北海道美術ネット別館

アート、写真、書など展覧会の情報や紹介、批評、日記etc。毎日更新しています

浮世絵美人画の魅力 国貞・国芳・英泉 (4)

2006年03月07日 00時03分28秒 | 展覧会の紹介-絵画、版画、イラスト
 江戸時間旅行のつづき。この絵は歌川国貞「江戸八景 木母寺(もくぼじ)暮雪」です。この寺は、今回の展覧会では、おなじ作者の「江戸名所百人美女」にも登場するほか、広重の「江戸名所百景」にも描かれており、有名だったようです。墨田区堤通2丁目に現存しています。
 例の「江戸名所図会」によると

 中にも阿弥陀如来の像は聖徳太子の作なりと云ひ伝ふ。
 
とありますが、ほんとだったらすごいな。
 ついでに「木母寺」とある扁額は本阿弥光悦の筆だそうです。

 しかし、この寺が有名だったのは、それが理由ではなく、謡曲などの舞台になっていたためのようです。
 どういう物語かというと…。
 京都北白川の公卿の子梅若丸は、七歳のとき比叡山で勉強していましたが、その才をねたんだ級友からけんかをふっかけられ、逃げて帰る途中、大津で悪い陸奥の商人にさらわれ、隅田川まで連れてこられて病死したそうです。辞世の歌:

 尋ねきてとはヾこたへよ都鳥すみだ河原の露と消えぬと

 ときに貞元元年三月十五日。
 これをあわれんだ偉い坊さんが弔って築いた塚が、梅若塚で、いまも木母寺の境内にあるらしいです。
 ちょうどその1年後、子のゆくえを訪ねてさまよい歩いていた梅若の母親が、人の集まっているのを見て、わが子の塚で人々が供養していることを知り悲嘆にくれ、念仏をとなえて鐘が池(隅田川の対岸)に身を投じてしまった…。
  
 かなしい物語ですね。
 もっとも、寺の縁起によると、母親はこの地に草庵を結んで、子を弔ったということです。
 広重の「江戸名所百景」を解説した本「広重の大江戸名所百景散歩」によると

 木母寺の辺りは風光明媚で、浅草寺を参詣した後、舟に乗って都鳥の古歌を偲びつつ隅田川を遡り、梅若塚を訪ねるという遊覧コースが評判であった。梅若が死んだ3月15日には供養の大念仏が唱えられ、多くの人が舟や徒歩で押しかけた。

 江戸時代にはけっこうレジャーもさかんだったんですね。
 ちなみに、近くには「梅若小学校」があります。

 ほかに風景が登場する絵の連作としては「御好芸者五行の内」があります。このうち、「池の端 水」は、筆者がじっさいに知っている不忍池(しのばずのいけ)が出てくるので親しみがわきますね。
 ただ、いちばん最初にこの池を見たときには、
「どうして東京の真ん中にサトイモ畑があるんだろう」
と思いました。
 サトイモじゃなくて蓮なんだけど。
 例によって「江戸名所図会」を引用します。

 江州琵琶湖に比す。(不忍とは忍の岡に対しての名なり。)広さ方十丁許(ばか)り、池水(ちすゐ)深うして旱魃にも涸るることなし。殊に蓮多く、花の頃は紅白咲き乱れ、天女の宮居はさながら蓮の上に湧出するが如く、その芬芳(ふんはう)遠近の人の袂を襲ふ。

 ほかには、「江戸自慢」のシリーズとして「五百羅漢施餓鬼」「山王御祭礼」「花屋敷の七草」の3点があります。
 「江戸名所図会」には、五百羅漢の名前が全部書いてあります。引用しないけど(笑い)。この羅漢寺は、都営新宿線西大島駅のすぐそばにあったそうです。
 三階建ての高楼が建っていて、中は巨体の観音像があり、螺旋階段になっていたそうです。
 いまも現地には羅漢寺がありますが、ちがう寺です。

 藍摺り絵の技法で刷られた「元柳橋 雪の光景」も渋いですね。

 この項目はまだ続きます。

 過去の記事へのリンクです。

 ■(1)
 ■(2)
 ■(3) 
 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。