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ミロとスペイン内戦、そしてフランコ政権

2010年08月04日 00時14分14秒 | 展覧会の紹介-絵画、版画、イラスト
承前

 ところで、筆者がずっと以前から気になっていたのは、ジョアン・ミロとフランコ政権、あるいはスペイン市民戦争とのかかわりである。

 札幌芸術の森美術館での展覧会ではまったくわからなかったこの点について、今回の講演では興味深い知見を得ることができた(というか、自分が無知だっただけなんだけど)。

 ここで、世界史のおさらい。
 スペインは16~17世紀には無敵艦隊を擁して世界中に植民地を有した強国であったが、その後オランダや英国の後塵を拝し、欧洲の中でも工業化の遅れた封建的な国に甘んじていた。
 20世紀に入るあたり、米西戦争に敗れたことに危機感を抱いた思想家たちが近代化を求める声を上げた。そして1930年代に入り総選挙で左翼が勝利、王制を廃して共和制を樹立した。
 しかし、国内の左右対立は激化し、1936年にフランコらを中心とする右派が人民戦線政府に対して蜂起。スペインは内戦状態に陥る。
 フランコ側は、ナチスドイツとイタリアが支援したが、英米は中立を決め込んだ。当時の新興国であるソヴィエトは人民戦線側を支持した。人民戦線側は世界に支援を呼びかけた。それに応えたのが、ヘミングウェイ、ジョージ・オーウェル、マルローらである。若き日のキャパも人民戦線サイドでカメラのシャッターを切っていた。
 当時の体験は「誰がために鐘は鳴る」「カタロニア讃歌」などの文章に結実するのだが、それは後の話である。

 人民戦線側はアナキスト(無政府主義者)からボルシェヴィキ(ソ連支持の共産主義者)、トロツキスト、サンディカリスト(労働組合主義)まで諸勢力の寄り合い所帯であったこともあり、内部対立が続き、軍事的優位を誇る右派側にだんだんおされていた。
 そして1939年にフランコの政権が樹立された。彼は、死の75年まで独裁体制を敷いたのである。
 ピレネー山脈を越えて多くの知識人などがフランスやメキシコに亡命していった。
 フランコ政権では、カタルーニャやバスクなどの地方語は使用を禁じられた。
(ただし、ヒトラーの度重なる誘いを断って第2次世界大戦で一貫して中立を守り、犠牲を出さなかったのは、フランコの功績だという見方もある)

 20世紀半ばにおいて、多くの知識人は、程度の差こそあれ共産主義に希望を抱いており、ファシズムを嫌っていた。だから、たいていの作家や画家は人民戦線側についたはずである。(ダリは数少ない例外)
 しかし、たとえばピカソ(彼はフランス共産党員であった)が、ほとんどフランスで活動し、ファシズムによる空爆を強く批判した大作「ゲルニカ」を、故国スペインが民主化するまでは帰還を許さなかったのとは対照的に、ミロは戦後もスペインにあり続けた。
 シュールレアリストでもあった彼が、いったいどんな顔でスペインにい続けたのか?
(シュールレアリスムは共産主義に対して親和的で、盟主ブルトンは一時共産党に入っていた。ただし、ミロはシュールレアリスムにどっぷりはまっていたのではなく、つかず離れずといった印象である)

 今回の講演で、やはりミロが人民戦線側にたっていたことがわかった。

 かの「ゲルニカ」は、スペイン内戦さなかの1937年にパリで開かれた万国博覧会に出品されたものだが、おなじスペイン(共和国)パビリオンに、ミロの「刈り入れ人」という大作も展示されていたのだ。
 ちなみにこの作品は現存せず、カラー写真もない。
 ただ、注意深く読み込んでいくと、この絵がカタルーニャ国歌を踏まえていることがわかるという。
(ちなみに、このパビリオンには、揺れる彫刻で知られるコールダーも、フランコ側を非難する意図の作品を出していた)

 そして、今回出品の「月の前の女と犬」(1936年)も、これだけを見ると、舌を出した女をユーモラスに描いた作に見えるけれど、ミロが最初に制作したポスター「スペインを救え」などと共通するものがあるという。
 このポスターで、中央の男は赤い帽子をかぶっている。これは、カタルーニャ独特のものなのだ。
 
 内戦では、カタルーニャは人民戦線側の牙城であった。
 ミロは日常ではカタルーニャ語を用い、美術談義などはフランス語で行ったという。
 アンチ中央のカタルーニャ人気質なのだろう。

 ミロが1939年、「カイエ・ダール」誌に語ったことば。
「線と色彩のたわむれが製作者の内面のドラマをあらわさないのなら、それはブルジョワの慰みごとにすぎない。
 ファシズムが広がりつづけるとしたら、人間の尊厳はことごとくついえ去るであろう」 

 これはちょっとショックでしたね。
 ミロは断じてノー天気な画家ではなかったのだ。

 彼は内戦を逃れて北フランスで制作に取り組むが、ナチスドイツ軍が迫ってくる。そこで、米国へ亡命しようとするが、船はいっぱいだった。
 彼が選んだ地は、母親の故郷であるマヨルカ島だった。地中海に浮かぶスペイン領の島で、いまは国際的なリゾートである。

 ミロは1968年にもメーデーのポスターを制作し、その中には大胆にも、禁圧されていたカタルーニャ語の単語が書かれている。
 このポスターは当局によって多くが回収されてしまったらしい。

 というわけで、今回の講演を聴いて、ミロがファシストに屈せず、自らの姿勢を貫いていたことを知り、ほっとした。
 もとより彼のふにゃふにゃした画風は、政治的なものたりえないのだが、それでも彼なりに一貫していたことを学べたのは、大きな収穫であった。


 なお、念のために付け加えておくならば、大森教授はスペイン内戦のことばかり話していたのではなく、彼の絵画に頻出するモティーフであるとか、パリに移り住んだ際アトリエの隣りがシュルレアリストのアンドレ・マッソンで、そのため多くの詩人の知遇を得たといった、さまざまな話題を展開していたので、誤解なきよう。

 大森教授の話を聴講でき良かったと、あらためて思う。


(この項おわり)


2010年7月17日(土)~8月22日(日)9:30~5:00(入場~4:30) 月曜休み(祝日は開館)、7月27日も休み
北網圏北見文化センター美術館(北見市公園町)

2010年8月28日(土)~10月24日(日)9:30~5:00(入場~4:30) 月曜休み(祝日は開館し、翌火曜休み)
道立帯広美術館(緑ケ丘公園)


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