日々の恐怖 1月7日 COFFEE
彼女は、金婚式を目前にして夫を亡くした。
長患いで覚悟はしていた。
五十年近くも一緒にいたが、お世辞にも仲睦まじい夫婦ではなく、はっきり言って腐れ縁だった。
しかしそれでも、長年連れ添った伴侶をなくすというのは、彼女が思っていた以上のショックだったようだ。
そんなつもりはなかったのに、彼女はすっかり元気をなくし、家に閉じこもりがちになった。
これではいけないとは思うのだが、どうしても気持ちが外へと向かず、亡くなった夫のことばかり考えてしまう。
そんな風に数ヶ月が経った時、ふとあることに気がついた。
夫の愛用していたマグカップが、出した覚えもないのに一つだけカウンターに出ているのだ。
何度直しても、気づけばカウンターに出ている。
最初は自分の認知症を疑った彼女だったが、やがて思い直した。
夫のマグカップは、温度変化で色が変わる素材でできたいた。
温かい飲み物を入れると、黒いカップが白く変わるのだ。
彼女の目につくときはいつも、中身は入っていなくてもマグカップは白に変わっていた。
夫は、生前よく好きなコーヒーを淹れて一人で飲んでいた。
自分には見えないが、きっと夫はまだこの家にいて、ありし日のように行動してあるのだ。
彼女はそう思った。
恐怖はなく、むしろ嬉しかったという。
それからというもの、彼女は毎日のように現れるマグカップを見守った。
時間はまちまちだったが、一日一回、一つだけ現れるカップは、十分ほどで徐々に色が白から黒に戻り、完全に黒くなると最後に、余韻のように一瞬だけコーヒーの香りがしたそうだ。
やがて彼女は、家に閉じこもることもなくなり、元のように外に出かけることも増えたという。
「 きっとご主人も、あなたのことを見守ってくれたんですねぇ。」
ほのぼのとした気持ちで私が言うと、彼女は笑いながら、
「 違うわよぅ~!」
と手を振った。
「 ある日ね、私気づいてしまったのよ。」
「 気づいた?」
「 あの人ね、前から自分の分のコーヒーしか淹れなかったの。
私も好きなの知ってるのにね。
いつも自分のことばっかり。
死んでからもそんなだと思ったら、なんだかあの人のことを思ってメソメソしてるのが、馬鹿馬鹿しくなったのよ。
あとそんなに長くないんだから、外に出て楽しまないとね。」
彼女はガハハハ、と清々しく笑い、私は普段の自分の行動を振り返った。
マグカップはまだ出現しているが、相変わらず一つだけのようだ。
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