(承前)
「大雪アリーナ」のとなりにある建物が「大雪クリスタルパーク」です。
博物館、音楽堂、国際会議場の三つを備えた施設だそうです。
そのロビーに、背の高い木彫がそびえ立っていました。
上川管内音威子府村咲来にアトリエを構えている森川亮輔さんの作品です。
下の方に画像をあげておきましたが、銘板には次のような説明がついていました。
以上の文にあるように、2008年の旭川彫刻フェスタの際、公開制作されたものです。
公開制作の場所は、中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館の前にある春光園でした。
当時の北海道新聞(2008年8月1日夕刊旭川面)に、公開制作中の森川さんに聞いた話が次のように紹介されています。
森川亮輔さんは1947年、東京都生まれ。
71年に東京教育大(現在の筑波大)芸術学科彫塑科を卒業。
99年に釧路管内弟子屈町に移り、さらに2001年から音威子府を拠点としています。
音威子府といえば砂澤ビッキですが、移転した当時彼はすでに亡くなっていました。直接的な影響関係というよりも、自然の木が持つ圧倒的な存在感を前面に出した作風は、どこか通底するものがあるといえるかもしれません。
ゼロ年代に札幌で開かれていた「北海道立体造形展」には出品していましたが、その後のハルカヤマ藝術要塞などには参加していません。
2013年に中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館で個展を開くなど、道北方面が発表の中心となっているようなので、札幌ではあまりなじみがないという人もいるかもしれませんが、木彫分野では道内を代表する存在のひとりといってよいのではないでしょうか。
筆者が行ったとき、大雪クリスタルホールのロビーには3点の彫刻がありました。
順次、紹介します。
過去の関連記事へのリンク
【告知】森川亮輔展 station field ―森の鼓動― (2013)
■森川亮輔彫刻展「mail vol.6」 (2006年、画像なし)
■北海道立体表現展'03 (画像なし)
「大雪アリーナ」のとなりにある建物が「大雪クリスタルパーク」です。
博物館、音楽堂、国際会議場の三つを備えた施設だそうです。
そのロビーに、背の高い木彫がそびえ立っていました。
上川管内音威子府村咲来にアトリエを構えている森川亮輔さんの作品です。
下の方に画像をあげておきましたが、銘板には次のような説明がついていました。
枝や瘤など個性ある、道東・津別産クルミ材(樹齢約180年)を十数年前に入手、旭川彫刻フェスタ'08を迎え、ようやく彫ることを決意、難しく興味深い材でした。
チェーンソーと鑿を使って少しずつ彫り進め、原型の特徴を残した「量塊」と「間」をモチーフにしました。
木の姿を通して様々な「時」を想像していただけたら幸いです。
(ルビは筆者が補いました)
以上の文にあるように、2008年の旭川彫刻フェスタの際、公開制作されたものです。
公開制作の場所は、中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館の前にある春光園でした。
当時の北海道新聞(2008年8月1日夕刊旭川面)に、公開制作中の森川さんに聞いた話が次のように紹介されています。
「高さ四・三五メートル、直径六十五センチの道産クルミ材は現在、横にして作業しているが、七日には垂直に立てて仕上げに入る。
(中略)
「ごう慢になったり、逆に遠慮しすぎて、材の動きをつかみきれなかった」と壁にぶつかったこともあったが「三日前、チェーンソーで大胆に切り込んで方向が見えてきた」という。
森川亮輔さんは1947年、東京都生まれ。
71年に東京教育大(現在の筑波大)芸術学科彫塑科を卒業。
99年に釧路管内弟子屈町に移り、さらに2001年から音威子府を拠点としています。
音威子府といえば砂澤ビッキですが、移転した当時彼はすでに亡くなっていました。直接的な影響関係というよりも、自然の木が持つ圧倒的な存在感を前面に出した作風は、どこか通底するものがあるといえるかもしれません。
ゼロ年代に札幌で開かれていた「北海道立体造形展」には出品していましたが、その後のハルカヤマ藝術要塞などには参加していません。
2013年に中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館で個展を開くなど、道北方面が発表の中心となっているようなので、札幌ではあまりなじみがないという人もいるかもしれませんが、木彫分野では道内を代表する存在のひとりといってよいのではないでしょうか。
筆者が行ったとき、大雪クリスタルホールのロビーには3点の彫刻がありました。
順次、紹介します。
過去の関連記事へのリンク
【告知】森川亮輔展 station field ―森の鼓動― (2013)
■森川亮輔彫刻展「mail vol.6」 (2006年、画像なし)
■北海道立体表現展'03 (画像なし)
(この項続く)