に付けた。
お客さんのアオリのかわし方もうまくなった(と思う)。

 それから数年、今のカミさんには話した事無いけど、カミさんとその脇で寝ているガキの顔を見て、つくづくあの時死ななくて良かったと思う。
耐えれば幸せになれる訳じゃない。
でも、死んでしまうとその後の幸せにも出会えなくなっちゃうよ。
上手く言えないけど、俺は君に生きていて欲しい。
君なりの幸せがどこかに必ずあるはずだよ。






















歩道橋








ウチの実家の近所には、歩道橋がある。
国道1号線沿いだからか?結構デッカイ。

ちいちゃい頃、その歩道橋の足元の階段で、よく遊んだ。
1段~飛べた。はい、2段~飛べるよ~。3段~まだまだいけるよ~
大体4、5段上からピョンッと飛んで、満足していたのだが、
成長するにつれ、段数は増えた。

小学生になり、学校へ行くのに、その歩道橋を渡らないといけない。
上まで上がった事がなかったのだ。
歩道橋の足元で、チョロチョロしてただけで、頂上まで行った事がなかったのだ。

この話を思い出すまで、ずっと「すべり台」のせいで高所恐怖症になったと思っていたが、
いやいや、そうやない!もっと前から怖かった。

高い所が怖かった私は、歩道橋の頂上まで行くのにも怯えていた。
一気に階段が続いてる訳ではなく、途中踊り場のようなのがあるので2段階になってる。
そこから上はドキドキもの。
内心怖かったが、毎日使わなきゃいけないので、練習した。

頂上まで上り、振り向いた瞬間、手に汗を握ったのを覚えている。
振り向かんとこ…
問題はそこから!
それから先、その高さのまま、国道1号線の幅を歩いていかなければいけない。
幸い大きい歩道橋だったので、まん中を歩けば、何て事なかった。

行きは、集団登校だったので、町内のお兄さんやお姉さんを先頭に、
行儀よく並んで歩く。行儀よく並んでるので、まっすぐ歩けて問題はなかった。

でも、いつもいつも、まん中を歩ける訳ではない。
帰りは、1人だったり2人だったり3人だったりする…

前から犬を連れた人が来た日にゃ、大騒動だった。
でっかい犬も怖いし、歩道橋の下が見える端っこなんか、もっと怖い。
犬の方をじぃ~っと凝視してしもたもんやから、犬も私をじぃ~っと見る。
(いや~、あっち行って~~)と心の中では叫んでいるのだが、
こういう時に限って、性格の悪い飼い主だったりする。

私の様子を見て、面白がって、ウリウリ~って犬の手綱を持ち替えて、
こっちに寄せようとするのだ。そんなんしたら、私の歩けるスペースがなくなる。

私の限界は、結構狭い。これ以上柵に近付いたら落ちる!と思い、
ピコーンピコーン、危険信号である赤いランプが点滅。
犬と歩道橋の幅、この2つの恐怖が最高に達した時、

途端に、ビャァ~~~!!とわめき、叫び、大混乱な私。
ハハハ!怪獣や。
下を歩いてた人が見上げる程、でっかい声でわめいた事もある。

しばらく歩道橋というものに慣れるまで、腰を曲げ膝を曲げ、
狭い洞くつにでも入っていくような格好で、
遠くの景色を見るなんて余裕はなく、まっすぐ前だけを向いて、
少々うなだれ気味に歩いていた。
そんな様子を、みんなが黙って見てる訳がない。
友達は呆れてたと思うが、家族には笑われた。

悔しいが、怖いもんは怖いのだ。
これが、なかなか克服できず、何度も夢に見た事がある。

夢に出てくる時は、めっちゃ強気なのだ。
高い所なんか怖い訳がない!
この位の高さが怖くてどうする??なんて正反対なのだ。

歩道橋の柵の上に立って(そんな事してはいけません。)平均台~とか、
柵からぶら下がって(こんな事もしてはいけません。)刑事ドラマみたいに、
ヒョイッとトラックの荷台に乗ってみたり、それはそれは考えられない事ばっかりする。
夢の中では、全く何ともないのだ、不思議な事に。
しかし、そんな夢から覚める瞬間、手の平にジワ~っと汗をかく。

そんな裏腹な夢を見てるうちに、上級生になり、町内の班長になってしまい、
私が先頭を切って、下級生を引き連れる事になった。
背中曲げたり、腰を曲げたり、膝を曲げてる場合ではない。
下級生には、妹もいる。妹に馬鹿にされては困る。
いろんな意地によって、少々克服できた。


そんな私の歴史がいっぱい詰まった歩道橋、未だに健在である。
今でも怖いのだ…トホホ
前から大きい気の荒らそうな犬が来たら、ギャァー!!と私が吠えるかもしれない。























     日本平歩道橋







 静岡に日本平という所があります。
この日本平は、山なのですが、山頂まで道路が続いていて車で行けます。
その道路の途中で、民家も何も無い所に歩道橋があるのです。
人もおらず、誰も利用することが無い歩道橋がポツンとあるのです。
 この道路は、非常に事故の多い道路であることは確かで、事故があったから歩道橋を作ったと言うのは、ホントのことのようです。
それに尾ひれが付いて、事故死した人の霊が出るようになったために作ったと言う噂もあります。
 日本平は観光地ですから、バスも走っていますし、一度近くにお立ち寄りの節は見に行って下さい。
歩道橋が必要無い周りの状態から考えると、スゴク場違いな歩道橋であることはスグに分かります。
キツネやタヌキが事故に遭わないためのものとしたら、交通警官がキツネやタヌキを集めて、正しい道路の渡り方を講習しなければ、キツネやタヌキは歩道橋の上を歩かないと思います。


追加

 この歩道橋の近くに、昔、ボーイスカウト絡みの施設があったらしいと言う話もあるようなので、この施設のための歩道橋だったとすると、一応、納得するのですが、ホントにあったかどうかは分からないので、真相は不明です。

























稲川淳二の女王の歩道橋








 僕の実家はけっこうな田舎なんですが、そこにチョット奇妙な場所がありまして、今回はそのことをお話したいと思います。
少し長くなりますが、御容赦ください。

 その奇妙な場所とは小学校です。
この小学校、今では少子化の影響もあってか、廃校になってしまっているんですが、だだっ広い田んぼの真ん中にぽつんと建っていて、他に建物はなく、かなり離れた場所に住宅地があり、そこまで真っ直ぐな道が延々と続いている・・・。
そんな場所なんです。
 何が奇妙かというと、小学校から出てちょっと進んだあたりに歩道橋が設置してあるんですが、 道は小学校までしかなく、その先にはなにもありません。
つまり、車の通りなんてほとんどないんです。
小学校と住宅地を行き来する教師ぐらいですか。
その上、周りは田んぼしかない訳ですから、車が来たらすぐに分かるはずなんです。

 ちょっと話しは前後しますが、この小学校には年に一回、演劇の発表会がありまして各クラスがそれぞれ演劇をやり、保護者に観てもらう・・・といった行事です。
2年生のある女の子・・・仮にAちゃんとしておきましょうか。
 彼女はその行事をとてもに楽しみにしていました。
というのも、Aちゃんはその劇の中で「女王様」の役をもらったからです。
主役ではないものの、登場回数やセリフが多く、非常に重要な役でした。
Aちゃんは常に台本を持ち歩き、何度も読み返してセリフを覚えようと努力をしていました。
 その日もAちゃんは台本を読みながら下校していました。
すると突然、Aちゃんが歩いていた歩道に向かって一台の車が突っ込んで来たのです。
Aちゃんは避ける間もなく、即死だったそうです。
手にはしっかりと台本を握ったままでした。

 通学路でそんな事故が起こったとあっては、たとえ車の方が悪かったにせよ、学校側としても、何らかの対策をとらなければならなくなりました。
苦肉の策として事故があった場所に歩道橋を設置するということで落ち着いたそうです。
つまり、これが件の歩道橋が設置された経緯でした。


 話を戻して、廃校がある場所は地元ではちょっとした心霊スポットになっていました。
幽霊を見たなんて話しは一度も聞きませんでしたが、田んぼの中にぽつんと建っている廃校、車の通らない道に不自然に設置された歩道橋・・・。
恐怖を感じるには充分な場所だっと思います。
 僕も数年前、彼女と一緒にその歩道橋を見に行ったことがあるんです。
夜中の1時くらいだったと思います。
街灯もない真っ暗な道を車でしばらく走っていると、件の歩道橋が見えてきました。
 僕達は適当な場所に車を止めて、外に出てみることにしました。
外は真っ暗で人気なんて全くありません。
僕は持参した懐中電灯を点けると光を歩道橋の方に向けました。
 話に聞いたとおり、確かに歩道橋は不自然な場所に設置されていて、その歩道橋越しに見える廃校も、いかにもという雰囲気で僕は夏だというのに背筋に寒いものを感じていました。

 さすがに廃校に入る勇気はありませんでしたが、彼女と二人で歩道橋に登ろうということになり、階段まで近づいて行くと、その脇に古ぼけた看板が立っていることに気付きました。

“この歩道橋は安全を守る為に造られました”

看板には大きくそう書かれており、その下にこの歩道橋が設置された経緯が書かれていました。
何気なくその看板を眺めていた僕は、あることに気付き、驚きました。
「安」という字のうかんむりと、「全」という字の入の部分が薄くなって消えかかっていたんです。
つまりその部分を消して読むと・・・、

「この歩道橋は女王を守る為に造られました」


















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