(承前。長文です)
画家の回顧展を見るのが好きだ。
団体公募展や一般の個展、グループ展では見ることのできない、長い年月にわたる作り手の軌跡がそこに凝縮されていて、どんなに造形的な視座から画業を見ようとしても、どうしても画家の「生」と相渉らずには、画面に向き合えないからだ。
言いかえると、いくら形や線が大事だといったところで、やはり画家のたどってきた道筋を抜きにしては、作品を鑑賞することは難しい。そして、たとえそれが可能だったとしても、あまり愉悦を伴う知的作業だとは思われない。
筆者はこの画家のことを知らない。札幌市民ギャラリーでの遺作展の評判を耳にしていたが、見ることができず、あわてて巡回先に駆けつけたというのが実情だ。
年譜を見ると、デラシネ(根無し草)的な感性を身につけずにはおれなかった画家の生い立ちが、そこから浮かんでくるように思われる。
生まれは1949年4月21日、日本海に臨む厚田村(現石狩市厚田区)。
親の転勤に伴い、翌年、根室管内別海村(現別海町)に移り、同管内の中標津を経て、52年に十勝管内新得町に転居する。さらに56年、渡島管内八雲町へ。
筆者は八雲に住んでいたことがあるが、この画家のことを聞いた記憶がない。もっとも、記憶がないだけで、何気なくどこかのロビーなどにかかっていたのかもしれない。
60年、同管内森町。63年、士別。この地で士別高に入り、在学中に「寒い風景」が純生展(旭川など道北地方の団体公募展)に入選。このころ、神田一明さん(行動美術、全道展会員)に絵を教わっていたようだ。
66年、深川に引っ越し、沼田高に転校するが、本人はこの転校をいやがり、絵ばかり描いていたらしい。
66年、画家を目指し上京。一時、武蔵野美大の通信制に籍を置いていたこともあったが、けっきょく卒業には至らなかったようだ。
80年に一時的に士別と札幌に住み、道展に入選したり、89年には佐藤萬壽夫さん(新道展会員)と2人展をひらいている(アートギャラリーさいとう)。しかし、翌年以降は高円寺などに、94年以降は相模原に住み、現展(現代美術家協会)の運営にも意を用いる、典型的な団体公募展系の画家のひとりであったといってよさそうだ。現展では82年に新人賞を得て、85年に会員推挙となっている。
(なお、このブログで何度も書いているように、現代美術家協会という名ではあるが、いわゆる現代アートとは関係ない)
2006年3月22日、逝去。享年56。
書いてて気の毒になるくらいの転校歴だ。
この体験が、画風にどう反映しているかは、軽々しくは言えない。会場の構成が、制作年の順番になっていないこともあるし。
ただ、ずっとひとつのモティーフを追ったり、同様の画風を長年続けたり、といった人ではなく、女性、静物、ピエロなど、いろいろな対象を組み合わせている。単なる風景画はほとんどなく、小品の大半は静物画である。静物画で、壺などを描いたものは、たとえば赤穴宏のように、ある種の永遠の感覚を漂わせている。
経歴のうち
「これは、ショックで、ずーっと後を引いてたんだろうなあ」
と思ったことがあった。
萌さんという娘さんが幼くして亡くなっているのだ。
「萌の旅」は、若い女性の立像をメーンにしているが、彼女の早世から15年もあとの作品だ。
もしまな娘が生きていたら…という思いが、この絵を描かせたんだと思う。
同じように、正面から見た女性の立像を描いた佳品に「バビロンに行きて祈る」がある。
彼女はサリーのような衣服をまとっており、異国情緒を漂わせる。うしろには、大きな川。その向こうに低い山並み。画面上方には、古代遺跡の出土品に刻まれているような、アルカイックな馬車の絵があしらわれている。
題は旧約聖書を踏まえているのだろうが、画家の真意はわからない。
おなじころ取り組んでいたのが「日常の森から」という連作。
「日常の森から(牛乳缶)」は、赤い大地の上にテーブルが置かれ、卓上に牛乳缶と、ちいさな果実がいくつか置かれている。遠くには森が見えて、このあたりはちょっと八重樫眞一さんを思わせる。
背景の大半は白で覆われているが、堅固な様相から、何度も絵の具を重ねては削る地道なマチエールづくりに心血を注ぐ画家の作業ぶりがうかがえる。それは、この作品に限ったことではない。
結果的に最晩年ということになってしまったが、最後に制作していたのが、マジシャンやサーカスに取材した作品。「三人のマジシャン」には、オーバーオールにシャツ、ネクタイ、眼鏡といういでたちの中年男3人が、両手で、ボールならぬ泡のようなものをあやつっている様子を描いている。
道化を描いた作品も多い。ピエロ=人生の哀歓、というとあまりに図式的で、感心しないクリシェだが、そういう言葉のワクにおさまらない何かを求めて、画家は丁寧な画肌つくりに精魂を傾けていたのだと思う。
出品作は次の通り。
恵みの詩 =変50 92年
静物(ビンと貝殻)=M50、92年
街ゆく人々 IV =P80、89年
乾坤の図 =F150、97年
幻街 I =F100、98年
バビロンに行きて祈る =F150、92年
冬 =F15、94年
人物(帽子の女) =F20、95年
旅(時の流れ) =F150、90年
下弦の赤い月と黒い太陽 =F130、2002年
萌の旅 =F150、91年
花 =F8、87年
魔方陣とポット =F10、91年
鳩小屋 =M10、75年
マジシャン =05年
道化賛歌 II =F150、95年
崖の上の… =M50、95年
日常の森から(紙飛行機) =F100、93年
日常の森から(牛乳缶) =F80、93年
窓 F1(ママ)、70年
道化VII =F10、05年
性的幻視の胎にわれを見る =変150、03年
境界 =F100、04年
三人のマジシャン I =変100、04年
道化VI =M50、97年
セ・ラ・ヴィ(未完) =F130、05年~
三人のマジシャンII =F100、05年
静物(ひめりんご) =F0、95~96年
無限抱影 =F100、96年
花(ポピー) =F4、95年
柿 =F4、95年
洋燈とレモン =F3、73年
金森倉庫 =P6、90~91年
道化賛歌I =F150、94年
道化V =97年
道化III =94~96年ごろ
道化I =F20、94年
海の音 =(F20)、94年ごろ
フィナーレ =F20、05年
伽藍の宴 =F130
(6月17~21日の日記は続く)
2010年6月9日(水)~13日(日) 札幌市民ギャラリー
6月16日(水)~30日(日) アートホール東洲館(深川駅前)
8月7日(土)~22日(日) 士別市生涯学習センターいぶき(西1の8)
□札幌経済新聞の記事 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100608-00000001-minkei-hok http://sapporo.keizai.biz/headline/621/
画家の回顧展を見るのが好きだ。
団体公募展や一般の個展、グループ展では見ることのできない、長い年月にわたる作り手の軌跡がそこに凝縮されていて、どんなに造形的な視座から画業を見ようとしても、どうしても画家の「生」と相渉らずには、画面に向き合えないからだ。
言いかえると、いくら形や線が大事だといったところで、やはり画家のたどってきた道筋を抜きにしては、作品を鑑賞することは難しい。そして、たとえそれが可能だったとしても、あまり愉悦を伴う知的作業だとは思われない。
筆者はこの画家のことを知らない。札幌市民ギャラリーでの遺作展の評判を耳にしていたが、見ることができず、あわてて巡回先に駆けつけたというのが実情だ。
年譜を見ると、デラシネ(根無し草)的な感性を身につけずにはおれなかった画家の生い立ちが、そこから浮かんでくるように思われる。
生まれは1949年4月21日、日本海に臨む厚田村(現石狩市厚田区)。
親の転勤に伴い、翌年、根室管内別海村(現別海町)に移り、同管内の中標津を経て、52年に十勝管内新得町に転居する。さらに56年、渡島管内八雲町へ。
筆者は八雲に住んでいたことがあるが、この画家のことを聞いた記憶がない。もっとも、記憶がないだけで、何気なくどこかのロビーなどにかかっていたのかもしれない。
60年、同管内森町。63年、士別。この地で士別高に入り、在学中に「寒い風景」が純生展(旭川など道北地方の団体公募展)に入選。このころ、神田一明さん(行動美術、全道展会員)に絵を教わっていたようだ。
66年、深川に引っ越し、沼田高に転校するが、本人はこの転校をいやがり、絵ばかり描いていたらしい。
66年、画家を目指し上京。一時、武蔵野美大の通信制に籍を置いていたこともあったが、けっきょく卒業には至らなかったようだ。
80年に一時的に士別と札幌に住み、道展に入選したり、89年には佐藤萬壽夫さん(新道展会員)と2人展をひらいている(アートギャラリーさいとう)。しかし、翌年以降は高円寺などに、94年以降は相模原に住み、現展(現代美術家協会)の運営にも意を用いる、典型的な団体公募展系の画家のひとりであったといってよさそうだ。現展では82年に新人賞を得て、85年に会員推挙となっている。
(なお、このブログで何度も書いているように、現代美術家協会という名ではあるが、いわゆる現代アートとは関係ない)
2006年3月22日、逝去。享年56。
書いてて気の毒になるくらいの転校歴だ。
この体験が、画風にどう反映しているかは、軽々しくは言えない。会場の構成が、制作年の順番になっていないこともあるし。
ただ、ずっとひとつのモティーフを追ったり、同様の画風を長年続けたり、といった人ではなく、女性、静物、ピエロなど、いろいろな対象を組み合わせている。単なる風景画はほとんどなく、小品の大半は静物画である。静物画で、壺などを描いたものは、たとえば赤穴宏のように、ある種の永遠の感覚を漂わせている。
経歴のうち
「これは、ショックで、ずーっと後を引いてたんだろうなあ」
と思ったことがあった。
萌さんという娘さんが幼くして亡くなっているのだ。
「萌の旅」は、若い女性の立像をメーンにしているが、彼女の早世から15年もあとの作品だ。
もしまな娘が生きていたら…という思いが、この絵を描かせたんだと思う。
同じように、正面から見た女性の立像を描いた佳品に「バビロンに行きて祈る」がある。
彼女はサリーのような衣服をまとっており、異国情緒を漂わせる。うしろには、大きな川。その向こうに低い山並み。画面上方には、古代遺跡の出土品に刻まれているような、アルカイックな馬車の絵があしらわれている。
題は旧約聖書を踏まえているのだろうが、画家の真意はわからない。
おなじころ取り組んでいたのが「日常の森から」という連作。
「日常の森から(牛乳缶)」は、赤い大地の上にテーブルが置かれ、卓上に牛乳缶と、ちいさな果実がいくつか置かれている。遠くには森が見えて、このあたりはちょっと八重樫眞一さんを思わせる。
背景の大半は白で覆われているが、堅固な様相から、何度も絵の具を重ねては削る地道なマチエールづくりに心血を注ぐ画家の作業ぶりがうかがえる。それは、この作品に限ったことではない。
結果的に最晩年ということになってしまったが、最後に制作していたのが、マジシャンやサーカスに取材した作品。「三人のマジシャン」には、オーバーオールにシャツ、ネクタイ、眼鏡といういでたちの中年男3人が、両手で、ボールならぬ泡のようなものをあやつっている様子を描いている。
道化を描いた作品も多い。ピエロ=人生の哀歓、というとあまりに図式的で、感心しないクリシェだが、そういう言葉のワクにおさまらない何かを求めて、画家は丁寧な画肌つくりに精魂を傾けていたのだと思う。
出品作は次の通り。
恵みの詩 =変50 92年
静物(ビンと貝殻)=M50、92年
街ゆく人々 IV =P80、89年
乾坤の図 =F150、97年
幻街 I =F100、98年
バビロンに行きて祈る =F150、92年
冬 =F15、94年
人物(帽子の女) =F20、95年
旅(時の流れ) =F150、90年
下弦の赤い月と黒い太陽 =F130、2002年
萌の旅 =F150、91年
花 =F8、87年
魔方陣とポット =F10、91年
鳩小屋 =M10、75年
マジシャン =05年
道化賛歌 II =F150、95年
崖の上の… =M50、95年
日常の森から(紙飛行機) =F100、93年
日常の森から(牛乳缶) =F80、93年
窓 F1(ママ)、70年
道化VII =F10、05年
性的幻視の胎にわれを見る =変150、03年
境界 =F100、04年
三人のマジシャン I =変100、04年
道化VI =M50、97年
セ・ラ・ヴィ(未完) =F130、05年~
三人のマジシャンII =F100、05年
静物(ひめりんご) =F0、95~96年
無限抱影 =F100、96年
花(ポピー) =F4、95年
柿 =F4、95年
洋燈とレモン =F3、73年
金森倉庫 =P6、90~91年
道化賛歌I =F150、94年
道化V =97年
道化III =94~96年ごろ
道化I =F20、94年
海の音 =(F20)、94年ごろ
フィナーレ =F20、05年
伽藍の宴 =F130
(6月17~21日の日記は続く)
2010年6月9日(水)~13日(日) 札幌市民ギャラリー
6月16日(水)~30日(日) アートホール東洲館(深川駅前)
8月7日(土)~22日(日) 士別市生涯学習センターいぶき(西1の8)
□札幌経済新聞の記事 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100608-00000001-minkei-hok http://sapporo.keizai.biz/headline/621/
萬壽 修 遺作展のご感想を読ませていただき、何か切ない気持ちになりました。画家さんは孤独だったのでは。表現するために孤独も必要と思いますが。
思えば、地下鉄路の掲示板に遺作展の案内が貼ってありました。気になってはいましたが見ておりません。地方には行けないので、申し訳ない気がします。
長文を読んでいただき、感想も早くて、感謝です。
孤独のことはとりたてて考えませんでした。
芸術家はみんな孤独だと思うのです。
基本的に芸術家は、自分が孤独で、それでも誰かにつながりたくて、表現をするのだと思います。
仲間とつるんでばかりいるような人は絶対芸術家にはなれないでしょう。
何となく、理解できます。
うーん。難しい。