日々の出来事 10月26日 スリエ曲馬団とリズリー・サーカス
今日は、靖国神社でフランスのスリエ曲馬団の公演があった日です。(1871年10月26日)
これは日本で初めてのサーカスの公演と言われ、10月26日はサーカスの日と呼ばれています。
でも、日本最初のサーカスの興行としては、1864年にアメリカのリズリー・サーカスが来日しています。
ですから、こちらを日本最初としている説もあります。
この二つの説については、判断が分かれるところです。
それは、リズリー・サーカスは、江戸幕府から日本各地での興行をする許可が下りず、実際は横浜の外国人居留地内のみでの公演でしたので、日本最初の解釈をどうとるかで判断は微妙なのです。
この二つのサーカス公演は、それほど人気が無く、実際にサーカスの人気が世間に広がったのは、1886年のイタリアから来たチャリネ曲馬団を待つことになります。
リズリー・サーカス
リズリー・サーカスについて追加します。
このリズリー・サーカスの日本での興行は大失敗に終わり、サーカスは解散となります。
その理由は、リズリーが連れて来た芸人よりも、日本の曲芸の方がレベルが高かったのです。
しかし、リズリーは、興行に失敗しましたが、そう簡単にはめげません。
今度は、日本の芸人を欧米に連れて行く事を考えます。
1866年5月、リズリーは“帝国日本芸人一座”を組織しアメリカに向け出発します。
日本のメンバーは、足芸の濱碇定吉一座、手品の隅田川浪五郎一座、曲独楽の松井菊治郎一座とマネージャーである渡世人の高野広八です。
この帝国日本芸人一座は、サンフランシスコ、ニューヨークの劇場で大盛況の成功を収めます。
このときの公演では、綱渡りの梅吉(12才)・手品師の小まん(35才)・独楽回しのつね(9才)の芸は特に人気が高く絶賛されました。
この成功のもとに帝国日本芸人一座は渡欧し、フランス・イギリス・オランダ・スペイン・ポルトガルなど、西欧のほとんどの国を巡業して高い評価を得ました。
ついでに言うと、1866年、ようやく徳川幕府は留学生や商人に海外渡航の許可証である海外行御印章(パスポート)を発行し始めます。
そして、このパスポートの記念すべき第一号が芸人“隅田川浪五郎”(37才)なのです。
スリエ曲馬団
☆今日の壺々話
帝国日本芸人一座withリズリー
アメリカ
「 うお~、すげ~明るい!!」
「 あれは、ガス灯。」
「 捻ると水が出るぞ!」
「 これは、水道。」
「 うお~、お金がいっぱい!」
「 造幣局です。」
「 あれっ、シルクハットのオッチャンが来たぞ!」
「 第17代アメリカ大統領アンドリュー・ジョンソンです。」
「 ハイド~ド~!」
ロンドン
「 相撲、相撲!」
「 あれは、プロレス。」
「 ババ、ババ!」
「 まだ、ジャイアント馬場は生まれていない!!」
パリ
「 うお~、高い塔だ!」
「 パリ万国博覧会です。」
「 檻の中に変な動物が・・・?」
「 動物園です。」
「 下に水が流れているぞ!」
「 下水です。」
「 あ、ありがと、ありがと。
お金、貰っちゃった!
あのオッチャン、誰?」
「 パリ万国博覧会を訪れている将軍名代の徳川昭武さんです。」
しばらくして・・・・。
「 あ、日本からニュースが入りましたよ。」
「 えっ、“明治維新”・・・、何、それ?」
そして、欧米巡業を終えた帝国日本芸人一座はアメリカで解散し、芸人達は世界に散らばって行きました。
動物たちの問題
☆問題と解答の行間を開けてありますので、答えを考えながら、ゆっくり下にスクロールして下さい。
問1
冷蔵庫にゾウを入れる方法は?
答え
冷蔵庫の扉を開け、ゾウを入れて冷蔵庫の扉を閉める。
問2
その冷蔵庫にキリンを入れる方法は?
答え
冷蔵庫の扉を開け、ゾウを出して、キリンを入れて扉を閉める。
問3
アフリカの草原でライオンが、すべての動物を集めて会議を行うことにしました。
ところが、一種類だけ集まりませんでした。
それは何という動物でしょう?
答え
キリンです。
キリンは冷蔵庫に入っているから。
問4
アフリカのある川はとても浅く歩いて渡れるほどですが、残念なことに強暴なワニが住んでいます。
この川を安全に渡るにはどうずればよいでしょうか?
答え
普通に歩いて渡る。
ワニはライオン主催の会議に出席中です。
一般に正答率は進学コースのマニュアル解答ばかりしている優等生より、普段アホなことばっかりやっているロクデナシ連中の方が高いようです。
ピエロ
これは私が中学の時の話。
今は建て直して違うのですが、当時歯磨きをしているとき、目の前に鏡(大きめの丸い手鏡)を立てかけていたので、鏡で後ろにあるドアがちょうど見えました。
普段は気にしていないのですが、歯磨きの時間が重なったり、お手洗い(当時は廊下を挟んで向かい側の部屋に仏間、そして隣がトイレ)に行く人がいたりすると時々鏡に人が写る。
けれど、それもあまり気に留めていませんでした。
それが、ある日の事です。
私はいつものように寝る前の歯磨きをしていました。
歯磨きが終り、確か口をゆすいでいた時でした。
ふと鏡を見ると、ピエロのぬいぐるみが浮んでいました。
それは私の家にあったぬいぐるみで、オルゴールのついた音が鳴ると首が回る、そんな愛らしいものでした。
また父が何かしていると、私は後ろを振り返りました。
ただ廊下だけが見えています。
何をからかっているんだと、私は急いで居間に行きました。
その間の時間はほんの数秒でしょうが、そこには私以外の家族が揃って寛いでいました。
慌てた様子の私を怪訝に見ながら「どうしたの?」と尋ねます。
「 いま、お父さんピエロ持っとらんかった?そこで・・・。」
「 ?」
「 お父さんが、なんでそんな事せないけんと?」
もちろん、父はピエロのぬいぐるみなど持っていませんでした。
もし家族全員で私をからかおうとしていても、ピエロのぬいぐるみは仏間。
そして居間はその隣です。
仏間にぬいぐるみを置こうとすれば、どうしても廊下に飛び出した私とすれ違わないといけなくなります。
その時になって、私はようやくこの奇妙な事態に気づきました。
私はピエロのぬいぐるみが浮いていると思って振り返りましたが、その時見えるべき『ぬいぐるみを持っている手』を見ていないのです。
その後、私はそのぬいぐるみがいつもの場所(仏間のタンスのガラスケース内)にあることを確認しました。
ごく普通の愛らしいピエロのぬいぐるみですが、このことがあってからは母に頼んで捨ててもらいました。
あれから家も変わって鏡もきちんとしたものですが、いまだに咄嗟に鏡を見るのが恐いです。
サーカス
子供の頃、どうしてもサーカスに行きたかった。
僕が小学生ぐらいの頃だっただろうか、いつも母親と車に乗って通る自衛隊基地の横の広大な空き地に、突如として大きなテントが現れた。
カラフルであるが、どこか色褪せているテントは魅惑的で、幼き日の僕の心の琴線をブルブルと振るわせたものだった。
あのテントはなんなんだろう。
あんな大きいテントなんてアリなんだろうか。
考えることはテントのことばかりだった。
しばらくして、そのテントの正体はサーカスであることを知った。
数ヶ月ごとに地方を転々とするサーカス。
たしか「木下大サーカス」だったと思う。
娯楽もない閉鎖的な田舎町にとってサーカスの到来は話題性抜群で、学校で皆が口々に噂していた。
なんでもクマとかトラとか猛獣が出るらしい。
空中ブランコがあるらしい。
それはそれは楽しい夢のひと時らしい。
噂が噂を呼び、頭の悪い児童たちはたちどころにサーカスの虜になった。
「俺も行きたい」「親に頼んでみる」、とにかく、誰が話題のサーカスに行くことが出来るのか、それだけが話題の焦点だった。
とにかく子供にとってサーカスってのは魅力的で、映画「マイライフ」でも子供時代のサーカスにまつわるエピソードが登場し、涙を誘ってくれる。
それだけ僕ら子供はサーカスに魅了されていた。
映画館すら存在しなかった田舎町。
一年に一度だけ市民会館に大長編ドラえもんの上映がやってきていたのだけど、どういう繋がりかその映画の割引券が必ずと言っていいほど学校で配られていた。
そして、今回のサーカスの入場割引券も、どういう繋がりか知らないけど学校で配られていた。
今でも忘れない、禍々しいトラのアップの写真があって空中ブランコの写真がある。
あの魅惑のテントの中身をふんだんに表現した割引券だった。
たかが割引券、されど割引券。
この割引券配布は頭の悪い児童には効果覿面で、普段は大切なプリントすら家に持って帰らない僕ですら大切に大切に、余った分まで大量に持ち帰った。
「 サーカスに行きたい、観に行きたい。これ、割引券。」
家に帰り、元服を迎えた青年のように神妙な面持ちで親父に申し出る。
しかし、端から分かっていたのだが、ウチの親にこんなことを言っても絶対に通用しない。
欲しい物を買ってもらえることなんてなかったし、行きたい場所に連れて行ってもらえることなんてなかった。
最初から分かってることだった。
それに、ウチの親父はサーカスだと演劇だとか映画だとか、そういったものを観るという行為が大嫌いだった。
なんでも他人に見せられる、つまりは魅せられるという事実が極度に悔しく腹立たしいらしく、見るたびに歯がゆく思うらしい。
つまり、プロ野球を観ては野球を出来ない自分が歯がゆいし、サーカスを見ては空中ブランコができない自分を歯がゆく思うらしい。
だから、絶対に無理だって分かっていた。
「 ダメだダメだ。サーカスなんてつまらん。」
案の定、親父の返答は軽々と予想できるものだった。
けれども、僕だってただでは引き下がらない、ちゃんと代替案を用意して親父との交渉に臨んでいたのだ。
「 今度のテストで100点取ったら連れて行ってよ。」
100点を取ったら連れて行け、そんな条件を出したのだ。
正直、いくら激烈に簡単な小学校のテストとはいえ、青っ鼻垂らした救い様がないバカだった僕にとっては厳しい条件だった。
100点なんて夢のまた夢、夢の中で、だった。
「 おっしゃ、100点取ったら連れていったるわ。」
親父も「絶対無理」そう悟ったのか気さくに了承してくれたのだった。
それからが戦いだった。
全然勉強なんてしたことないのにとにかく勉強。
100点を取るため、サーカスに行くため、とにかく勉強して勉強しまくった。
クラス一の優等生に勉強を教えてもらったりもしたし、先生にも質問した。
とにかく分からない場所は何としても分かるまで勉強した。
その甲斐あってか、その後に実施された理科のテスト、あろうことか見事に100点だった。
もう、受け取った瞬間に膝がガクガク震えるし、「よく頑張ったわね」っていう先生の労いの言葉も聞こえないくらいだった。
いける、これでサーカスにいける。
トラも見れるし空中ブランコも見れる。大興奮だった。
100点取った喜びよりサーカスを見れる喜びの方が明らかに大きくて、まさに五里霧中、夢見心地な瞬間だった。
どうだ、100点取ったぞ、サーカス連れて行け、さあ連れてけ、ホレ連れてけ、と実際に言うと間違いなく殴られるので、言わんばかりの表情で親父に100点の答案を見せました。
まさか本当に取ってくるとは思っていなかった親父。
ぐうの音も出ないといった表情でマジマジと答案を見つめ、「約束だ、仕方ない」とサーカス行きを了承するのだった。
これには大歓喜だった。
ついに、あの、憧れのサーカスにいける。
夢のようなあのテントの中にいける。
これほど喜んだことがあっただろうかという勢いで喜んだ。
そして、付随して一緒に行けることになった弟もまた大喜びしていた。
「 やった、サーカスいけるよ、お兄ちゃん。」
「 やったな、お兄ちゃんが100点取ったおかげだぜ。」
微笑ましい兄弟愛も見られ、僕らは手と手を取り合って喜んだものだった。
サーカスには次の休みに連れて行ってもらえることになった。
その日まで僕ら兄弟は結婚前の新婦みたいな落ち着かない日々を過ごし、サーカスの到来を待ち侘びていた。
行きたい、早く行きたい、クマを見たい、トラを見たい、空中ブランコを見たい。
いけると分かっているのだけど、その日の到来がまどろっこしくて仕方ない。
早く週末にならないか、休みにならないか。
そんなことばかり考えている兄弟がいた。
そして、その想いが爆発する。
“サーカスごっこ!”
サーカスを待てないバカ兄弟が考え出した遊びだった。
思えばコレが不幸のどん底への第一歩だった。
これは、近所の6区子供会公園という場所にあった遊戯具を使った遊びだった。
近所の大工が調子に乗って作ったみたいな微妙にアスレチック風な遊戯具の一部に、少しばかり高い場所をロープを伝って移動するものがあった。
横に伸びた丸太から垂れ下がった何本ものロープを伝い横に移動していく。
それだけの遊戯具だったのだが、バカ兄弟はコレを利用してサーカス遊びをすることを思いついた。
まあ、簡単にいってしまえば空中ブランコ遊びなのだけど、何本も垂れ下がったロープをほとんど丸太の支柱に巻きつけてしまい、端っこの二本だけにする。
で、その二本を使って空中ブランコみたいにアクロバティックに遊ぼうというものだった。
バカとしか言いようがない。
端のロープに僕がぶら下がり、もう一方の端に弟がぶら下がる。
ここから反動をつけて左右に動き、あわよくば弟の方のロープに飛び移ったりしたかったのだけど、怖いからやめておいた。
で、
「 おい!早く飛び移って来い!」
怖くて出来なかった僕は弟にそうするように命じた。
兄の命令は絶対である弟、逆らえずに反動をつけて動き出す。
その動きはまるでサーカスみたいで、間近に迫った本物のサーカスを身近に感じさせてくれるものだった。
「 よし!今だ飛び移れ!」
今考えると、この遊戯具のロープはそんなに長くなく、子供一人がやっとぶら下がれるくらいの長さだった。
なのに、僕と弟の距離は3メートル以上あり、たとえカールルイスでも飛び移れないものだった。
「 い、い、い、い、いくよ!」
兄の命令に逆らえず、目を瞑って覚悟を決めたかのように宙を舞う弟。
エネルギーを失い、僕の目の前で無残にも落下していく弟。
無残に地面に叩きつけられる弟。ボシャっという聞いたことないリアルなサウンド。
全てが忘れられないものだった。
「 ぎゃああああああああ~~~!!」
弟の断末魔の叫び。
どうも落ち方が悪かったらしく、明らかに体の一部分に異常をきたした悲鳴だった。
弟を愛して止まない僕は遊戯具から降り、狂ったように痛がっている弟に駆け寄った。
“ ゆあーん ゆよーん ゆあゆよん~。 ”
そんな擬態語が適切なほど、弟の右腕はプラプラと揺れていた。
後に医者に行って分かったことだが、弟は骨折まではいかないものの、右肩を脱臼していたらしい。
本気でロープに飛び移ろうとした結果、肩口から地面に叩きつけられたのだろうか。
もちろん、泣き叫ぶ弟を家に連れて帰ると我が家は大騒ぎ。
やれ病院やら、やれ湿布やら、支える木をくくりつけたほうがいい、だとか、父と母が右往左往の大騒ぎだった。
もちろん、弟が医者に行った後は怒りのアフガンと化した両親にこってり絞られ、親父には頭の形が変わるぐらい怒られた。
まあ、当然のことだけど、サーカスの話もお流れに。
今でも思うことがある。
あの時憧れていたサーカスのテント小屋の中、あの中には一体どんな世界が広がっていたのだろうか。
それは、夢もクソもないこの世界に潤いを与えてくれるものだったのだろうか。
空中ブランコのようにゆあーんゆよーんと揺れる弟の右腕を思い出しては切ない気分になるのだった。
「 お前は、頭の中がサーカスなのかっ!」
その時、烈火のごとく怒っていた親父が僕に投げつけた言葉。
この言葉の意味は今でも分からない。
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