筆者がどうして森鴎外を読みだしたのかは、ここのエントリに書いたとおり。
画像の「鴎外選集」は、南区の澄川図書館から借りて読んでいたもの。
第3巻の途中で挫折し、ちくま文庫の「森鴎外全集」にのりかえた。
くだんの選集は1978年に出版された。
当時、岩波書店の新刊案内で、「漱石全集」と同時に発売されたのを見て、とてもあこがれたことを思い出す。
1冊880-980円ほどで、新書版の瀟洒(しょうしゃ)な装丁と造本。そのころ、岩波文庫の星一つは100円だったから、いまの物価の感覚だと1500円程度か。
そのころ鴎外の場合、文庫本に入っているのは代表作といえるものだけだったので、この選集は、入手して読みたかった。
しかし、その後「大人買い」ができるようになったころには、「選集」は版を重ねていなかった。
いまも新刊書店では入手できない。
その理由は、読んでみてわかった。
この選集には、語釈や註(ちゅう)が一切ないのである。
「舞姫」など初期作品は文語文だし、後年の口語の小説でも、いまはつかわなくなっている熟語などは多い。
それにくわえて、鴎外は、じぶんの学問をひけらかしたいのか、やたらと横文字を文中に挿入する。
明治期なので、まだ訳語づくりが追いついていないのかも-と思うのだが、独歩でも漱石でも花袋でも、こんなに横文字をつかうことはない。
それでも類推したり飛ばしたりして読み続けていたのだが、ついに「妄想」を読んで
「こりゃだめだわ」
と思った。
鴎外本人を思わせる、隠居同然に小屋に住んでいる老人が、それまでの思索と読書の経緯を振り返るという小説である。当然のことながら主人公は哲学書などはすべて原書で読んでいるので、やたらとドイツ語が出てくる。半分ぐらいは英単語の知識から類推できるのだが、あとの半分はどうしようもない。
鴎外の小説の多くは、エンターテインメントとして読むとあまりおもしろくない。
でも、筆者が読み続けられたのは、やはりそこに共感できる部分が大きかったからだといえる。
それは、鴎外の小説が「大人の文学」だからではないのだろうか。
日本の近代文学は多かれ少なかれ「青春の文学」である。
だいたい、啄木をはじめ、独歩、高山樗牛、芥川、中島敦、小林多喜二、太宰治など、40を前に早世してしまった作家がじつに多い。
やや長寿を得ても、佐藤春夫も菊池寛も志賀直哉も武者小路実篤も、代表作と呼べるものは世に出たときに書かれている。
中年を過ぎてからのほうが、人間を観察するまなざしには深みが出てくると思うのだが、作家として生命を永らえたのは、露伴、谷崎、荷風、秋声などごく一部に過ぎない。
若いときは、おおむね「人生イケイケドンドン」である。やってみてうまくいくかどうかは、二の次だ。
年をとるにしたがって、勢いだけではどうにもならないことが世の中にはたくさんあるということが、ようやっと実感されてくる。
鴎外の文章には、その「断念」がにじみ出ている。
あるいは、日本の近代文学のなかで、もっともよく、「大人の断念と諦念」を表現しえた作家といえるのではあるまいか。
だからこそ、筆者のような、初老をとうに過ぎた人間が共感するのだと思う。
鴎外についてはまた機会をあらためて書きつぐつもりである。