北海道新聞2024年4月3日おくやみ欄の、後志管内古平町の項に、穂井田日出麿さんが1日に亡くなったという記載がありました。86歳でした。
穂井田さんは「はずし娘」の画家として知られます。
はずし娘とは、漁網から魚介類を外す女性たちのことです。「娘」といっても、高齢の女性も含みます。
波が荒れる冬の日本海で男たちが獲ってきたスケソウダラなどを、岸壁に座り込んで黙々と網から外していく女たちの群像を、穂井田さんは、時には周辺の男たちや風物なども取り込みながら、毎年描き続けました。
しかも、多くは冬の情景でした。
一見古風な題材を扱っているようですが、透視図法的な空間のなかに対象を配して描くだけでよしとせず、複数の人物を自在に配置して画面を構築していました。また、背景は白で覆われているのですが、おそらく下地にはさまざまな色を置いて、画面に色彩の深みを与えていたと思われます。
穂井田さんは1938年(昭和13年)、江丹別村(現旭川市江丹別)生まれ。
その後、後志管内倶知安町に移り、倶知安高校在学中、同町在住で戦後道内画壇の重鎮だった小川原脩の大作を見て絵画の魅力にはまり。同校3年のときの55年には、全道展で初入選を果たします。
北海道学芸大(現北海道教育大)旭川分校に進み、在学中は北海道アンデパンダン展に出品する一方、58年には、小川原脩や野本醇、因藤寿、酒井嘉也らとともに、現在も倶知安を中心に続くグループ「麓彩会」の創立に参加します。
大学を卒業して初の赴任地が古平小学校でした。
その後、後志の学校で教壇に立ちながら、絵筆を執り、98年に古平小学校校長を最後に退職しました。
団体公募展に関していえば、74年に一陽展に初入選します。
76年には全道展、一陽展の双方で奨励賞を受賞しました。
一陽展では77年には特待賞となり、78年に会友推挙、83年一陽会会賞を受けていますが、2010年に退会しています。
全道展では79年に会友となり、99年に会員に推挙されました。
なお78年には、「画壇の芥川賞」と呼ばれた「安井賞」に推薦されています。
また、この頃「古平美術協会」を創立して会長につき、一昨年の第51回展の時点でも会長を続けていました。
昨年5月には、倶知安町の小川原脩記念美術館が「小川原脩・穂井田日出麿 二人展―生きる―」を開いたばかりです。
もし穂井田さんが札幌や東京の画家であれば、はずし娘という題材を描き続けたことについて、おそらくあまり評価しなかっただろうと思います。いかにも演歌的というか、都会人の安っぽいロマンティシズムの投影になってしまうからです。
しかし、穂井田さんはあくまで古平にとどまりました。
かつてはニシン漁で栄えましたが、ここ半世紀以上は魚介類の水揚げも伸び悩み、タラコなど水産加工に活路を見いだしているとはいえ、過疎化が進んでいる地域です。
そういう地域に根を下ろし、地域の題材に目を向け続ける、良い意味での「しつこさ」と視線の低さには、脱帽せざるを得ません。
ご冥福をお祈りします。
(この稿を書くにあたり、「北のアーティストドキュメント 穂井田日出麿」(響文社)などを参考にしました。記して感謝いたします)
参考
北海道を彩るアーティスト http://saruuni.blog96.fc2.com/blog-entry-537.html
穂井田さんは「はずし娘」の画家として知られます。
はずし娘とは、漁網から魚介類を外す女性たちのことです。「娘」といっても、高齢の女性も含みます。
波が荒れる冬の日本海で男たちが獲ってきたスケソウダラなどを、岸壁に座り込んで黙々と網から外していく女たちの群像を、穂井田さんは、時には周辺の男たちや風物なども取り込みながら、毎年描き続けました。
しかも、多くは冬の情景でした。
一見古風な題材を扱っているようですが、透視図法的な空間のなかに対象を配して描くだけでよしとせず、複数の人物を自在に配置して画面を構築していました。また、背景は白で覆われているのですが、おそらく下地にはさまざまな色を置いて、画面に色彩の深みを与えていたと思われます。
穂井田さんは1938年(昭和13年)、江丹別村(現旭川市江丹別)生まれ。
その後、後志管内倶知安町に移り、倶知安高校在学中、同町在住で戦後道内画壇の重鎮だった小川原脩の大作を見て絵画の魅力にはまり。同校3年のときの55年には、全道展で初入選を果たします。
北海道学芸大(現北海道教育大)旭川分校に進み、在学中は北海道アンデパンダン展に出品する一方、58年には、小川原脩や野本醇、因藤寿、酒井嘉也らとともに、現在も倶知安を中心に続くグループ「麓彩会」の創立に参加します。
大学を卒業して初の赴任地が古平小学校でした。
その後、後志の学校で教壇に立ちながら、絵筆を執り、98年に古平小学校校長を最後に退職しました。
団体公募展に関していえば、74年に一陽展に初入選します。
76年には全道展、一陽展の双方で奨励賞を受賞しました。
一陽展では77年には特待賞となり、78年に会友推挙、83年一陽会会賞を受けていますが、2010年に退会しています。
全道展では79年に会友となり、99年に会員に推挙されました。
なお78年には、「画壇の芥川賞」と呼ばれた「安井賞」に推薦されています。
また、この頃「古平美術協会」を創立して会長につき、一昨年の第51回展の時点でも会長を続けていました。
昨年5月には、倶知安町の小川原脩記念美術館が「小川原脩・穂井田日出麿 二人展―生きる―」を開いたばかりです。
もし穂井田さんが札幌や東京の画家であれば、はずし娘という題材を描き続けたことについて、おそらくあまり評価しなかっただろうと思います。いかにも演歌的というか、都会人の安っぽいロマンティシズムの投影になってしまうからです。
しかし、穂井田さんはあくまで古平にとどまりました。
かつてはニシン漁で栄えましたが、ここ半世紀以上は魚介類の水揚げも伸び悩み、タラコなど水産加工に活路を見いだしているとはいえ、過疎化が進んでいる地域です。
そういう地域に根を下ろし、地域の題材に目を向け続ける、良い意味での「しつこさ」と視線の低さには、脱帽せざるを得ません。
ご冥福をお祈りします。
(この稿を書くにあたり、「北のアーティストドキュメント 穂井田日出麿」(響文社)などを参考にしました。記して感謝いたします)
参考
北海道を彩るアーティスト http://saruuni.blog96.fc2.com/blog-entry-537.html