日々の恐怖 8月29日 天袋
俺は、子供の頃、今は亡き伯父夫婦に可愛がられていた。
母方の長兄である伯父は、祖父から土地山林の大部分を受け継ぎ、特に定職をもつでなく、世俗と交わるのを拒むように、土地の管理と賃借収入で悠々自適に暮らしていた。
人里より少し離れてある代々の古い平屋を受け継ぎ、何故か子供もなく夫婦2人きりで、広い家を持て余し気味に暮らしていた。
共働きで忙しかったうちの両親に代わって、我等姉弟をよく自宅に呼び寄せては、ご馳走し、珍しい菓子を振る舞い、小遣いを与えて、親になった気持ちを味わっていたと、歳の離れた伯父とは少し疎遠気味の母は言っていた。
高校に入り部活が忙しくなるまで、俺はよく土曜日の昼に伯父宅へ行き、菓子を食い、小遣いをせびっていたのを覚えている。
それでも高校生になって部活や補習で忙しくなり、あまり寄り付かなくなった。
そんな高校2年生の春に、伯母が亡くなった。
急な脳溢血で、病院に運ばれる前に事切れていたと母は言っていた。
高校生になり、伯父の家に寄り付くことは正月と盆の挨拶程度になっていた俺は、伯母の葬儀で久々に訪ねた伯父の家の荒れように驚いた。
障子はぼろぼろ、襖は色あせて、洗い物は貯めっぱなし。
確か祖父の代からの通いのお手伝いさんがいたはずだが、姿も見えない。
聞くと、伯母が亡くなる少し前に高齢を理由に去られたのだとか。
「 伯父さん、大丈夫ですか?」
伯母がいなくなっての意味も含めて、生活全般大丈夫なのか、と言うつもりで訪ねたが、よく考えもされず、虚ろな表情で、
「 ああ・・・。」
とだけ答えられた。
たった一人の家族を亡くした伯父の落胆ぶりは、見るに絶えない程だった。
それからうちの父が家政婦さんを何度か手配したようだが、皆長続きすることなく去られていったと、最近になって知った。
「 竹林の中の古い一軒家は、どうも人間以外の何かがいるようで・・・・。」
と、ある家政婦さんが言っておられたと。
暫く経ち、俺は東京の美大へと進学が決まった。
地元を離れる前に伯父に挨拶に行けと両親に言われ、地元を離れる数日前のとある夕方、伯父宅へ向かった。
久方ぶりに訪ねた伯父の家は、あの伯母が亡くなった直後の荒れ放題な様子とすっかり反して、綺麗に整頓されていた。
俺は新しいお手伝いさんはうまくやってくれてるのだなと思い、伯父に、
「 お元気そうで。
新しい家政婦さんは良い方ですか?」
と尋ねると、伯父は読みかけの書籍から目線を上げることもなく、
「 ああ、家政婦さんはずいぶんといい人だったけど、秋前に辞めてったよ。」
と返された。
家の様子は綺麗に掃かれて整理されている。
洗い物もない。
伯父が自分でやっているのだろうか?
そもそも食事の世話はどうされているのか?
まさか老人が店屋物だけで暮らせるはずもない。
俺が、“この整頓のされようは誰がやっているのですか?”を、どう伯父の気に触らないように尋ねようかと考えていると、
「 そうだカズ坊、伯母さん作った天麩羅好きだったろう?
冷蔵庫に残ってるから食っていけ。」
と、俺の疑問にかぶせてくるように伯父が言ってきた。
炬燵に入り、書籍に目をやったまま顔を上げようともしない伯父。
表情で真意を測ることも出来ない。
「 伯母さんの天麩羅が、あるんですか?」
俺は閉じられたままの仏壇に目をやりながら聞いた。
「 ああ、夕べも来てな、作って残して行ってるはずだ。
冷蔵庫を見てみろ。」
そう言いながら、指だけ台所の方を指差した。
暫しの沈黙。
伯父の横顔を見つめるも、伯父の目は書籍の文字を追っている。
「 電気点けましょうか?」
薄暗くなってきたこの家に死んだはずの伯母がいる、という得体の知れない状況に飲み込まれそうになった俺は立ち上がった。
しかし、蛍光灯の紐が何処にもない。
見ると、蛍光灯の紐が根元で切られている。
「 ああ、電気はな、あいつが嫌がるからいいんだ。」
俺は意を決したつもりで、もう一度座りなおし伯父に聞いた。
「 伯父さん、伯母さんがいるのですか?
伯母さんが夕べ来られて天麩羅を作られたのですか?」
もし伯父がボケてきているのなら、父母に報告してそれなりの処置を取らねば。
もし伯父が正気なのだとしたら、何かおかしなことが起こっているに違いない。
伯父は俺の思惑を打ち消すように声を強めて、
「 ああ。」
とだけ言うと、はじめてこっちを向いた。
「 でも伯母さんは・・・。」
亡くなられたのでは、という疑問を伯父の顔を見て飲み込んだ。
老眼鏡の奥の伯父の虚ろな瞳、黒目はきゅっと締まり白目は黄色く濁り、焦点が何処にあるのか分からない。
伯父のボケをほぼ確信した俺は、
「 俺、明日早いので今日はもう・・・。」
と言うと、
「 おお帰るか。
帰る前にな、離れにな、庭仕事用の梯子があるからな、あれ持ってきてくれんか?」
と言った。
「 脚立を、ここへですか?」
と言うと、
「 ああ、毎晩伯母さんがな、あそこから降りてくるのが大変そうなんだよ。」
と、仏壇の上の天袋を指差した。
「 え?」
亡くなった伯母が天袋から降りてくる?
言葉の意味を飲み込めずにいると、伯父は濁った目で俺を見据え、
「 伯母さんな、夜になるとあの天袋からぬうっと出てきて、あの横の杉柱を伝って降りてくるんだよ。」
伯父は天袋の横の杉柱を指でなぞるように指し示した。
「 伯父さん、伯母さんは・・・。」
1年前に亡くなられましたよと続けずにいると、伯父が分かっていると言わんばかりに、
「 俺も焼いたつもりだった。
けどな、いたんだよ。
隠れてたんだ、あそこにな。」
と焦点の定まらない目で俺を見据え、天袋を指し示した。
仏壇の上にある天袋を見上げる俺。
古ぼけた襖は閉じられたままだ。
“ あの奥に伯母さんがいるって・・・? ”
伯父は俺に、言葉を挟ませるのを拒むように続けた。
「 毎晩帰ってくるんだけど、あの杉は磨かれてつるつるだろ?
滑りやすくて大変そうなんだ。
だからあそこにな、梯子を立てかけてといてやろうと思うんだ。」
取り合えずここは伯父の言うことを聞き、一刻も早くここを出たい。
そして父母にこの件を報告せねばと思い、古ぼけた脚立を居間へ持ち込み杉柱に立てかけると、逃げるように伯父宅を後にした。
時間は既に5時を回って薄暗かったが、伯父は居間で灯りも点けず、座椅子に座り古い書籍をめくっていた。
帰宅後、両親に顛末を話した。
伯父をホームに入れたほうがいい的な報告をしたが、
「 もう何度も家政婦の世話もホームの話もしてるが、けんもほろろで全く聞いてもらえないんだよ。」
と、父も困った顔で言っていた。
家政婦の費用も全て我が家の持ち出しで、何かと大変だと言う愚痴も吐いた。
また、伯母が帰ってきたという妄想は、母も聞き及んでいたらしい。
結局、母が時折様子を見に行くと言うことでその場を取り繕った。
それからまた数年が経ち、ある春の日、伯父が亡くなった。
座椅子に腰掛けたまま静かに息を引き取っているのを、郵便配達の方が見つけたのだと言う。
その日のうちに連絡があり、昼過ぎに伯父宅へ駆けつけると、既に伯父は安らかな顔でお棺に納まり、仏壇の前に横たえられていた。
仏壇の横の杉柱には、数年前に俺が立てかけたままの古ぼけた脚立がそのまま残してあった。
“ 今なら天袋を覗けるな・・・・。”
ふと好奇心がわき、脚立に手をかけようと見ると、埃の積もった脚立には、確かに降りる方向に握られた手形がついていた。
俺は脚立を握ろうとする手を止め、天袋を覗くことを諦めた。
結局、伯父の葬儀埋葬も全て我が家でお世話させてもらった。
その後、伯父の家については、母が育ちの家にも関わらず“この家は気味が悪い”と言うこともあって、何度か人に貸すと話はあったものの実現はせず、今では手付かずの無人の廃屋になっている。
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