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盛岡勇夫「胸中常有開拓魂 中沢山五郎翁胸像」 (オホーツク管内遠軽町瀬戸瀬東町)

2022年03月30日 07時58分45秒 | 街角と道端のアート
 湧別町内にある顕彰系の肖像彫刻を紹介してきましたが、遠軽町にも未掲載のものがひとつ残っていました。

 旧丸瀬布町寄りの瀬戸瀬地区。国道333号沿いに立っています。

 
 台座裏に刻まれた碑文は次の通り。
 ルビは筆者がつけました。下の方は摩耗していて解読に苦労しました。

故中澤山五郎翁は明治30年瀬戸瀬
に生まれ 郷土にあって農業経営
に挺身 大正14年から木材業を経
営 その卓越したる識見と確固た
る信念とにより築かれた業績と令
望は斯界 し かいあまねく 着々と理想の実
現を見るに至る 昭和9年遠軽町
議会議員となり 以来30年余町政
の枢機に参画し 選良として町発
展の全分野に畢生ひっせいの努力を致し 
昭和28年北海道町村議会議長会よ
り 仝30年全国町村議会議長会よ
り永年勤続で表彰せらる この間
網走管内社会福祉協議会々長、遠
軽地区防犯協会々長の要職につか 
れ 幾多社会事業 教育問題の解
決促進に献身的な力を傾注され 
その功績燦然さんぜんとして輝き 昭和29
年には紺綬褒章を贈らる 然るに
惜しむべし昭和39年12月67才を以
めいせらる 翁が樹立せし偉大な
る功績を 働き人の人と仰がれた
人徳とは郷党の誇として永遠に讃
(2字不明)れるものである
昭和41年10月2日
 中澤山五郎翁胸像建設請賛会


 もちろん「澤」は「沢」の新字です。

 
 瀬戸瀬は、旭川から見て遠軽のひとつ手前の駅があるので、鉄道ファンはなじみのある地名かもしれません。
 遠軽町内は近年、奥白滝、上白滝、旧白滝、下白滝、生野と次々「秘境駅」が廃止になっており、この駅が残っているのは或る意味ですごいと思います。ただ、石北線は全線単線なので、この駅は、上りと下りの列車がすれ違うためにはなくてはならない駅なのです。

 かつては遠軽営林署があり、駅前には製材所や映画館などが建ち並んでにぎわっていたといいます。
 その林業の全盛期に瀬戸瀬で育ったのが、後に北海道知事になった堀達也さんでした。

 いまは製材所などはなく、農家が点在しています。
 21年3月に、瀬戸瀬小学校も閉校になってしまいました。


 「胸の中に常に開拓魂在り」
と書かれた題字。
 2代目北海道知事の町村金五によるものです。

 この胸像は、瀬戸瀬コミュニティセンターや消防支署などのある一帯に建てられ、駅や郵便局も近くにあります。




 手前には、台座とは別の説明板が立っています。

舌 代

  智あり 勇あり 愛ありて
   あまねく道を ひらきたる
  山美ごと 水清き
   セトセの郷の 人々の
  心の灯 とわに たたゝむ
これは昭和四十一年十月 遠軽信用金庫理事長
村上富之助氏の中澤翁に対する賛歌である。
故中澤山五郎翁は当時の上湧別村瀬戸瀬番外地(現在の
野上)佐藤多七の三男として明治三十三年三月出生
長じて中澤沢治の第四子タキと婚姻。入籍は大正七
年五月である。
翁は一生を瀬戸瀬に在り郷土発展に尽力したその業
績人柄を後世に残さんと部落民挙げてこの胸像を
建立されたものである。
基金はこれを聞き及んだ町内は元より道内本州等ゆ
かりの人々からも続々寄せられた。
これも翁の人徳のいたすところであろう。

ちなみに中澤山五郎翁は、昭和三十九年十二月八日
惜しまれながら六十八才の生涯を閉じた。

  中澤山五郎翁胸像建設協賛会


 

 ところで、2010年の新型コロナウイルスの感染拡大以降、この胸像には、誰かの手によりマスクがかけられています。

 こういう時代なので、おそらくいろんなものにマスクがつけられていると思うのですが、遠軽地方でマスクがずっとかかっている野外彫刻は、筆者の知っている限りこの胸像だけです。


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