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■本田明二展 (1月16日まで)

2010年12月02日 23時53分54秒 | 展覧会の紹介-彫刻、立体
 今回の展覧会に際して、北海道新聞2010年10月9日の旭川版に、ちょっとびっくりするようなことが書いてある。

 作品の多くは、札幌に住む長女の近藤泉さんが運営する本田明二ギャラリー(中央区南15西13)に収蔵されているが、「父のアトリエも古くなり、作品の保管に限界があるし、多くの人に見てもらいたい」(近藤さん)と寄贈を決めた。

 ううむ。
 本田明二ギャラリーを閉めちゃう、ということなのだろうか。
 記事からはよくわからない。
 そういうことをほのめかす解説パネルなども、館内にはなかったが。

 このブログをお読みの方は、ご存じの向きも多いだろうけど、本田明二は戦後の道内を代表する彫刻家である。
 彼と同じく、新制作協会や全道展を舞台に活躍した北海道出身の具象彫刻家に、本郷新、佐藤忠良、山内壮夫がいるが、彼らが東京を拠点に活動していたのに対し、本田は札幌にとどまって活動を続けた。そして、本郷らが、北海道銀行本店の巨大レリーフを手がける際などには協力を惜しまなかった。
 館内で流れていたビデオでも、本郷の制作を手伝う本田の姿が写っている。

 本田の作品には、「馬頭」のように具象的なものから、「けものを背負うノチクサ」など人物のフォルムをかなり簡略化したものまで、表現に振幅がある。
 とりわけ興味深いのは「えものを背負う男」「けものを背負うノチクサ」といった一連の作品。これは、実際の光景から着想を得たのではなく、蠣崎波響かきざき は きょうの「夷酋列像しゅう い れつぞう」の一部分からひらめいたらしい。
 逆三角形のシンプルなかたちが、像に安定感を与えていることは言うまでもない。だんだんと再制作を重ねるごとに、余計なものをそぎ落としていくプロセスは、発想の元であるアイヌ民族とか江戸期の絵だとか、そういう要素を超えて、人間の実像そのものに迫っていく過程でもあるのだと思う。

 旭川市民にとって本田明二は、なんといっても、スタルヒン球場の前に立つスタルヒン像の作者である。
 この展覧会にも、マウンド上で振りかぶる大投手の像が出品されている。

 スタルヒンは、ロシア革命を逃れて亡命してきたロシア人で、旭川の中学(旧制)に学んだ。戦前のジャイアンツでは、沢村栄治と並ぶエースであった。
 沢村は戦死したが、スタルヒンは「須田博」という名で戦中戦後も投げ続けて球団を渡り歩き、プロ野球初の300勝投手となった。これは今も史上5位である。シーズン42勝というとんでもない記録(稲尾がのちにタイ記録)もある。戦中は試合数が少なく、もし平和時だったら、通算の勝ち星ももっと多かったかもしれない。

 馬のシリーズは、本物そっくりのようでいて、実はかなりフォルムをすっきりとさせている。
 作者の馬に寄せるあたたかいまなざしを感じるなあ。
 

 出品作は次のとおり。
けものを背負うノチクサ(1981、木)
馬頭(1972、ブロンズ)
牛(1951、木)
無題(1956ころ、木)
母と子(制作年不詳、1956年以前、木)
漁夫(制作年不詳、テラコッタ)
北洋の男I(1970、木)
スタルヒン像(1979ころ、樹脂)
仔馬I(1978、樹脂)
仔馬(1973ころ、木)
馬(1971、木)
えものを背負うノチクサ(1980、ブロンズ)
夷酋ノチクサ(1980、ブロンズ)
ノチクサ(1979ころ、鉛筆)
えものを背負う男(1980ころ、樹脂)
道標(1986、エッチング)
えものを背負う男(1980ころ、木)
髪の抜けた自画像(1988、鉛筆)
マント(1985ころ、ペン)
マント・風(1985、木)
うずくまる裸婦(1979、木)
馬と少年(1979ころ、テラコッタ)

 
2010年10月9日(土)~2011年1月16日(日)9:00~5:00(入館~4:30)
月曜休み(祝日は開館し翌火曜休み)、12月30日~1月4日休み
中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館(旭川市春光5の7)




・旭川電気軌道バス「春光園前」降車すぐ

□本田明二ギャラリー http://www.nordvento.co.jp/

関係する記事・野外彫刻紹介
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本田明二「母子像」(札幌)
本田明二「碧空(あおぞら)へ」 (美幌)
「朝翔」 (網走)

展覧会紹介
札幌第二中学の絆展 本郷新・山内壮夫・佐藤忠良・本田明二 (2009年6月)
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