日々の出来事 2月29日 遠山の金さん
今日は、遠山金四郎景元が亡くなった日です。(安政2年2月29日)
“遠山の金さん”こと、遠山金四郎景元は江戸幕府の旗本で、天保年間に江戸北町奉行、後に南町奉行を勤めた人物です。
若くは彫り物を入れるなど、町屋で放蕩生活を送りますが、家督を相続後は真面目にお仕事を続けました。
桜吹雪
遠山金四郎景元は、青年期の放蕩時代に彫り物を入れていたといわれる。
これが、有名な桜吹雪である。
しかし、これも諸説あり、“右腕のみ”や“左腕に花模様”、“桜の花びら1枚だけ”、“背中に女の生首”、“全身くまなく”と様々に伝えられる。
また、彫り物自体を疑問視する説や、通常“武家彫り”するところを“博徒彫り”にしていたという説もある。
彫り物をしていた事を確証する文献はないが、若年のころ侠気の徒と交わり、その際いたずらをしたものであると推測される。
奉行時代には、しきりに袖を気にして、めくりあがるとすぐ下ろす癖があった。
奉行として入れ墨は論外なので、おそらく肘まであった彫り物を隠していたのではないだろうか。
ただ、これらは全て伝聞によっており、今となっては事実の判別はし難いのが実情である。
☆今日の壺々話
遠山の金さん
太鼓の音が響きます。
“ ドンドンドンドン!!”
「 北町奉行、遠山左衛門尉様、ご出座ァ~。」
一同、頭を下げます。
「 ハハァ~~。」
お裁き開始です。
「 これより地上げの件について吟味を致す、一同の者面を上げい!」
一同、神妙に顔をあげます。
「 さて越前屋、渡世人の寅吉と組んで地上げのため長屋のお鹿婆さんを騙して追い出したとあるが相違無いか?」
越前屋と寅吉、誤魔化そうとします。
「 違いますがな、なあ、寅吉!」
「 そんなこと知らんよな、越前屋さん。」
「 借金のかたに貰おうとしただけですがな。」
長屋の連中を従えたお鹿婆さんが反論します。
「 違います、騙されたんです。
遊び人の金さんならすべて話を知っています。
金さんを呼んでください。」
越前屋と寅吉、しらを切ろうとします。
「 金さん?
そんなヤツ、知らんよなァ、寅吉。」
「 知らん、知らん。」
旗本の坂本殿が、圧力を掛けます。
「 遠山殿、このようなでっち上げの訴訟を採り上げるなど、御身のお立場も危ういですぞ!」
越前屋が言います。
「 そうでんがな。
濡れ衣を着せて、嘘を言っているのは、お鹿婆さんの方ですがな・・。
もう、かないまへんなァ。
金さんなんてヤツ、居る訳おまへんがな。
金さんが、ホンマに居るんやったら、出しておくれなはれ!
なあ、みんな!」
子分達が騒ぎ出します。
「 そうだ、金さんを出せ!」
「 出して見ろ!」
「 そんな、ヤツ、居ねえんじゃないか、ハハハハ!」
「 そうだ、そうだ、居るもんか!」
北町奉行、突然、べらんめえ口調で一喝します。
「 やかましぃやい! 悪党ども!!
おうおうおう、黙って聞いてりゃ寝ぼけた事をぬかしやがって!」
越前屋と寅吉が声を大にして言います。
「 でも、居ないよなァ、越前屋さん。」
「 そうですがな、寅吉。」
ホントに居るのなら、会って見たいもんですわ、ハハハハハ!」
北町奉行が、それに応えます。
「 そんなに会いてぇなら会わせてやる。
この桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねえぜ!
越前屋に寅吉、密かに旗本の坂本殿と組んで、この事件を起こしたのは、この桜吹雪が見てるんだぜ!!」
北町奉行が片肌脱ぐと、そこには金さんと同じ桜の彫り物出現!
“ ジャジャ~ン!!”
「 おおっ!」
「 おおっ!」
狼狽した旗本の坂本殿が、北町奉行に切り掛かろうとします。
「 う~ん・・・・・。
おのれ遠山!!」
でも、北町奉行に蹴られてしまいました。
“ すこ~ん!!”
旗本の坂本殿は取り押さえられます。
その様子を見た越前屋と寅吉と子分どもは、おとなしくなります。
「 ははぁ、畏れ入り奉りました!」
北町奉行が宣言します。
「 越前屋に寅吉、市中引き回しの上、打ち首獄門。
坂本殿、御公儀より追って極刑の沙汰があろう。」
北町奉行の顔のアップが映ります。
「 引っ立てい!」
悪人達は、引っ立てられて行きました。
その後、お鹿婆さんが頭を下げて言います。
「 お奉行様とも知らずご無礼を・・・。」
急に北町奉行が金さんに戻ります。
「 俺が金さんって事は内緒にしておいてくれよ。
お鹿婆さん、達者で暮らすんだぜ。
これにて一件落着!!」
場面が変わって、金さんが行き付けの店の町人などと軽口を叩いて番組は終わります。
めでたし、めでたし・・・。
ハイ、音楽!
遠山の金さん捕物帳
( 歌親分&子分ズ、作詞名村宏、作曲小川寛興 )
ヽ( ・∀・)ノ 気前が良くて二枚目で
ちょいとやくざな遠山桜 ♪
御存知長屋の金さんに
ほれないヤツはワルだけさ
おっと金さんまかせたよォ~ ♪ヽ(´∀`)ノ
♪(´∀`)ノ゙ 重ねた罪をしょいこんで
いずれ地獄へ落ちていくだろうが ♪
許しちゃおけない悪党に
追われて謎を追いかける
おっと金さんあぶないよォ~ ♪ヽ(´∀`)ノ
♪(´∀`)ノ゙ お江戸の空に春を呼ぶ
花もうれしい遠山桜♪
御存知長屋の金さんが
もろ肌脱いでべらんめぇ
おっと金さん名調子ィ~ ♪ヽ(´∀`)ノ
と、言うわけですが、普通は、
「 北町奉行、遠山左衛門尉様、ご出座ァ~。」
「 あっ、金さんだ!」
「 ははぁ、畏れ入り奉りました!」
「 ヤバッ!」
予想外の展開に、金さんが慌てて片肌を脱ごうとモソモソしているときに、エンディングミュージックが既に始まってしまいます。
♪ 気前が良くて二枚目でぇ~~ ♪
あっ、ヤバイよ、ヤバイよ・・・・・。
忍者
うちのアパートの外国人住人は、なぜかみんな忍者が大好き。
「 ニーンージャ!ニーンージャ!」
と、うるさいので、忍者装束を買える店を紹介してやった。
「 スタンダードに黒が欲しい。」
「 ピンクは目に痛いね。」
「 この水色も発光してるよ。」
「 黄色は忍んでなさすぎる!」
「 ねえ、マイク(黒装束)とジェフ(紺装束)だとジェフのほうが忍んでるよ!?」
「 紺色のほうが忍ぶんだね!」
「 どうせなら忍者戦隊作ろうぜ!俺レッド!」
「 じゃあ僕シルバー!」
「 ないよ、シルバーの忍者服。」
など、大所帯でとんでもない騒ぎになった。
事前に店に連絡しててよかった、ほんとに。
というわけで、今アパートの廊下を忍者が大量にうろついている。
どこかの部屋に集まって、かっこいい忍者ポーズの練習をしたりもする。
特撮の悪役好きが何人かいるのもあってか、
「おやつは羊羹じゃないと認めない」悪の忍者軍団
vs
「ういろうだっておいしいじゃないか」正義の忍者軍団
という特撮ごっこで遊んでいる。
外国人たちがとうとう山吹色のお菓子や、越後屋や、町娘のお約束を理解した。
今は国際戦隊シノブンジャーになって、敵のアクダイカーンとか、エチゴーヤとか、オンミツスリー(敵忍者3人組)と日々戦ってる。
作戦会議をするときは、室内に「秘密会議中」っていう手書きの暖簾がかかる。
あと、シノブンジャーには主題歌がある。
最初は今年の戦隊の替え歌だったんだが、カクレンジャーとハリケンジャーの存在を知ってからは、どの曲の替え歌にするかで揉めている。
敵組織のテーマ(替え歌)も作っている最中。
ゴールデンウィークは町のホールを借りて、みんな忍者ごっこで遊び倒した。
「 俺は闇に生きる!」
と、ホールの隅っこの闇に溶け込もうとする紺装束の黒人とか、
「 忍法めくらまし!蛍光ピンクフラーッシュ!」
と、窓の下で天然スポットライトを浴びるピンク装束の白人とか、
「 忍者戦隊シンゴウマン!」
と、赤黄青の装束で決めポーズをとる黄色人たちとか、超カオス。
今は遠山の金さんごっこを計画中。
桜吹雪の入れ墨をどうするかで悩んでいる。
寺社奉行
高校卒業時、友達5.6名で集まり、飲み会をやった。
高校だけの友達ではなく、小中からの友達でした。
飲み会をするにあたり、仲の良いAという寺の息子(代々の住職家)のオヤジさんが、
「 どうせ騒ぐんだから、うちの離れの部屋でやりなさい。」
と言ってくれた。
自分の息子が他の家に訪れて騒ぐのを懸念したのかもしれない。
酒盛りしてて(ビール少しだけ)、俺はいつの間にか寝てしまった。
なので以下、友達たちから聞いた話ですが。
ぐーぐー寝ていた俺がいきなりむっくり起きた。
でも顔は寝てる。
そんでいきなり、
「 この寺は~。」
と言い出して、
「 文政●年に~。」
とか、なにやらグダグダとしゃべり出したと。
そんで友達が、
「 え?何言ってるんだ?」
驚いて凝視してたら、
「 この寺には昔、秘蔵の品を隠す場所があってなあ。」
とか言い出したらしい。
そんで友達が、
「 ええ、なんかこええ~!」
とか言い出したら、Aのおじいさん(当時もう90歳前後)がたまたまトイレに行き、俺等がいる部屋をのぞいたんだと。
そしたら俺、おじいさんに向かって笑みをうかべて、
「 似ているもんだなあ~。」
って。
おじいさんは、
「 あぁ・・・・?
・・・・あまり飲むなよ・・・。」
と言って去ったそうだけど・・・。
そしてひとしきりしゃべると、また突然、俺は横になってぐーぐー寝だした。
それからしばらく目が覚めなかったらしい、小1時間くらい。
そして起きたら当然、みんなにその話をされた。
俺はさっぱりわからんのだが、
「 おまえ、なんかやべえんじゃねえのか?」
とかさんざん言われた。
医学部志望していた友達には完全に病気扱いをされてしまった、脳がやばい、みたいな。
はたまた、俺が演技をしていると疑っているヤツもいた。
それから大学へ行き地元を離れたんだが、共通の知人を介して、Aのメルアドは知っていたんで、連絡をとり、昨年、10年ぶりにAと地元で会った。
飲んでてその話をされたとき、Aが「そうそう、そういえば」と。
聞いたら、Aの寺にはたしかに”秘蔵の品を隠す部屋”があったとか。
開かずの間の中にお堂みたいなのがあり、そこへ隠していたらしい。
大正時代だかに、建物ごと壊してしまったそうですが。
うちは代々の武家でして、その関係で何か???なんて思ったんですが、寺に関係あるのか?とか、無知な俺にはよくわからなかった。
よって、その話はもうそれで終わってしまった、他にも話すことあったし。
しかし、ある一冊の本を入手して最近わかったことなんですが。
俺の7代くらい前の御先祖が、寺社奉行なる職に就いていた。
文政、天保の時代です。
しかも筆頭寺社奉行という役職で、かなり偉かったと。
それをAに教えて、Aがオヤジさんにその話をしたところ、
「うちは当時、宗派関係なく、寺の組織のまとめ役とかしていたから、筆頭寺社奉行であれば間違いなくうちに来てるだろうね。
寺社奉行は寺社の取り締まりをするから、密談やらなにやら、いろいろあったんじゃないかな。」
それ聞いて、Aが俺に電話くれたんだけど、驚いた。
ただまあ、俺自身に記憶がなかったので言明はできないけど。
北町奉行”根岸鎮衛”
~耳袋の作者~
北町奉行”根岸鎮衛”は、江戸時代の怪談集”耳袋”の作者です。
また、大岡越前や遠山の金さんと並ぶ名奉行でもありました。
少し長くなりますが、興味のある人はど~ぞ!
ちょっと前までは、江戸時代の名奉行というと、大岡越前守忠相と遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元の二人が定番で、小説でもテレビの時代劇でも、奉行がでてくる話の場合には、この二人が交代で主役になるという感じでした。しかし、さすがにこの二人だけでは飽きられてきたのか、小説でもテレビでも、根岸肥前守鎮衛(ねぎしひぜんのかみやすもり)が取り上げられることが増えてきたような気がします。
私が彼の名を初めて聞いたのは、子供の頃、ラジオで聴いた講談でした。確か、「奉行と検校」という題だったと思います。話の細部はすっかり忘れてしまいましたが、越後から、盲の子と貧農の子が江戸へ逃げ出し、その道中で偶然知り合い、助け合って江戸までたどり着く、という話でした。そして、別れるときに、貧農の子が自分は名奉行になりたいというと、盲人は、では俺は検校になりたい、といい、互いに頑張ろうと誓い合う。この貧農の子が後の名奉行根岸肥前守であり、盲人が男谷検校でした、という落ちだったと記憶しています。
男谷検校とは、言うまでもなく勝小吉の父であり、勝海舟や男谷精一郎の祖父です。一方、根岸肥前守とは聞かない名だな、と思い、逆に強く印象づけられました。その後、いろいろな折りに少しずつ根岸鎮衛のことを聞き覚えました。何といってももっとも詳しい情報を提供してくれたのは、根岸鎮衛自身が書いた「耳袋」という随筆集です(岩波文庫に全3巻で入っています。)。
紹介した講談の真否は脇に置き、根岸鎮衛は、江戸時代有数のシンデレラボーイであり、また、下世話に通じていることやその飾らない人柄と相まって、昔から、元は町人だったという伝説のつきまとっている人物です。一説には刺青があったといわれます。遠山の金さんが町奉行になるのは天保の改革の時ですが、根岸鎮衛の活躍時期はそのかなり以前、田沼時代から家斉にまたがる時代ですから、刺青説が本当だとすれば、間違いなく、こちらの方が元祖刺青奉行です。
正式の歴史によると、鎮衛は150俵取りの御家人、安生定洪という人の三男です。この定洪という人は、現在の神奈川県相模湖町の農民の出身で、御徒士の株を買って幕臣になった人物です。有能な人物で御徒士組頭に出世し、最後には代官にまでなりました。ですから、お世辞にも立派な家柄とはいえません。
一方、根岸家は、150俵取りと安生家と同格の御家人ですが、先祖が甲府藩で徳川家宣に仕えていたため、家宣が将軍になるに伴い御家人になったという比較的新しい家柄で、やはりそう立派な家柄ではありません。この根岸家の当主が30才の若さで死亡したところから、末期養子(臨終の席での遺言に基づき養子になったという形式)の形で鎮衛がその跡を継ぎます。時に1758(宝暦8)年、鎮衛22才の時でした。
この辺りの家柄関係に、鎮衛が実際には定洪の実子ではない可能性、すなわち鎮衛町人説が流布する実際的な根拠があります。つまり、町人が御家人の株を買うという場合、一応同格の家の子であるという形をとり、そこから株を買った家の養子になるという形式を採ることが多いのです。自分も御家人株を買って御家人になった人物の三男という設定は、こうしたやり方にぴったり当てはまります。
根岸家の養子になった時点で、鎮衛が(あるいはその父が)かなりのお金を必要としたことは間違いありません。前の当主は30才で若死にするくらいですから、おそらく係累はほとんどなかったでしょう。このように生きている係累の少ない家は、御家人株の売買ではかなりの値になるからです。たとえ本当に鎮衛が定洪の三男で、そして本当に株の売買ではなく正規に養子に入ったとしても、末期養子ですから、関係各方面にかなりの礼金を包まなければならなかったはずです。
また、病死するような当主を持つ家は当然小普請組に入っています。小普請から抜け出して役に付くというのは、当時の幕臣にとり大変なことでした。ところが、鎮衛は家督を相続するとすぐに勘定所の勘定(今の感覚で言うと、大蔵省の平の事務官ないし係長と言うところでしょうか。)として勤務しています。実父とされる定洪の顔が利いたとしても、これ自体、かなり異例といえます。江戸中期の腐敗政治の時代ですから、ここでもかなりの金が動いたことは間違いなく、養子そのものになることでの費用と合わせると、ちょっとした額にのぼるはずです。
それだけのお金を、わずか150俵取りの、農民上がりの代官が三男坊の冷や飯食いのために都合したと考えるのは無理な感じがあります(豪富で鳴る男谷検校が、末っ子の小吉に買ってやった御家人株の勝家の禄高はもう一桁少なかったことを考え合わせてみると、納得がいくでしょう)。仮に鎮衛が、町人としてかなりの蓄財に成功して、それを投じて御家人になったと考えると、この辺のつじつまが良く合うわけです。
しかし、前身が町人かどうかは、彼の生涯を考える際には余り問題ではありません。彼のすばらしい点は、このような御家人としても底辺に近いところから出発しながら、まれにみる有能さを発揮してめざましい出世をした点にあるのです。
勘定所に勤めはじめてからわずか5年後の1763(宝暦13)年に、鎮衛は評定所留役(とめやく)になります。評定所というのは、老中や三奉行を裁判官とする幕府の最高裁判所で、留役というのは、今の言葉で言うと、その裁判所の書記官のことです。しかし、老中や奉行は一々裁判の事実調査などはしませんから、実際には訴訟事件に関する事実関係や判例の調査、さらには判決原案までも書くという重要な職です。その意味では、今日の言葉では、最高裁判所調査官といった方が近いと思います。よほどの事件でない限り、留役の具申した線で評定所判決は決まりますから、かなりの才能がなければつとまりません。わずか5年でこの職に就いた、ということ自体、異数の出世といえるでしょう。
根岸鎮衛についていう場合、日本史ではもっぱら松平定信の知遇を得たことだけが云々されます。しかし、この評定所勤務で、私は、彼が田沼意次の知遇を受けるようになったのではないかと想像しています。彼のように家柄もなく、何の引きもない者にしては、いくら才能があるにせよ、そうした仮定でもおかないと、この後しばらくの間の出世の順調さを説明できないからです。この時期、1758年生まれの松平定信は、まだ幼児で、何の実権も持っていません。これに対して、田沼意次は、美濃郡上藩の百姓一揆に関する裁判で1758年から評定所に関わるようになっていますから、彼がこの有能な評定所留役に目を留めた可能性は十分にあります。
田沼意次の知遇を得たかどうかはともかく、鎮衛がこの難しい職を立派にこなし、上司から高い評価を受けた証拠に、その5年後の1768年には勘定所に戻って、御勘定組頭になります。今日で言うと、大蔵省の局長級の職です。課長級ポストである支配勘定を飛び越しての栄進です。寛政の改革で実施された公務員試験を主席で合格した太田蜀山人ほどの人物でさえ、生涯を平の勘定で過ごしたことを考えると、これが常識では信じられないほどのすばらしい出世であることは明らかです。この栄進に当たっては、それが田沼か否かは別として、評定所に連なる幕府高官の強力な推薦があったことは確実といえます。彼の家柄そのものは最低に近いほど悪いのですから、その線からの栄進の可能性は絶対にありません。
さらに、その10年後、1776年、42才の時には、彼はなんと勘定吟味役に就き、六位となって布衣(ほい)が許されます。今で言う会計検査院長です。吉宗時代に足高の制ができて、能力次第で誰でもどんな地位にでも登用することが可能になったとはいえ、奉行職は普通は旗本のつく地位です。したがってこの勘定吟味役が当時の普通の御家人として到達できる最高の地位でした。役高500石(手取りでは500俵程度)、役料300俵ですから、手取額で年俸800俵の地位です。
したがって、後は終生その職にあっても、人もうらやむ出世といえます。ところが1784(天明4)年に鎮衛はさらに累進して佐渡奉行になります。佐渡奉行は、遠国(おんごく)奉行の中での格はそう高いとはいえませんが、幕府財政の生命線ともいえる佐渡金山の生産を一手に握っており、勘定方としては非常に重要な職です。同時に家禄に50俵が加増になります。遠国奉行になった者に対しわずか50俵の加増とは幕府もずいぶんけちなようですが、家禄への加増というのは、能力の判らない子々孫々にまで保障される基本給ですから、慎重にならざるを得ないのです。佐渡奉行は、役高1000石(つまり手取りでは1000俵)、役料1500俵ですから、あわせて年俸2500俵の所得になったことになります。
1786(天明6)年、田沼意次が辞職に追い込まれ、翌年の6月に松平定信が老中筆頭に着任していわゆる寛政の改革が始まります。当然、幕府の中央人事には、田沼派一掃のための粛清の嵐が吹き荒れます。
この時に、佐渡という少々中央からは離れたところにいたのが幸いしたのでしょうか、この年7月に鎮衛は勘定奉行に抜擢され、家禄も500石に加増されます。つまり御家人から旗本の端くれに連なるようになったわけです。勘定奉行は今日で言えばほぼ大蔵事務次官の職に相当します。役高は3000石です。12月には従五位下に叙任され、以後、肥前守を名乗ることになります。彼が松平定信に気に入られて抜擢を受けたといわれるのはこのことです。確かに遠国奉行と、寺社・町・勘定の三奉行との間には大変高い壁がそびえていますが、勘定吟味役と遠国奉行の間にある壁ほど高くはありません。松平定信による抜擢以前に、すでに彼は異数の出世を遂げていた人物であったのです。
寛政の改革は、定信の失脚とともに1793(寛政5年)年に終了しますが、鎮衛は政治の渦を無事泳ぎ切り、それどころか1798(寛政10)年にはさらに累進してとうとう江戸南町奉行の地位につきます。以後、1815(文化12)年11月まで18年の長きに渡って在任し、辞職した翌月の12月に死亡します。享年79才(数えで80才)でした。
幕府の俸給制度の面白い点は、高級官僚に対する賞与の一部として、その子供の出世を早くすることです。鎮衛の場合、非常に長期に渡って江戸町奉行という要職にあったので、子供ばかりか孫までが、彼の生きている間に布衣以上の地位につけました。これは非常に珍しいことといえます。
また、その1815年6月には家禄が500石加増になって、それまでの500石と併せて1000石取りという堂々たる旗本に出世していました。
この最後の加増を受けたとき、彼が読んだ狂歌があります。
御加恩をうんといただく五百石
八十の翁の力見てたべ
この狂歌に示されるように、地位が上がっても偉ぶらない人柄でした。勘定奉行の時か町奉行になってからのことかはっきりしませんが、ある時、諸役人が打ち揃って本所辺の視察に行き、昼弁当を食べていたとき、鎮衛の出世のことに話が及びました。すると、彼は「私の妻などは、皆さんの奥様とは違い、昔は豆腐を買いに出たものです。自ら台所の釜の下の世話をやっていた身分ですよ」と高らかに笑ったと言います。
勘定方の役人としては、特に土木工事や建築工事の指揮監督に優れていたようです。平の勘定時代から勘定奉行まで、鎮衛の勘定所勤務は相当長期間に及びますが、その間に、日光の廟や禁裏・二条城等の普請、東海道や関東の川普請、浅間山噴火の復旧工事など、様々な工事の実施を担当し、その落成の都度、褒賞としていただいた黄金(大判小判)が通計260余枚というのですから、大変なものです。
町奉行としては、下世話に通じた判断をよく示し、名奉行とうたわれました。例えば次のような話があります。
江戸川の鯉は、船河原橋の上流では漁をすることは禁じられていました。ところがこの船河原橋の下で鯉を捕った者がある、との訴えがでました。本来なら、訴えがあれば必ず審理をすることになっています。ところが、鎮衛は、「船河原橋の下」というのはその下流という意味であろう、したがって事件にはならない、と事件そのものを握りつぶしてしまったと言います。無用の罪人を出したくなかったのでしょう。
またある年、津波があって、大きな船が永代橋に吹き付けられ、橋を壊した、という事件がありました。橋の管理人の側では、船が橋を壊したのだから橋の修理費を船の持ち主が負担するように、と訴えました。鎮衛は、これは天災なのだから我慢したらどうかと諭したのですが、橋の管理人はうなずきません。そこで、鎮衛は最終的に次のように判決しました。「船が橋を壊したのは確かだから、船の持ち主は橋を修理すべきである。しかし、船が砕けたのは橋があったからなので、橋の管理人は船の修理費用を負担すべきである。」橋の修理費よりも、船の修理費の方が遙かに高額になるので、橋の管理人側ではあわてて示談にした、という話です。
北町奉行が担当した民事訴訟で評定所にまであがった事件に、町家から寺院を相手に茶漬け飯の売掛金として50両を請求したというものがありました。茶漬け飯の代金で50両というのは少々大金過ぎると、北町奉行は首を傾げました。すると鎮衛は脇から、その町家というのは一体どこにあるのだ、と聞き、湯島天神前だと答えられると、「それは子供の踊りを見過ぎたのだろう」といったものですから、僧侶の方では顔を赤くし「速やかに借金を支払います」と答弁して、事件はけりになったといいます。実は、湯島あたりには男色を売り物にする茶屋があり、これを「子供踊り」と称していたのです。そうした市井の事情も鎮衛はちゃんと知っていたのです。
こうした下々の事情に精通している鎮衛だからこそ、寛政の改革以降のデリケートな時期に18年もの長きに渡って町奉行職を立派につとめることができたのでしょう。
また、町奉行には、あちこちから、現在継続中の訴訟について、自分の知り合いの有利にしてくれ、という話が当然に来ます。単なる硬骨漢ならそういうとき、きっぱりと断って人の恨みを買ったことでしょう。ところが苦労人である鎮衛は、そういうとき、いったんは気軽に引き受けたそうです。しかし、その後で、「最前のことだが、私は年寄りで、近頃とかく物忘れが激しい、忘れたら堪忍しろよ」といい、実際には何もしなかったといいます。
異数の出世をしたわけですから、様々なしるべがなにとぞお引き立て下さい、といってくることも多かったのですが、これに対しても、「心得た」と調子の良い返事はするのですが、わざわざ推挙すると言うことは決してしなかった、といいます。このことについて家族に対しては「よその者も、大切に奉公し、精勤して年月を重ねれば、自ずと天の恵みはあるものさ。私の知ったことではない。」といっていたそうです。
こうした公平無私の態度もまた、彼の名奉行としての評判を高め、普通ならとっくに隠居している年までも現職でおく理由となったはずです。
しかし、根岸鎮衛を、単なるシンデレラボーイ以上の者としているのは、「耳袋」に代表される彼の文筆力でしょう。「耳袋」は、かれが佐渡奉行であった時代から死ぬ直前まで30年余りに渡って書き次いだ1000編もの随筆を集めたものです。内容は、上は将軍家から下は夜鷹やにいたるまでの実に様々な人々や事柄についての噂話です。人気がでて、途中では止められなくなって、死の間際までずっと続いてしまったようです。
また、彼は毎年新春になると、艶笑の戯れ書きをするのが常でした。このことは将軍家等もみな知っていたので、春になると坊主衆に、今年の肥前守の戯れ書きはまだ入手できないか、と催促していた、ということです。
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