最初のエントリは訃報です。
日本を代表する女優、高峰秀子さんが昨年暮れに亡くなっていた。函館出身だった。
「二十四の瞳」もさることながら、個人的には1941年(だったと思う)の「馬」が印象深い。
東北の大自然の中で生きる少女と馬の心の通いあいが描かれていて、軍国主義的なところはまったくない作品だった。
(いくら筆者が老人だからとはいえ、リアルタイムで見たわけではもちろんありません)
ところで、このブログで彼女のことをとりあげるのは、彼女は女優引退後、エッセイストとしても活躍しており、その代表作のひとつに
「私の梅原龍三郎」
という一冊があるためである。
日本の近代洋画を代表する大御所との、最晩年にいたる30年以上の交友をつづっている。
あたたかい筆致ながら、ここまで梅原の素顔を明らかにした文章というのも、ほかにないのではないかと思われる。
彼女は何度か梅原の絵のモデルになっている。
最初の肖像画(1950年)は、東京の国立近代美術館に寄贈されたという。
もう一度、文春文庫「私の梅原龍三郎」を手にして、しみじみする。
解説の川本三郎さんの文章もすばらしい。
彼女は、かの「五社協定」の以前からフリーだったという。集団圧力の強い日本社会において、これは、並大抵のことではない。
子役のころから映画界にいて、しかし、ここまで透徹した精神を持っていたひとりの女性。それを、彼女の端倪すべからざる文章に感じるのである。
ご冥福をお祈りいたします。
女優の高峰秀子さんが死去 「二十四の瞳」に主演(共同通信) - goo ニュース
以下、共同通信から。
日本を代表する女優、高峰秀子さんが昨年暮れに亡くなっていた。函館出身だった。
「二十四の瞳」もさることながら、個人的には1941年(だったと思う)の「馬」が印象深い。
東北の大自然の中で生きる少女と馬の心の通いあいが描かれていて、軍国主義的なところはまったくない作品だった。
(いくら筆者が老人だからとはいえ、リアルタイムで見たわけではもちろんありません)
ところで、このブログで彼女のことをとりあげるのは、彼女は女優引退後、エッセイストとしても活躍しており、その代表作のひとつに
「私の梅原龍三郎」
という一冊があるためである。
日本の近代洋画を代表する大御所との、最晩年にいたる30年以上の交友をつづっている。
あたたかい筆致ながら、ここまで梅原の素顔を明らかにした文章というのも、ほかにないのではないかと思われる。
彼女は何度か梅原の絵のモデルになっている。
最初の肖像画(1950年)は、東京の国立近代美術館に寄贈されたという。
もう一度、文春文庫「私の梅原龍三郎」を手にして、しみじみする。
解説の川本三郎さんの文章もすばらしい。
彼女は、かの「五社協定」の以前からフリーだったという。集団圧力の強い日本社会において、これは、並大抵のことではない。
子役のころから映画界にいて、しかし、ここまで透徹した精神を持っていたひとりの女性。それを、彼女の端倪すべからざる文章に感じるのである。
ご冥福をお祈りいたします。
女優の高峰秀子さんが死去 「二十四の瞳」に主演(共同通信) - goo ニュース
以下、共同通信から。
日本映画を代表する女優で、「二十四の瞳」などに主演した高峰秀子(本名松山秀子)さんが28日午前5時28分、肺がんのため、東京都渋谷区の病院で死去したことが31日分かった。86歳。函館市出身。葬儀・告別式は29日近親者で済ませた。喪主は夫の映画監督松山善三氏。
1929(昭和4)年、子役で映画デビュー。「綴方教室」の少女役で人気を集め、戦後は青春スターや演技派女優として、日本映画黄金期の作品に数多く出演した。
代表作は瀬戸内海の小豆島を舞台にした木下恵介監督「二十四の瞳」、成瀬巳喜男監督「浮雲」のほか、「カルメン故郷に帰る」「喜びも悲しみも幾歳月」など。