北海道新聞1月19日夕刊に、道立三岸好太郎美術館の穂積利明主任学芸員さんによる「美術季評 2004年10-12月」が掲載されていました。
構造社展を中心に筆を進めた後で、穂積さんは次のようにしめくくります。
(以下引用)この時期に限ったことではなく、昨年はおおむね個展、グループ展が低調だった。
今月末には、札幌市内の美術拠点として長年活動してきた伝説的ギャラリー「テンポラリースペース」が閉鎖されることが決まっている。また同様の「プラハ」も昨年七月に拠点を閉鎖し、一定の展示空間をもたない活動へと移行している。個展、グループ展の低調さと、こうした歴史的ギャラリースペースの閉鎖の底には、「現代の美術に展望や自信がもてない」という、同じ心理が横たわっているような気がしてならない。(引用終わり)
「低調だった」
って、穂積さんはあいかわらずきびしいなあと思います。
もっとも筆者は札幌にいなかったこともあり、その評言が、そのとおりなのか、それともきびしすぎるものなのかは、なんともいえません。
フリースペースPRAHAの拠点や、テンポラリースペースの閉鎖は、建物や土地の所有者の事情が理由であって、直接美術の状況と関聯しているわけではありません。ただし、穂積さんの目には、なにがしか通底するものがあると映るのでしょう。
ことしは、「水脈の肖像」展が4年ぶりに道立近代美術館でひらかれ、北海道と韓国の中堅アーティストが競作するのをはじめ、札幌芸術の森美術館では「北の創造者たち」展と、「北の創造者たち・その後」と題した連続個展もひらかれると聞いています。見ごたえのある展覧会になれば、と思います(と、安直にまとめてしまった)。
構造社展を中心に筆を進めた後で、穂積さんは次のようにしめくくります。
(以下引用)この時期に限ったことではなく、昨年はおおむね個展、グループ展が低調だった。
今月末には、札幌市内の美術拠点として長年活動してきた伝説的ギャラリー「テンポラリースペース」が閉鎖されることが決まっている。また同様の「プラハ」も昨年七月に拠点を閉鎖し、一定の展示空間をもたない活動へと移行している。個展、グループ展の低調さと、こうした歴史的ギャラリースペースの閉鎖の底には、「現代の美術に展望や自信がもてない」という、同じ心理が横たわっているような気がしてならない。(引用終わり)
「低調だった」
って、穂積さんはあいかわらずきびしいなあと思います。
もっとも筆者は札幌にいなかったこともあり、その評言が、そのとおりなのか、それともきびしすぎるものなのかは、なんともいえません。
フリースペースPRAHAの拠点や、テンポラリースペースの閉鎖は、建物や土地の所有者の事情が理由であって、直接美術の状況と関聯しているわけではありません。ただし、穂積さんの目には、なにがしか通底するものがあると映るのでしょう。
ことしは、「水脈の肖像」展が4年ぶりに道立近代美術館でひらかれ、北海道と韓国の中堅アーティストが競作するのをはじめ、札幌芸術の森美術館では「北の創造者たち」展と、「北の創造者たち・その後」と題した連続個展もひらかれると聞いています。見ごたえのある展覧会になれば、と思います(と、安直にまとめてしまった)。
個展やグループ展など、創作活動を果たして
一年というスパン枠に、はめ込んでいいものなのか?
いいものが出来たら発表する、そこには年月とは
別の時間の流れがある様に思います。
低調とか好調とか、アートは昨年対比とか去年比とか
関係ないですよね。
去年の誰かと競っているわけじゃあるまいし。
プラハに限っていれば、ここ数年は開店休業の状態で
今更でしょう。
新しいギャラリーが数多くできて、絶対数は増えて
いると思います。
今月で中森さんがクローズしますが、ここも
楽しかった。
まあ、なあなあになるよりは、いいんじゃないかと。
それより、プラハを開店休業なんて言うと、大橋君がかわいそうです。
管理人が来てなくて入れない、、、、。
所用で出かけて入れない、、、、、、。
ガラス越しに作品見てると、なんだか
あやしい人みたいでした(私がね)。
ただし、作品の水準の評価を世界的視野において問題にするとしたなら、しかもそれを問題にすることが可能であるとしたなら、話は別である。やはり、謙虚に、その考察を聞こうではないか。世界的水位での作品の動きについて。
願わくば、この空間において、自由に考えを表明できることを。
「低調」かどうかの主観的印象は実はどうでもいい。それに対抗するような、それに対峙するような作品の強度を発見することこそ、観察者・批評家の大事な役割である。
私は最近は写真展にしか足を運ばないが、若い写真家の作品を見ていて、「低調」とは全然感じないのである。たとえば、足立君の写真作品。たとえば、中川君の写真作品。
彼らの写真表現に通底する「なにものか」に私は惹きつけられるのだ。それは「現在」であり、「現代」であり、「リアルなもの」であり、「先端」である。彼らの肉眼がとらえる光景なり風景なり人物なりに感じる「なにか」を正確な言葉に翻訳できないが、翻訳できたらいいなとも思う。
「表現の現在」をひと括りすることはもはや誰にもできない。無数の個的表現の多様性という現象に誰もがさらされている。その影響関係をひと括りで説明することもできない。
それらしく、それなりに、見得を切って、「表現の現在」と括るだけだ。
現在の表現によってためされているのは、作家ではなく、観察者・批評家の方ではないのか。
ま、そんなことを考えながら、私は足立君の写真展に足を運ぶつもりでいます。
あー、それは、いちばん最後のボイラーギャラリーでしたね。
でも、その前は、本州のアートスペースとの交流など、けっこう意欲的にやっていたと思いますよ。
>T.nakamauraさま
ありがとうございます。
たしかに若い人の写真は、以前から筆者も折に触れ書いていますが、おもしろいですよね。「美術批評」からすっぽり抜け落ちているようで、ゆゆしき問題だと思います。