10月に亡くなった、北見の陶芸家の草分けで、「しばれ焼き」で知られる安藤瑛一さんの作品写真をおさめた「氷華」が発行されました。
安藤さんの友人である山岸喬北見工大教授が中心となって写真撮影、編集を行いました。
安藤さんががんと闘病していることは誰もが知っていたので、なんとか彼の存命中に-と、関係者一同は作業を急ぎましたが、完成にはぎりぎりで間に合いませんでした。
これまで、例えば江別市セラミックアートセンターが編集発行した展覧会図録などはありますが、それ以外に、陶芸家の作品をまとめた単行本は道内では例がないと思います。
安藤さんの業績などについては、下のリンク先もご覧ください。
■安藤瑛一さんを悼む
■第76回道展(2001年)
本はオールカラー158ページ。
関係者に配布しますが、一部は一般に販売します。税込み1万円です。
問い合わせ先は、図書館ネットワーク北見営業所 0157・26・7175 。
以下の文章は、安藤瑛一陶芸作品集「氷華」に筆者が寄せた拙文「安藤瑛一の世界」です。
いま読み返すと明らかに推敲が不十分なところが目に付き、お恥ずかしいのですが、資料としてここに転載しておきます。
「土くさいものが好きなんだよね、あっはっは」
北見市相内から北側の谷あいに入ったところに広がる本沢地区の一角に、安藤瑛一さんの窯はあった。
作業部屋の一角には、ずらりとジャズやブラックコンテンポラリーのCDが並んでいた。創作のときはいつも音楽を聴きながらだったという。カーティス・メイフィールドをはじめとするブラックミュージックと、陶芸。「土の香りがする」という点では共通していることに、彼は笑いながら触れたのだった。
新宿のライブハウスなどに通ってそれらの音楽を夢中になって聴いていた学生時代の安藤瑛一青年が陶芸を志したのは、偶然の事情だった。たまたまアルバイト先に陶芸家がおり、興味を持って師事したのがきっかけだったという。
そのまま関東地方に残って陶芸家として独立する道もあっただろう。実際、千葉県の土地を下見するため赴いたという。しかし、彼は北見に帰郷する道を選んだ。
「産地にいなかったことがかえってよかったかもしれない。あんまり陶芸陶芸せずに、好きなようにやれたのが、自分に向いてたんじゃないかな」
安藤さんはそう振り返る。
北海道は、一説には現在でこそ300人とも400人ともいわれる陶芸家がいるといわれている。とはいえ、一般的には、備前(岡山)や瀬戸(愛知)といったような窯場としては認知されていないのが現状だ。
理由としては、産地としての歴史が浅いことが大きい。日本の釉薬研究の第一人者とされた小森忍(1889~1962年)が戦後江別に拠点を置いたが、それ以前に道内で名前の残っている陶芸家はきわめて少ない。さらに、陶芸に向いた土が産出しないといわれることも挙げられよう。もっとも、この「定説」を打ち破ろうと、少なからぬ陶芸家が道内各地を、土を求めて探し回っており、自作に使用している例も増えつつある。安藤さんも留辺蘂で採取した土を用いている。だが、信楽(滋賀)などから土を購入している陶芸家が多いのも事実である。
土で勝負できないとなると、その土地らしさを出すにはどうすれば良いのか。安藤瑛一さんはおそらく、道内でも最もその問いを真摯に受け止めひとつの答えを出した陶芸家であろう。
「しばれ文様」のことは、この文章をお読みの方はすでにご存知だろうと思う。まさに陶芸家・安藤瑛一の代名詞ともいえる技法であるからだ。
この図録をめくってみても分かるとおり、彼は「しばれ」のみに取り組んでいたわけではない。それどころか、面取の花器や、ピカソを連想せる陶板など、ひとりの手になるものとは考えられないほど多種多彩な作品を手がけている。
にもかかわらず、安藤さんといえば「しばれ」になっているのは、「炎の芸術」と呼ばれる陶芸に、氷や寒さという正反対の要素を取り入れた点がまさに画期的で、人々の心に強く印象付けられたからに違いない。
それと同時に、厳冬期の最低気温が氷点下10度や20度を下回るのが当たり前という、北見の風土的な特性が存分に生かされた技法であることも、言うまでもない。
北海道の風土を、ありがちな意匠ではなく、技法の根幹として作品に結晶化しえた作家となると、安藤さんをおいてほかに思い当たらない。筆者が先に「最もその土地らしさを出した陶芸家」と評したゆえんである。
「ひとくちに氷点下15度といっても、寒くなっていく途中の15度と、横ばいの15度では全然違う。気温が下がっていくときの方がよい。いちばん釉薬をコントロールしやすいのは18度」
と力説する安藤さんの言葉を聞くと、漫然と寒さに向き合うのではなく、微妙な気温の差異まで考慮に入れて作品づくりに取り組んできた作家の姿勢の剛毅さに、あらためて感服しないわけにはゆかない。
スペインはカタルーニャの美術家ジョアン・ミロは「風土なしに美は生まれない」と言ったそうだ。
「風土」は、風と土と書く。風が空気・大気の謂いだとしたら、寒冷な気候を生かして土をこね続けてきた安藤さんは、風土の最も「風土的」な部分で創作してきた作家だといえよう。
グローバリゼーションの猛威が世界中を平らにならして行こうとする風潮が強まる21世紀。安藤瑛一作品にふれて、風土と美術について、あらためて思いをはせたい。
なお、安藤さんの功績の一つとして、北網圏北見文化センターなどの市民講座を通して数多くの後進を育成したことが挙げられる。毎年のオホーツク美術展を見に行くと、陶芸が絵画に負けないほど陳列されており、しかもその作り手の多くが安藤門下である。もはや詳述する紙幅はないが、道央・道南に比べると作り手が非常に少なかったオホーツク地域への陶芸文化の定着に大きく貢献したことを、ここで特筆しておきたい。
(北海道美術ネット、北海道新聞北見支社報道部)
安藤さんの友人である山岸喬北見工大教授が中心となって写真撮影、編集を行いました。
安藤さんががんと闘病していることは誰もが知っていたので、なんとか彼の存命中に-と、関係者一同は作業を急ぎましたが、完成にはぎりぎりで間に合いませんでした。
これまで、例えば江別市セラミックアートセンターが編集発行した展覧会図録などはありますが、それ以外に、陶芸家の作品をまとめた単行本は道内では例がないと思います。
安藤さんの業績などについては、下のリンク先もご覧ください。
■安藤瑛一さんを悼む
■第76回道展(2001年)
本はオールカラー158ページ。
関係者に配布しますが、一部は一般に販売します。税込み1万円です。
問い合わせ先は、図書館ネットワーク北見営業所 0157・26・7175 。
以下の文章は、安藤瑛一陶芸作品集「氷華」に筆者が寄せた拙文「安藤瑛一の世界」です。
いま読み返すと明らかに推敲が不十分なところが目に付き、お恥ずかしいのですが、資料としてここに転載しておきます。
「土くさいものが好きなんだよね、あっはっは」
北見市相内から北側の谷あいに入ったところに広がる本沢地区の一角に、安藤瑛一さんの窯はあった。
作業部屋の一角には、ずらりとジャズやブラックコンテンポラリーのCDが並んでいた。創作のときはいつも音楽を聴きながらだったという。カーティス・メイフィールドをはじめとするブラックミュージックと、陶芸。「土の香りがする」という点では共通していることに、彼は笑いながら触れたのだった。
新宿のライブハウスなどに通ってそれらの音楽を夢中になって聴いていた学生時代の安藤瑛一青年が陶芸を志したのは、偶然の事情だった。たまたまアルバイト先に陶芸家がおり、興味を持って師事したのがきっかけだったという。
そのまま関東地方に残って陶芸家として独立する道もあっただろう。実際、千葉県の土地を下見するため赴いたという。しかし、彼は北見に帰郷する道を選んだ。
「産地にいなかったことがかえってよかったかもしれない。あんまり陶芸陶芸せずに、好きなようにやれたのが、自分に向いてたんじゃないかな」
安藤さんはそう振り返る。
北海道は、一説には現在でこそ300人とも400人ともいわれる陶芸家がいるといわれている。とはいえ、一般的には、備前(岡山)や瀬戸(愛知)といったような窯場としては認知されていないのが現状だ。
理由としては、産地としての歴史が浅いことが大きい。日本の釉薬研究の第一人者とされた小森忍(1889~1962年)が戦後江別に拠点を置いたが、それ以前に道内で名前の残っている陶芸家はきわめて少ない。さらに、陶芸に向いた土が産出しないといわれることも挙げられよう。もっとも、この「定説」を打ち破ろうと、少なからぬ陶芸家が道内各地を、土を求めて探し回っており、自作に使用している例も増えつつある。安藤さんも留辺蘂で採取した土を用いている。だが、信楽(滋賀)などから土を購入している陶芸家が多いのも事実である。
土で勝負できないとなると、その土地らしさを出すにはどうすれば良いのか。安藤瑛一さんはおそらく、道内でも最もその問いを真摯に受け止めひとつの答えを出した陶芸家であろう。
「しばれ文様」のことは、この文章をお読みの方はすでにご存知だろうと思う。まさに陶芸家・安藤瑛一の代名詞ともいえる技法であるからだ。
この図録をめくってみても分かるとおり、彼は「しばれ」のみに取り組んでいたわけではない。それどころか、面取の花器や、ピカソを連想せる陶板など、ひとりの手になるものとは考えられないほど多種多彩な作品を手がけている。
にもかかわらず、安藤さんといえば「しばれ」になっているのは、「炎の芸術」と呼ばれる陶芸に、氷や寒さという正反対の要素を取り入れた点がまさに画期的で、人々の心に強く印象付けられたからに違いない。
それと同時に、厳冬期の最低気温が氷点下10度や20度を下回るのが当たり前という、北見の風土的な特性が存分に生かされた技法であることも、言うまでもない。
北海道の風土を、ありがちな意匠ではなく、技法の根幹として作品に結晶化しえた作家となると、安藤さんをおいてほかに思い当たらない。筆者が先に「最もその土地らしさを出した陶芸家」と評したゆえんである。
「ひとくちに氷点下15度といっても、寒くなっていく途中の15度と、横ばいの15度では全然違う。気温が下がっていくときの方がよい。いちばん釉薬をコントロールしやすいのは18度」
と力説する安藤さんの言葉を聞くと、漫然と寒さに向き合うのではなく、微妙な気温の差異まで考慮に入れて作品づくりに取り組んできた作家の姿勢の剛毅さに、あらためて感服しないわけにはゆかない。
スペインはカタルーニャの美術家ジョアン・ミロは「風土なしに美は生まれない」と言ったそうだ。
「風土」は、風と土と書く。風が空気・大気の謂いだとしたら、寒冷な気候を生かして土をこね続けてきた安藤さんは、風土の最も「風土的」な部分で創作してきた作家だといえよう。
グローバリゼーションの猛威が世界中を平らにならして行こうとする風潮が強まる21世紀。安藤瑛一作品にふれて、風土と美術について、あらためて思いをはせたい。
なお、安藤さんの功績の一つとして、北網圏北見文化センターなどの市民講座を通して数多くの後進を育成したことが挙げられる。毎年のオホーツク美術展を見に行くと、陶芸が絵画に負けないほど陳列されており、しかもその作り手の多くが安藤門下である。もはや詳述する紙幅はないが、道央・道南に比べると作り手が非常に少なかったオホーツク地域への陶芸文化の定着に大きく貢献したことを、ここで特筆しておきたい。
(北海道美術ネット、北海道新聞北見支社報道部)