オホーツク地方の野外彫刻めぐりもいよいよ最終盤です。
道央・道北とオホーツク地方を結ぶ国道39号の石北峠に、野外彫刻が二つあります。
一つは、富山県高岡生まれ、小樽育ちの彫刻家、中野五一(1897~1978)の手になる胸像です。
中野は一時、北見に疎開していたため、オホーツク地方に野外彫刻が多く残されています(下のリンクをご覧ください)。
尾崎天風氏像の銘板には次のようにあります。
戦後10年以上たった1959年の碑文としては、非常に時代がかったというか、格調高い漢文で記されています。
正字(いわゆる旧字体)は戦後の字体に直しました。
尾崎天風は1886年(明治19年)佐賀県生まれ。
その後、北海道・常呂(現北見市)に渡り、新聞記者などを経て、戦前に衆議院議員を2期務めました。
碑文によると、以前から留辺蘂町(現北見市)と上川管内上川町を結ぶ道路に着目し、その開削を強く希望していたそうです。
この像は、両町を結ぶ道路(石北峠)が開通した日に尾崎に、感謝の意を込めて贈られました。
若いころは佐呂間町で御者を務めたり、料理屋を開いたりしていたらしく、同町のサイトの一部に「開拓の群像」というpdf ファイルがあります( https://www.town.saroma.hokkaido.jp/shoukai/files/10gunzou005.pdf )。
それによると、先の碑文を揮毫したのは、昭和を代表する書家のひとりで、戦後はたびたび来道した上田桑鳩(1899~1968)とのこと。これはちょっと驚きです。
ところで、北海道の東西を結ぶ大動脈の国道39号・石北峠の開通が1959年というのは、意外と新しいと思う向きもあるでしょう。
実は、オホーツクへのルートとしては、北見峠経由の方が戦前から通じていたのです。鉄道もこのルートでした。
地図で見ると分かりますが、国道39号・石北峠ルートは、大雪山国立公園の中央部を貫通しています。
標高も、北見峠の857メートルに比べ、石北峠は1050メートルもあります。昨今なら「自然破壊の恐れ大」とされて道路工事自体が許されない可能性もあります。
ではなぜ、こんな大雪山系をぶち抜くようなルートの道路が造られたのか。
それは、1954年に北海道を襲った「洞爺丸台風」の影響です。
この颱風は風が強く、全道的に大量の風倒木が発生しました。
その後数年間、風倒木の処理に道内の営林署などは大忙しでした。おそらく、林業が北海道の歴史で最も好景気にわいていた時代だったといえましょう。
筆者は昔、層雲峡側と留辺蘂側から風倒木を運ぶための林道をつくっていって、峠で偶然つながったのが石北峠である―という話を関係者から聞いたことがあります。
いくらなんでも、話を膨らませているのではないかと思うのですが…。
また、この国道は、上川側には層雲峡温泉が、留辺蘂側には温根湯温泉があり、観光ルートとしても大いに活用が見込まれました。
2019年12月に、旭川紋別自動車道がオホーツク管内遠軽町まで開通しました。
道央とオホーツクを結ぶ道路交通の主役は、鉄道と同様に、北見峠・遠軽ルートに戻ってきたような印象があります。
北海道の尾根とも称すべき大雪山の中央部を貫く峠を見下ろす場所に立てられた、尾崎天風氏の像。
天風は1960年に亡くなりました。
彼はオホーツク管内湧別町と網走市を結ぶ国鉄湧網線の開通にも力を注ぎました。
戦後の1953年になってようやく全通した同線も、国鉄赤字ローカル線廃止の大波には勝てず、87年にはなくなってしまいます。
泉下で(あるいは峠を見下ろしながら)彼は何を思っているのでしょうか。
上川、留辺蘂両町の、銅像建立の発起人の名を刻んだ銘板が台座に取り付けてありましたので、その写真も掲げておきます。
さて、尾崎天風氏像の向かって左側(上川側)に立っているのが「樹霊供養之塔」です。
洞爺丸颱風で倒れた木々の霊をなぐさめるために建てられたもののようです。
柱が高く、その上に載っている像は、墓地などでよく見かける石の仏像のようで、とりたてて特徴のあるものには見えません。
こちらのサイト( https://saisaku.net/disaster-prevention-learning/shizensaigaidenshohi/hokkaido.html )によると、1959年設立とのことで、これも尾崎天風氏の像と同じです。
なお、この像の作者などは分かりませんでした。
過去の関連記事へのリンク
中野五一「佐藤猪之助先生像」 遠軽→北見→釧路・2021年10月9日は3カ所(3)
中野五一「前田正名翁像」 釧路の野外彫刻(45)
中野五一「河原鶴造翁之像」―相内・北見への短い旅(2)
中野五一「佐野準一郎翁像」(北見市留辺蘂町)
中野五一「合田綾一先生像」(網走)
中野五一「奏楽女人像」(北見市緑ケ丘霊園)
名塩良造翁の像 (北見市中央図書館)
中野五一「岡本政道翁像」 (滝上)
中野五一「遠藤熊吉翁之像」(網走)
前田駒次翁像(北見)
伊谷半次郎翁像 (北見)
中野五一「松浦武四郎蝦夷地探検隊」 釧路の野外彫刻(12)
■構造社 昭和初期彫刻の鬼才たち
道央・道北とオホーツク地方を結ぶ国道39号の石北峠に、野外彫刻が二つあります。
一つは、富山県高岡生まれ、小樽育ちの彫刻家、中野五一(1897~1978)の手になる胸像です。
中野は一時、北見に疎開していたため、オホーツク地方に野外彫刻が多く残されています(下のリンクをご覧ください)。
尾崎天風氏像の銘板には次のようにあります。
前代議士尾崎天風氏夙
著目留辺蘂上川線開鑿
切要冀図此達成爾来刻
苦淬使至見其完成焉
今業既成豈可不言氏乎
茲卜開通式之佳日贈寿
像以批瀝感謝之微表云
爾
昭和三十四年六月
上川町長 野田晴男
留辺蘂町長 佐野準一郎
戦後10年以上たった1959年の碑文としては、非常に時代がかったというか、格調高い漢文で記されています。
正字(いわゆる旧字体)は戦後の字体に直しました。
尾崎天風は1886年(明治19年)佐賀県生まれ。
その後、北海道・常呂(現北見市)に渡り、新聞記者などを経て、戦前に衆議院議員を2期務めました。
碑文によると、以前から留辺蘂町(現北見市)と上川管内上川町を結ぶ道路に着目し、その開削を強く希望していたそうです。
この像は、両町を結ぶ道路(石北峠)が開通した日に尾崎に、感謝の意を込めて贈られました。
若いころは佐呂間町で御者を務めたり、料理屋を開いたりしていたらしく、同町のサイトの一部に「開拓の群像」というpdf ファイルがあります( https://www.town.saroma.hokkaido.jp/shoukai/files/10gunzou005.pdf )。
それによると、先の碑文を揮毫したのは、昭和を代表する書家のひとりで、戦後はたびたび来道した上田桑鳩(1899~1968)とのこと。これはちょっと驚きです。
ところで、北海道の東西を結ぶ大動脈の国道39号・石北峠の開通が1959年というのは、意外と新しいと思う向きもあるでしょう。
実は、オホーツクへのルートとしては、北見峠経由の方が戦前から通じていたのです。鉄道もこのルートでした。
地図で見ると分かりますが、国道39号・石北峠ルートは、大雪山国立公園の中央部を貫通しています。
標高も、北見峠の857メートルに比べ、石北峠は1050メートルもあります。昨今なら「自然破壊の恐れ大」とされて道路工事自体が許されない可能性もあります。
ではなぜ、こんな大雪山系をぶち抜くようなルートの道路が造られたのか。
それは、1954年に北海道を襲った「洞爺丸台風」の影響です。
この颱風は風が強く、全道的に大量の風倒木が発生しました。
その後数年間、風倒木の処理に道内の営林署などは大忙しでした。おそらく、林業が北海道の歴史で最も好景気にわいていた時代だったといえましょう。
筆者は昔、層雲峡側と留辺蘂側から風倒木を運ぶための林道をつくっていって、峠で偶然つながったのが石北峠である―という話を関係者から聞いたことがあります。
いくらなんでも、話を膨らませているのではないかと思うのですが…。
また、この国道は、上川側には層雲峡温泉が、留辺蘂側には温根湯温泉があり、観光ルートとしても大いに活用が見込まれました。
2019年12月に、旭川紋別自動車道がオホーツク管内遠軽町まで開通しました。
道央とオホーツクを結ぶ道路交通の主役は、鉄道と同様に、北見峠・遠軽ルートに戻ってきたような印象があります。
北海道の尾根とも称すべき大雪山の中央部を貫く峠を見下ろす場所に立てられた、尾崎天風氏の像。
天風は1960年に亡くなりました。
彼はオホーツク管内湧別町と網走市を結ぶ国鉄湧網線の開通にも力を注ぎました。
戦後の1953年になってようやく全通した同線も、国鉄赤字ローカル線廃止の大波には勝てず、87年にはなくなってしまいます。
泉下で(あるいは峠を見下ろしながら)彼は何を思っているのでしょうか。
上川、留辺蘂両町の、銅像建立の発起人の名を刻んだ銘板が台座に取り付けてありましたので、その写真も掲げておきます。
さて、尾崎天風氏像の向かって左側(上川側)に立っているのが「樹霊供養之塔」です。
洞爺丸颱風で倒れた木々の霊をなぐさめるために建てられたもののようです。
柱が高く、その上に載っている像は、墓地などでよく見かける石の仏像のようで、とりたてて特徴のあるものには見えません。
こちらのサイト( https://saisaku.net/disaster-prevention-learning/shizensaigaidenshohi/hokkaido.html )によると、1959年設立とのことで、これも尾崎天風氏の像と同じです。
なお、この像の作者などは分かりませんでした。
過去の関連記事へのリンク
中野五一「佐藤猪之助先生像」 遠軽→北見→釧路・2021年10月9日は3カ所(3)
中野五一「前田正名翁像」 釧路の野外彫刻(45)
中野五一「河原鶴造翁之像」―相内・北見への短い旅(2)
中野五一「佐野準一郎翁像」(北見市留辺蘂町)
中野五一「合田綾一先生像」(網走)
中野五一「奏楽女人像」(北見市緑ケ丘霊園)
名塩良造翁の像 (北見市中央図書館)
中野五一「岡本政道翁像」 (滝上)
中野五一「遠藤熊吉翁之像」(網走)
前田駒次翁像(北見)
伊谷半次郎翁像 (北見)
中野五一「松浦武四郎蝦夷地探検隊」 釧路の野外彫刻(12)
■構造社 昭和初期彫刻の鬼才たち