8月21日の朝刊各紙に、藤本四八さんの訃報が載っていた。
東京都写真美術館が編んだ「日本写真家事典」から引く(原文は1段落なので、センテンスごとに改行した)。
毎日出版文化賞は、本の業界では権威ある賞だ。
また、藤本さんは1988年から95年まで、日本写真家協会会長も務めている。
ひとつ気になるのは、上の資料などでは、藤本さんは東京在住となっているのに、新聞の記事では小樽在住となっていて、葬儀も小樽で行われるとあるのだ。
90代になってから縁もゆかりもないはずの北海道に越してきたのは、家族の関係だろうか。
なお、8月23日の新聞には、米国の写真家ショー・ローゼンダールさんの死亡記事も出ていた。94歳。
1945年2月、米軍が日本軍と激闘の末に硫黄島を占領した際、6人の米兵が山頂に大きな星条旗を立てる有名な写真を撮影し、ピュリツァー賞を受けている。
http://www.ah.dcr.state.nc.us/sections/hs/bath/bath_veterans_weekend.htm
東京都写真美術館が編んだ「日本写真家事典」から引く(原文は1段落なので、センテンスごとに改行した)。
1911年(明治44)年7月25日、長野県飯田市に生まれる。このうち「日本工房」というのは、1933年に名取洋之助や木村伊兵衛らによって創設された報道写真やデザインの団体で、のちに対外宣伝雑誌「NIPPON」を出したことで、日本の写真史では著名である。
27(昭和2)年、飯田商業学校(旧制)を中退し、家業を手伝いながら画家を志す。
31年、上京して金鈴社フォト・スタジオに入社。
34年には日本デザイン社に移り、広告写真に携わる。
37年に日本工房に入社。
39-40年には中国戦線に赴き、『華南画報』の写真などを担当。
フィリピン、インドシナ等の戦線でも報道写真家として従軍する。
帰国後の40年、国際報道工芸の写真部長を務める傍ら、作品を制作する。
41年、戦火による文化財の焼失を恐れて、長兄・韶三、北川桃雄と唐招提寺、薬師寺を訪れ撮影。
44年「仏像写真展」を開催、45年『唐招提寺』『薬師寺』(美術出版社)を刊行する。
45年フリーランスとなり、47年『週刊サンニュース』誌の写真担当を経て、『日本の彫刻』『日本の寺』(美術出版社)の撮影に携わる。
『装飾古墳』(64年、平凡社)により65年に日本写真協会年度賞、毎日出版文化賞等を受賞。
72年には7年余りをかけた『日本の塔』(学習研究社)を刊行。
徹底した調査に基づく作品は、日本の伝統文化の記録として高い評価を得る。
83年勲四等瑞宝章受章。
97(平成9)年、長野県飯田市が「藤本四八写真文化賞」を創設。
毎日出版文化賞は、本の業界では権威ある賞だ。
また、藤本さんは1988年から95年まで、日本写真家協会会長も務めている。
ひとつ気になるのは、上の資料などでは、藤本さんは東京在住となっているのに、新聞の記事では小樽在住となっていて、葬儀も小樽で行われるとあるのだ。
90代になってから縁もゆかりもないはずの北海道に越してきたのは、家族の関係だろうか。
なお、8月23日の新聞には、米国の写真家ショー・ローゼンダールさんの死亡記事も出ていた。94歳。
1945年2月、米軍が日本軍と激闘の末に硫黄島を占領した際、6人の米兵が山頂に大きな星条旗を立てる有名な写真を撮影し、ピュリツァー賞を受けている。
http://www.ah.dcr.state.nc.us/sections/hs/bath/bath_veterans_weekend.htm
昭和の時代を記録してきた方が亡くなられていきますね。
数年前に東京で日本工房の仕事を見る機会がありました。いまから60年以上昔の仕事という事実に驚きました。