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遠軽町郷土館と北ノ王鉱山 オホーツク小さな旅(72)

2013年06月12日 22時37分39秒 | つれづれ日録
(承前)

 5月29日の遠軽行きの続き。

 瞰望がんぼう岩から降りてくると、遠軽町郷土館の開館時間になっていたので、入ってみた。



 入口で入場券を売っていた老人が、逐一説明してくれる。
 この種の施設は、道内どこに行ってもあり、たいてい、写真パネルや馬そり、昔の農具、古い民家の一角の復元などで構成されている。
 10年ないし20年は内容の更新がなされていないことも、多くの場合は共通している。
 彼の説明によると、昭和30年(1955年)ぐらいに寄せられたものが多いという。ちょうどその頃、家を建て替えて、古いものがいらなくなった人が多かったというのだ。

 そういえば昭和29年に洞爺丸颱風たいふうが道内を襲って、多数の死者を出すとともに、風倒木が大量に発生して道内の林業を大きく変えた。
 もうひとつ、この時期は意外な転換点に当たっている話を、説明の老人から聞いたのだが、忘れてしまった。もったいないことをした。農機具の機械化、電動化だっただろうか。
 やはりブログは早く書くべきだ。

 農機具の電気化でいえば、千刃こきは今でも使われている場面があると、説明の方から聞いた。
 もみの残留放射性物質を計測する際などがそうで、確かに、大量の稲を処理しても意味がない。


 話の順番が前後するが、遠軽町の歴史を、この資料館ではじめて知った。
 遠軽に和人が組織的に入植したのは明治30年。
 キリスト教関係者が私立大学の開設を夢見て、この地を切り開いたのが遠軽のはじめだというのだ。仙台の日本基督教会、東北学院の創始者である押川方義氏や東北学院神学部出身の信太寿之氏などにより創立された北海道同志教育会の移民団が入植した。
 大学は設立できず、度重なる洪水などで離農した者も多かったが、大正期に入ると留岡幸助が北海道家庭学校を創設するため農場を開いた。

 説明の方によれば、洪水や大火でやられた遠軽を救ったのは、ハッカ景気と林業の好調であったらしい。
 オホーツク地方のハッカは戦前、世界市場を席捲した。相場で大もうけした人もいた。

 北海道には、遠軽のとなりの湧別町上湧別や札幌のように屯田兵が切り開いた土地と、この遠軽や帯広のように民間人が主体となって開拓した土地とがある。ちなみに、北見は、屯田兵と民間(北光社。高知県人が主体)の両方が入っている。
 この違いが、マチの気風の差につながっているという見方もあり、研究してみれば面白いかもしれない。


 この郷土館は2階もある。
 旧日本軍の服装や用具を展示しているのがわりと珍しい。
 ワープロや、国鉄に関連したものなど、かなり新しいものも並んでいる。
 戦前の遠軽市街図の復刻を見て、説明の方が「今より店が多い」などと自虐的なギャグを飛ばしていた。

 この老人の説明は、途中でほかの来客があったために終わってしまうのだが、総じて面白かった。
 若い人が、解説文を丸暗記して、こちらの意図とは無関係に押し付けてくる説明なら閉口してしまうが、やはり昔を実地に知っている人の話は味わいがある。


 ところで、資料館では

地下資源の宝庫「いくたはら」
『北の王の栄枯盛衰』展~金の採掘にかけた歴史~


という特別展を6月16日まで開催している。
 あいたスペースに当時の写真などを並べているだけで、それほど大掛かりなものではない。
 しかし、戦前戦中に金鉱山が生田原にあったとは興味深い。そういえば、いまでも「金山通」というバス停があるなあ。

 生田原駅前にノースキングというなかなか良い温泉ホテルがあるが、名前はこの鉱山に由来するそうだ。


 いまは金の価格が高騰しているので、ふたたび掘れば金が出るんじゃないかと云う話をしたら、説明の方は、身振り手振りをまじえて、こんなに大きな塊からわずかしか取れないのだから難しいですよ、と話しておられた。

 
 というわけで、入場料150円で、かなり楽しめる施設であった。




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