ふしぎなデフォルメをほどこされた人物を、鉛筆でたんねんに描く札幌の木村さんの個展に足を運ぶのは、ことしでもう4回目になる。
見る人をはげしくひきつける磁力のようなものがあるようで、ふだんならそれぞれの個展に数行ずつの(しかし、的確な)コメントしか記さない或るブログ-こっそりやっているみたいなので名は記さず-で、長々とその魅力を語られるなど、独特の世界にハマっている人は少なくないようだ。
今回は、27点が、片側の壁に3点ずつならんでいる。すべてモノクロームで、色はいっさいない。
全点が縦位置。自作とおぼしき黒い額におさまっている。
ことし初個展をひらいたCD店「Third Ear(サード・イヤー)」では、作品は正方形だったけれど、そのつぎのtemporary space(テンポラリースペース)では縦ばかりだったような記憶があるし、夏の江別の「ども」での個展も全点が縦長だった。以前、ご本人にお聞きしたところ、会場を見てからどんな作品にするか決めているようなことを話しておられた。
今回の個展の作品がどれもことさらに小さいのは、札幌でおそらくもっとも小さなギャラリーであることと深く関聨しているにちがいない。
ちなみに、奥の壁と、むかって右側の軟石の壁は、まったく使用していない。
そう。小さいのだ。
定規を持ち合わせていなかったので、正確に何センチということはできないのだが、絵はがきよりも小さいという印象を持った。
絵のとなりには、虫めがねが3つぶらさがっていて、自由に使える。
虫めがねごしに見てちょうどいいぐらいの、おそろしいまでの細密な描写だ。
このサイズできちんとした世界を感じさせる画材は、木口木版や銅版画、七宝焼など、ごくかぎられるだろう。すくなくても油絵の具では、売り絵っぽい作品しか作れまい。鉛筆が、小さな画面に大きな世界を展開できるツールであることに、あらためて驚嘆する。
「今日の展覧会に行ってみると、画(え)が皆大きすぎる。あんなでっかいものを何だって描くのだといいたくなる」
と岸田劉生が日本画について評したのは1920年ごろのことだが、21世紀初頭の公募展会場に行くと、80年余を経て絵のサイズはますます大きくなっている。岸田劉生が生き返って、六本木の美術館に行ったら、卒倒するにちがいないほどだ。
木村さんは、巨大化する現代の芸術の逆を行った。それも、あざやかに。
それだけでもじゅうぶん意義のあることだと思う。
絵の中身の話にうつる。
木村さんの今回の個展で描かれているモティーフは、たとえばつぎのようなものである。
トイレで血まみれの手を壁につけている人魚。
女ケンタウルスに抱きつく少女。
女性が入っているバスタブの湯が鳥になって羽ばたいていく。
犬小屋に下半身を入れて横たわっている黒衣の人物とそれを立ってみおろしている人物(頭に、底の抜けたばけつのような奇妙なものをかぶっている)。
禿頭の人物のまわりに足場を組んで踊ったりすわったりしている9人の小さな人物。
長い髪が蝶の群れに変わっていく女。
透けたドレスを着てブーケを左手に持ち、タキシードを着たけだものと腕を組む女…
もっとも、こんなふうに記述したからといって、さして意味があるとも思えない。
画面に込められている感情は、ついに言葉で割り切れる種類のものではないだろうから。(つまり「文学的」な絵ではない)
長い髪が変容していくという絵が多いのは、まあ確かなのだが、それだけではないし…。
描写が異様なのではない。
むしろ、スフマート(ぼかし)を駆使して安易な輪郭線を排し、ていねいに陰影をつけていく描法といい、正面から人物を見据える視線といい、正統的な西洋絵画ともいえる。
すくなくても、ダリなどに見られるような、描写力を誇示しておどろおどろしい世界を展開している絵ではない。
残酷な画風でも、全体は静謐(せいひつ)さに満ちている。
緻密(ちみつ)さが、細部をゆるがせにしていないためだろう。
それだけ想像力が透徹しているのだと思う。
ただ、ひとつ確実にいえることは、Third Earでの個展がスプラッタ映画にも似た惨劇を描いた絵ばかりをならべ、temporary space や「ども」での個展では、見る人の心をいやす、想像力に満ちた絵ばかりだったのに対し、今回の個展は、ふたつの傾向の作品が同時にならんでいる-ということだ。
残虐さと安らかさ。それは、一見はげしく矛盾するものでありながら、ひとりの人間の内部に同居している、ということを、木村さんの絵はしずかに語っているようなのだ。
ところで、木村さんはことしの暮れに、さいきん盛んにライブドローイングを展開している石狩市の若手藤谷康晴さんと、temporary space でコラボレーションをおこなうことになっている。
木村さんが描いた細密な鉛筆画を、藤谷さんが乱暴に塗りつぶしていく-という場面が繰り広げられるらしい。
モッタイナイというか、たのしみというべきか…。
07年8月23日(木)-9月5日(水)11:00-20:00(日曜-17:00)、火曜休み
gallery new star(中央区南3西7 地図B)
□木村さんのサイト“Smiling Hour” http://www006.upp.so-net.ne.jp/kim-igor/
■木村環 a.k.a.kim-igor "METAL BOWL STRIKES AGAIN" (07年4月)
見る人をはげしくひきつける磁力のようなものがあるようで、ふだんならそれぞれの個展に数行ずつの(しかし、的確な)コメントしか記さない或るブログ-こっそりやっているみたいなので名は記さず-で、長々とその魅力を語られるなど、独特の世界にハマっている人は少なくないようだ。
今回は、27点が、片側の壁に3点ずつならんでいる。すべてモノクロームで、色はいっさいない。
全点が縦位置。自作とおぼしき黒い額におさまっている。
ことし初個展をひらいたCD店「Third Ear(サード・イヤー)」では、作品は正方形だったけれど、そのつぎのtemporary space(テンポラリースペース)では縦ばかりだったような記憶があるし、夏の江別の「ども」での個展も全点が縦長だった。以前、ご本人にお聞きしたところ、会場を見てからどんな作品にするか決めているようなことを話しておられた。
今回の個展の作品がどれもことさらに小さいのは、札幌でおそらくもっとも小さなギャラリーであることと深く関聨しているにちがいない。
ちなみに、奥の壁と、むかって右側の軟石の壁は、まったく使用していない。
そう。小さいのだ。
定規を持ち合わせていなかったので、正確に何センチということはできないのだが、絵はがきよりも小さいという印象を持った。
絵のとなりには、虫めがねが3つぶらさがっていて、自由に使える。
虫めがねごしに見てちょうどいいぐらいの、おそろしいまでの細密な描写だ。
このサイズできちんとした世界を感じさせる画材は、木口木版や銅版画、七宝焼など、ごくかぎられるだろう。すくなくても油絵の具では、売り絵っぽい作品しか作れまい。鉛筆が、小さな画面に大きな世界を展開できるツールであることに、あらためて驚嘆する。
「今日の展覧会に行ってみると、画(え)が皆大きすぎる。あんなでっかいものを何だって描くのだといいたくなる」
と岸田劉生が日本画について評したのは1920年ごろのことだが、21世紀初頭の公募展会場に行くと、80年余を経て絵のサイズはますます大きくなっている。岸田劉生が生き返って、六本木の美術館に行ったら、卒倒するにちがいないほどだ。
木村さんは、巨大化する現代の芸術の逆を行った。それも、あざやかに。
それだけでもじゅうぶん意義のあることだと思う。
絵の中身の話にうつる。
木村さんの今回の個展で描かれているモティーフは、たとえばつぎのようなものである。
トイレで血まみれの手を壁につけている人魚。
女ケンタウルスに抱きつく少女。
女性が入っているバスタブの湯が鳥になって羽ばたいていく。
犬小屋に下半身を入れて横たわっている黒衣の人物とそれを立ってみおろしている人物(頭に、底の抜けたばけつのような奇妙なものをかぶっている)。
禿頭の人物のまわりに足場を組んで踊ったりすわったりしている9人の小さな人物。
長い髪が蝶の群れに変わっていく女。
透けたドレスを着てブーケを左手に持ち、タキシードを着たけだものと腕を組む女…
もっとも、こんなふうに記述したからといって、さして意味があるとも思えない。
画面に込められている感情は、ついに言葉で割り切れる種類のものではないだろうから。(つまり「文学的」な絵ではない)
長い髪が変容していくという絵が多いのは、まあ確かなのだが、それだけではないし…。
描写が異様なのではない。
むしろ、スフマート(ぼかし)を駆使して安易な輪郭線を排し、ていねいに陰影をつけていく描法といい、正面から人物を見据える視線といい、正統的な西洋絵画ともいえる。
すくなくても、ダリなどに見られるような、描写力を誇示しておどろおどろしい世界を展開している絵ではない。
残酷な画風でも、全体は静謐(せいひつ)さに満ちている。
緻密(ちみつ)さが、細部をゆるがせにしていないためだろう。
それだけ想像力が透徹しているのだと思う。
ただ、ひとつ確実にいえることは、Third Earでの個展がスプラッタ映画にも似た惨劇を描いた絵ばかりをならべ、temporary space や「ども」での個展では、見る人の心をいやす、想像力に満ちた絵ばかりだったのに対し、今回の個展は、ふたつの傾向の作品が同時にならんでいる-ということだ。
残虐さと安らかさ。それは、一見はげしく矛盾するものでありながら、ひとりの人間の内部に同居している、ということを、木村さんの絵はしずかに語っているようなのだ。
ところで、木村さんはことしの暮れに、さいきん盛んにライブドローイングを展開している石狩市の若手藤谷康晴さんと、temporary space でコラボレーションをおこなうことになっている。
木村さんが描いた細密な鉛筆画を、藤谷さんが乱暴に塗りつぶしていく-という場面が繰り広げられるらしい。
モッタイナイというか、たのしみというべきか…。
07年8月23日(木)-9月5日(水)11:00-20:00(日曜-17:00)、火曜休み
gallery new star(中央区南3西7 地図B)
□木村さんのサイト“Smiling Hour” http://www006.upp.so-net.ne.jp/kim-igor/
■木村環 a.k.a.kim-igor "METAL BOWL STRIKES AGAIN" (07年4月)
、、、、男性の方だと思ってました。
ニュースターの入り口前のベンチで、
文庫読んでいた女の子なんですね。
私、最近一番注目している作家さんであります。
作品に世界観(←何かつまんない言葉ですが)が感じられることと、見ていると何だか分からない感情が呼び起こされるのがポイントです。憧憬とか諦念とか微妙な感じの心の動きですね。
おひさしぶりです。
さいきん、ぜんぜんカキコがないので、心配しておりました。
木村さん、たしかにスマイリングアワーを読んでるだけだと、男だか女だか判別できないですね。
作品と文章も、なんかこう、ギャップがあるし。
>SHさん
こんばんは。
「何だかわからない感情」
というのは、カギですね。
かんたんにことばにできるのならば、絵にする意味がないわけですし。