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■棟方志功 幻の肉筆画展 (2012年3月3~25日、札幌)

2012年03月25日 01時10分08秒 | 展覧会の紹介-複数ジャンル
 このブログの読者で棟方志功を知らない人はあまりいないと思う。
 1903年青森県生まれ、75年歿。20世紀日本を代表する木版画家である(ただし、本人は「版画」とは言わず、「板画」と称した)。

 今回の展覧会は、「湧然する女者達々」や、大作「追開心経頌」といった板画もあるが、大半が肉筆画であるところがポイント。京都の友人宅のふすまや扉に、自由奔放に描いた絵や書を、まるごと札幌に持ってきて展示しているのだ。
 ふすまに大書した「乾坤無妙」など、見ているうちに
「ぐおおおおお」
という擬音が聞こえてきそうなほどの迫力と勢いがある。
 会場の一角には、和室をまるごと再現したコーナーもあり、ふすま絵などがどういう雰囲気でしつらえられていたのか、知ることができた。
 興味深い展覧会であり、貴重な機会であることは、まちがいない。

 しかし…、筆者は考えてしまった。

 会場に出ているものの質が悪いといっているのではない。
 大半のものは、棟方志功が、不特定多数の他人に見せようと意図して制作したものではない。
 親しい人のために個人的に描いたり書いたりしたものである。だから、ここまで「作品」ということばはいっさい使っていない。いわゆる「作品」とは言えないと思うからだ。
 そういう性質のものをとらえて、いいとか悪いとか言う権利が、わたしたちにあるのだろうか。

 もうひとつ。
 会場に並んでいるのは、大半が一軒の家の中に本来あったものである。
 そういうものを、展覧会場に持ってきて、明るいフラットな光のもとで、解説の文章や題名のキャプションつきで眺めているのは、よく考えると奇妙な事態である。
 歴史的に見て、芸術の鑑賞方法はひとつではない。ラファエロの美しい聖母像はもともとは教会の注文に応じて信仰に資する目的で描かれたものであろうし、ルーベンスの肖像画は王族の屋敷に麗々しく飾られるためのものだったろう。
 そして、日本の場合は、茶室や床の間に掛けられる軸であったり、部屋を囲むふすまや屏風であったりしたのである。

 筆者も、ブログの読者のみなさんも、ギャラリーや美術館で美術品を鑑賞することが多いと思うが、長い歴史の中では、その方が特殊な慣習であるといえそうである。
 ホワイトキューブのなかでこれらの棟方志功の書やふすま絵を見ることが、果たして正しい鑑賞方法なのか? 別に、ダメだとは言わないし、もとの京都の家にあったままなら自分だって見ることができないわけだが、それにしても、本来の鑑賞のありかたとは微妙に異なっているのは、確かなようだ。

 よく
「アートのある暮らしはすてきです」
などと言う人がいる。
 大筋では賛成だけど、たとえば、自分の家が、これらの棟方志功の書や絵に満ちていたらどうだろう。
 とても安らげないのではあるまいか。
 大胆な筆遣いも一因であるが、それ以上に、非常に高額であるからだ。
 彼のふすまがある部屋には、子どもや猫は一歩たりとも立ち入らせることができないであろう。もしふすまがすこしでも破れたりしたら、何十万円、何百万円という損失である。
 大金持ちだけが
「ありゃあ、ちょっと傷ついちゃったよ、ははは」
などと笑っていられるのである。筆者のような人間には絶対にムリだ。

 自宅に高額なアートがあると、むしろ、暮らしはすてきにならないのではないか。


 最後に、複雑な気分になったことを書く。

 「追開心経頌」などを見ていると、他の客とぶつかりそうになるのだ。

 書や日本画の展覧会では右から左へと鑑賞していくのが常識である。
 いまはインターネットなど、横書きの文章が多くなっているが、そもそも日本語の文章は右から左に描いていくものだからだ。絵巻物なども右から左という順になっている。
 まして棟方志功の作は、お経が絵といっしょに刻まれていたりするから、左から順に見ていくということはありえない。
 頼むから、お経を左から読まないでもらいたいと思う。


 いろいろ書いたけれど、総じて言えば、おもしろい展覧会だった。  
 意外と板画もあるし、油彩も3点あるのは珍しい。


2012年3月3日(土)~25日(日)午前10時~午後8時(入場~午後7時半)、期間中無休
プラニスホール(札幌市中央区北5西2 札幌エスタ11階)
http://www.jr-tower.com

※エスタ(旧そごう)のエレベーターは常に混雑しているので、始発である地下から上っていくのがベストです


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