(承前)
「■生息と制作-北海道に於けるアーティスト、表現・身体・生活から(続き) 2013Mar.東京(13) ~4月10日」および「■生息と制作展を機に、あらためて考えた「東京と北海道」」以来、先日の東京行きに関するひさびさのエントリ。
このままだと、書かないまま放置してしまうという悪癖が再発してしまいそうだし、ブログ「散歩日記X」のSHさんに「楽しみにしています」と言われて、ほうっておくわけにもいかない。
ラファエロについては、次の一言だけでもう十分ではないかという気もする。
ラファエロは、西洋美術界のモーツァルトである。
37歳で死んだところも、作品がいずれも幸福そうなところも似ている。
美術史も音楽史も、そこでひとつの頂点に達して、あとは、純粋さを失って一種のマニエリスムになってしまうところも。
しかし、これで終わってしまってはあんまりなので、最近読んだ中から、もっとも彼の魅力を要約して伝えていると筆者が思った言葉を引用しておこう。
わたしたちがラファエロの複製を見ると、往々にして「普通の写実的な絵だな」という感じを抱く。
しかし、それはラファエロのせいではなく、後世の画家が彼を模範としたため、彼の絵がさして個性的なものと感じられなくなってしまったのだ。
「わずか37歳の生涯とは思えないほど多くの作品を残し、しかもそのほとんどが後世の規範となるほどの高水準にありました。(中略)数世紀にわたって美のカノンであり続けました」(池上英洋「ルネサンス 歴史と芸術の物語」228ページ。光文社新書)
すなわち「ラファエロに陳腐はない」(ドラクロワ)。
写実的な絵は現代に至るまで数多く描かれてきたが、ラファエロを含む盛期ルネサンスの以前には、ラファエロの水準に達している絵はほとんど存在しない。
もちろん、そこに至るまでには、ファン・エイク兄弟およびジォット、マサッジョからの長い積み重ねがあった。
そしてラファエロも、おなじく盛期ルネサンスの3大天才と並び称されるレオナルド・ダビンチやミケランジェロから良いところを取り入れようと懸命に学んだ(今回の出品作でいえば、例えば「無口な女(ラ・ムータ)」はレオナルドの影響が顕著である)。
しかし、自らの絵画を追究するあまり完成作がわずかしかないレオナルドや、政治をめぐってメディチ家とけんかするミケランジェロに比べると、ラファエロの人当たりの良さは対照的である。
ラファエロの真の偉大さは、理想と現実がきわめて高いところで一致しているところにあるのではないかと思う。
中世の西洋美術は、イエスや聖人らを描く際、理想的に表現しようとした結果、現実離れした硬い人物像になってしまったきらいがある。
ところが、ラファエロの描く聖母像は、いかにも実在の人物らしい。近所に住んでいそうな感じすら漂う。
では「俗っぽい」かというと、そういう要素はみじんもない。ラファエロは、あくまで理想化された聖母を描いているのだ。
わたしたちは、人間の心の奥をとらえたようなアンソールやゴヤのような絵にも、理想を結晶化したようなピエロ・デロ・フランチェスカのような絵にも、それぞれ心ひかれる。そして、その両者の側面を統合した人物像を完成させたラファエロに対しては、やはり敬意を抱かざるを得ないのだ。
「ラファエッロを欠いたイタリアは、永遠の寡婦だ」(H.フォション)
個々の作品について少し書く。
「父なる神、聖母マリア」はわずか17、18歳のときの作。
古い描法の天使(頭に直接羽がはえている)などに時代を感じさせるが、人物の描写を見ると
「これが才能か」
とため息をつかずにはおれない。
しかし、ジョルジョ・ヴァザーリはかの有名な「芸術家列伝」の中で
と書いている。
これを読むと、自分の絵を見る目が急に頼りないものに感じられてくる。若い頃の絵は、確かに師匠のペルジーノ風ではあるが、ヴァザーリが言うほど劣るものだとはとうてい思われない。
「大公の聖母」。
もうほとんど奇蹟のような作品。
そうとしか言いようがない。
「エゼキエルの幻視」
X型の完璧な構図。しかし、作り物めいた感じはいっさい無い。
最後に、これはラファエロ本人の作品ではないが、彼の聖母像(通称「美しき女庭師」)を、陶の立体に仕立てた作があって、思わず微笑してしまった。
原作はルーブルの至宝であり(もっとも、あの美術館はご存じの通り至宝だらけだが)、もちろん今回の展覧会には出品されていない。ただ、平面を立体化してみたくなる欲望は、今のフィギュア好きのオタクも、昔の人も変わらないのだなあと妙に感心してしまったのだった。
それにしても、ちょっと前までは、ラファエロ級の美術家であれば、せいぜい真筆が1点来日すれば良い方で、あとはよく知らない画家の絵をかき集めて「ラファエロとその時代」展とするのが一般的だったと思う。
これほど多くのラファエロの作品がまとめて見られるとは夢のような話だ。
そして、「アテネの学堂」など、壁画などであるため絶対に日本に来ることのない代表作の数々を、イタリアに行って見たいという欲求が、これまでになく高まってくるのであった。
2013年3月2日~6月2日
国立西洋美術館(東京都台東区上野公園)
・JR上野駅「公園口」から約170メートル、徒歩3分
・東京メトロ(銀座線、日比谷線)上野駅から約430メートル、徒歩6分
・京成電鉄上野駅から約500メートル、徒歩7分
「■生息と制作-北海道に於けるアーティスト、表現・身体・生活から(続き) 2013Mar.東京(13) ~4月10日」および「■生息と制作展を機に、あらためて考えた「東京と北海道」」以来、先日の東京行きに関するひさびさのエントリ。
このままだと、書かないまま放置してしまうという悪癖が再発してしまいそうだし、ブログ「散歩日記X」のSHさんに「楽しみにしています」と言われて、ほうっておくわけにもいかない。
ラファエロについては、次の一言だけでもう十分ではないかという気もする。
ラファエロは、西洋美術界のモーツァルトである。
37歳で死んだところも、作品がいずれも幸福そうなところも似ている。
美術史も音楽史も、そこでひとつの頂点に達して、あとは、純粋さを失って一種のマニエリスムになってしまうところも。
しかし、これで終わってしまってはあんまりなので、最近読んだ中から、もっとも彼の魅力を要約して伝えていると筆者が思った言葉を引用しておこう。
ラファエロの聖母の安っぽい複製画は、そこらへんの粗末な住居にも飾られている。だから私たちは、こんなに一般受けする絵はきっと「わかりやすい」絵にちがないと考えてしまう。ところが、実際は、一見単純に見える聖母の絵も、深い思索と慎重な構想と計り知れない芸術的知恵の賜物なのだ。
(中略)
この絵をそれ以前に同じ主題で描かれた無数の絵と比べてみると、以前の絵のすべてが、ラファエロの達成したこの明快な美しさを求めつづけてきたのだという感じがする。
(ゴンブリッチ「美術の物語」)
わたしたちがラファエロの複製を見ると、往々にして「普通の写実的な絵だな」という感じを抱く。
しかし、それはラファエロのせいではなく、後世の画家が彼を模範としたため、彼の絵がさして個性的なものと感じられなくなってしまったのだ。
「わずか37歳の生涯とは思えないほど多くの作品を残し、しかもそのほとんどが後世の規範となるほどの高水準にありました。(中略)数世紀にわたって美のカノンであり続けました」(池上英洋「ルネサンス 歴史と芸術の物語」228ページ。光文社新書)
すなわち「ラファエロに陳腐はない」(ドラクロワ)。
写実的な絵は現代に至るまで数多く描かれてきたが、ラファエロを含む盛期ルネサンスの以前には、ラファエロの水準に達している絵はほとんど存在しない。
もちろん、そこに至るまでには、ファン・エイク兄弟およびジォット、マサッジョからの長い積み重ねがあった。
そしてラファエロも、おなじく盛期ルネサンスの3大天才と並び称されるレオナルド・ダビンチやミケランジェロから良いところを取り入れようと懸命に学んだ(今回の出品作でいえば、例えば「無口な女(ラ・ムータ)」はレオナルドの影響が顕著である)。
しかし、自らの絵画を追究するあまり完成作がわずかしかないレオナルドや、政治をめぐってメディチ家とけんかするミケランジェロに比べると、ラファエロの人当たりの良さは対照的である。
ラファエロの真の偉大さは、理想と現実がきわめて高いところで一致しているところにあるのではないかと思う。
中世の西洋美術は、イエスや聖人らを描く際、理想的に表現しようとした結果、現実離れした硬い人物像になってしまったきらいがある。
ところが、ラファエロの描く聖母像は、いかにも実在の人物らしい。近所に住んでいそうな感じすら漂う。
では「俗っぽい」かというと、そういう要素はみじんもない。ラファエロは、あくまで理想化された聖母を描いているのだ。
わたしたちは、人間の心の奥をとらえたようなアンソールやゴヤのような絵にも、理想を結晶化したようなピエロ・デロ・フランチェスカのような絵にも、それぞれ心ひかれる。そして、その両者の側面を統合した人物像を完成させたラファエロに対しては、やはり敬意を抱かざるを得ないのだ。
「ラファエッロを欠いたイタリアは、永遠の寡婦だ」(H.フォション)
個々の作品について少し書く。
「父なる神、聖母マリア」はわずか17、18歳のときの作。
古い描法の天使(頭に直接羽がはえている)などに時代を感じさせるが、人物の描写を見ると
「これが才能か」
とため息をつかずにはおれない。
しかし、ジョルジョ・ヴァザーリはかの有名な「芸術家列伝」の中で
その新しい画風は初期の画風とまったく異なっており、彼がその初期の画風へ復帰することはついになかった。初期の画風は、異なる人の手になるものと思われるほど、後期の画風に比べて見劣りがしたのである。
(白水社 uブックス(2)62ページ)
と書いている。
これを読むと、自分の絵を見る目が急に頼りないものに感じられてくる。若い頃の絵は、確かに師匠のペルジーノ風ではあるが、ヴァザーリが言うほど劣るものだとはとうてい思われない。
「大公の聖母」。
もうほとんど奇蹟のような作品。
そうとしか言いようがない。
「エゼキエルの幻視」
X型の完璧な構図。しかし、作り物めいた感じはいっさい無い。
最後に、これはラファエロ本人の作品ではないが、彼の聖母像(通称「美しき女庭師」)を、陶の立体に仕立てた作があって、思わず微笑してしまった。
原作はルーブルの至宝であり(もっとも、あの美術館はご存じの通り至宝だらけだが)、もちろん今回の展覧会には出品されていない。ただ、平面を立体化してみたくなる欲望は、今のフィギュア好きのオタクも、昔の人も変わらないのだなあと妙に感心してしまったのだった。
それにしても、ちょっと前までは、ラファエロ級の美術家であれば、せいぜい真筆が1点来日すれば良い方で、あとはよく知らない画家の絵をかき集めて「ラファエロとその時代」展とするのが一般的だったと思う。
これほど多くのラファエロの作品がまとめて見られるとは夢のような話だ。
そして、「アテネの学堂」など、壁画などであるため絶対に日本に来ることのない代表作の数々を、イタリアに行って見たいという欲求が、これまでになく高まってくるのであった。
2013年3月2日~6月2日
国立西洋美術館(東京都台東区上野公園)
・JR上野駅「公園口」から約170メートル、徒歩3分
・東京メトロ(銀座線、日比谷線)上野駅から約430メートル、徒歩6分
・京成電鉄上野駅から約500メートル、徒歩7分
この間、深夜まで会社で待機していたのですが、
ラファエロの良さが分からないという隣の席の人とこれに近い話をしていました。
↓
)後世の画家が彼を模範としたため、彼の絵がさして個性的なものと感じられなくなってしまった
私たち、とてもハイブローかも。
私自身も彼に「どこがどうってわけじゃないんだけど、非の打ちどころが無いんだよね」と説明してしまい、もう少し絵画の流れを分からないと、と思った次第です。
会社の人とラファエロの話をするということにちょっと驚きました。
ここに書いたことは、あくまでもヤナイの考えです。
ただ、あまりにポピュラーになってしまったので、新鮮味が感じられないという面はあるんじゃないかと思いました。