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専門学校札幌ビジュアルアーツ写真科卒業展

2006年03月04日 16時43分39秒 | 展覧会の紹介-写真
 この学校については、2003年の北海道フォトコンベンションで初めて学生の作品を見て、札幌の各大学写真部とまったく遜色ない(焼きの技術などはむしろうまい)水準の写真におどろいた記憶があります(まあ、写真の勉強をしてるんだから、下手では困るんだけど)。そのときは、すべてモノクロの風景写真でしたが、今回は、写真作家専攻、コマーシャル・ファッションフォト専攻、スポーツ・ドキュメンタリーフォト専攻、ネイチャー・風景フォト専攻の4専攻の学生20人が2年間学んだ集大成だそうです。
 このうち、卵や、水につかった野菜の写真は、広告試作とあって、撮った人の個性をどうこう言うタイプの写真ではありませんが、露出や背景処理などに細心の注意が払われており、感心させられました。

 しかし、圧巻だったのは、鑓水雄介さん「妄想族」と、池田紗耶さん「sa-ya」でした。
 「妄想族」は、コンストラクテッド・フォトの一種といえそうですが、室内でギターを弾いたり、食事をしたり、裸でテレビにまたがったりしている若い男性(作者自身?)が主人公の8枚組みカラーです。目を引くのは、彼を被写体にした大小のモノクロ写真が壁、床、天井にびっしりと貼りつくされていることです(なんと、低いテーブルの上も写真に覆われています)。
 うまく言えないのですが、若者らしい自意識過剰、焦燥感のようなものが表現された力作だと思います。
 このなんともいえない閉塞感は、どこかで見覚えがあるなと思っていたら、神田日勝「室内風景」と共通感があるのでした。あっちは、写真じゃなくて新聞紙だったけど。
 もうひとつのちがいは、室内にある物でしょうか。「妄想族」は、テレビやミニコンポ、コミックス、ギターなど、カタカナのものが多いようです。

 「sa-ya」は、16枚組みのカラーで、白いシンプルなワンピースを着たはだしの少女(作者自身か)が、豊平川の河川敷や、古い物置、空き地、札幌駅、コインロッカーの前、海辺、創生川下の地下道などのさまざまな場所で、立ちつくしていたり、ひざを抱えてすわりこんでいたりしているようすをとらえたものです。
 被写体の服装(はだしであることを含め)に統一感があります。その一方で、フィルターワークなのか、フォトレタッチソフトで修整したのかどうかわかりませんが、16枚それぞれ主調の色が異なっており、とても完成度の高い作品になっていると思います。ミュージッククリップのようなおしゃれさと同時に、青春の痛切さみたいなものをあわせもっているのです。寄った写真がなく、少女の表情がわからないことも、むしろ、謎めいた雰囲気を出すのに成功していると思いました。
 池田さんは、会場に置かれたファイルに収められた写真も、壊れそうな自我をさらしていて見ごたえがあります。なかでも、灰色の大きな棚に、手首を縛られた制服姿の少女たちが並んでいる写真は、衝撃でした(おなじようなコンセプトの油絵は見たことがあるが、写真でやられると、びっくりする)。
 展示作以外にファイルを出していたのは、池田さんと鑓水さんだけです。量と質は比例しているのかもしれません。

 ほかに、上城英俊さん「家という存在」も個人的には好き。
 佐藤ゆかりさん「日常」も、ハワイにまで行っていかにもハワイという写真を撮らず、道路工事とかバスとかそんなのばかり撮っているあたりに好感を抱きました。
 

2月28日-3月5日
札幌市写真ライブラリー(中央区北2東4、サッポロファクトリー・レンガ館3階 地図G

□専門学校札幌ビジュアルアーツ


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2 コメント

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あ、24人でしたか。すいません (ねむいヤナイ@北海道美術ネット)
2006-03-05 00:15:52
 やはり、13・14番でしたよ。

 鑓水さんは、ファイルのほうでは、わりとあけっぴろげな「青春写真」を撮っていたので、「妄想族」の閉鎖性は、まあ一種のポーズではないかと感じましたね。でも、そのポーズというか気取りも、若さの表現ですからね。肯定したい。

 それから、池田さんの作品は、もっと見たいですね。わたしも、けっして絶望してるだけではないと思うんですよ。あれだけ、作品をきっちり仕上げているんですから。投げやりじゃできないことでしょう。



 
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Unknown (T.nakamura)
2006-03-04 23:30:26
私も4日(土)の午前中見てきました。



01.奥山来美『花』

02.山崎真似『カゴメジュース』

03.江口登司郎『卵』

04.藤田和馬『コカ・コーラ』

05.田中ふさ子『キムチ』

06.大村麻衣『化粧品』

07.新井啓太『北海高校全国大会への道』

08.山田将一郎『The Best』

09.上城英俊『家という存在』

10.斉藤肇『駅前通り』

11.大畑和樹『雪の降る町』

12.橋本政弥『フリーダム』

13.鑓水雄介『妄想族』

14.池田沙耶『sa-ya』

15.佐藤友香『イロ』

16.小林夏希『Cards』

17.高井さやか『SWAN SONG』

18.成田竜一『羽幌炭鉱』

19.小屋美保子『誰かが目覚める頃』

20.齋藤夏穂『Remember』

21.佐藤さゆり『日常』

22.石川裕美『陽のある場所』

23.紺屋絵梨『大きな幸せと小さな不安』

24.東方美樹『rebellious spirit』



やはり、13番・14番ですか。



残念ながら、そのひとりの、池田沙耶には今回も会えなかった。この人の存在をはじめて知ったのは、2004年12月の「フォトマ」である。その時に出品していた彼女のアルバムを偶然のぞいて、途轍もなく、衝撃を受けましたね。その2004年の包帯少女*眼帯少女のモノクローム作品はとても痛々しい表現世界でした。私は本当はよく知らないのですが、彼女の世代が切実にシンクロする「岡崎京子的世界」に転結しているのかも知れない。多分、眼には見えない現在の世界に対する途轍もなく深い絶望感に対してどのように向き合って生きていかなければならないのかという問題意識が彼女たちの意識には共通の意識としてしっかりと根づいている気がする。それは能動的ニヒリズムの進化した(深化した)形であるとも思う。それは未解決のまま現在進行形の自意識として存在する。



鑓水雄介『妄想族』との決定的な違いは、彼女らが世界との絶望的な関係性を決して投げ捨ててないという点に見出される。意外に、鑓水雄介たちの方がその世界との絶望的な関係性を括弧に括っているというか、あるいは、脇においている、避けている。その意味で、彼女らよりも、彼らの方が、内向している、自閉している、精神的に。精神的自閉的空間に閉じこもり、その内部で妄想を増殖するという方向性に向かいがちである。その点で、彼女らは逆に世界に向かって絶望的なプロジェクションを試みる。それは痛々しいという感慨を生む。そんな微細な差異が両者の間には存在するような気がする。



それは佐藤友香『イロ』に表現されている能動的なエロティシズムによっても裏書される。彼女らはいわゆる「男の視線」を仮のポジションとして設定し、そこから女性のからだを被写体として切り取るというプロセスをあえて模倣する。そのことで、その仮の男性的ポジションそのものの危うさを内在的に曝露する。



受動的攻撃性というものを彼女らは生得的な力(方法的感受性)として用いる。それに対して、彼らの方は、何時の間にか、攻撃的受動性へと向かう。



女性の写真表現の根源力(根原的可能性)ということが問題になる。それはすでに写真作品にきっちりと現われている。写真の現在の可能性を女性的感応性(官能性)に見出すしかないのかな、それが問いであるのだが。



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