オホーツク管内湧別町には、ブログ「かけらを集める(仮)。」の言い回しで「顕彰系おっさん肖像彫刻」とでもいうべき彫像が、まだ4点あるので紹介していきます。
正直言って、造形的にそれほどおもしろい作品ではないのですが、おつきあいください。
湧別町は2009年、旧上湧別町と旧湧別町が合併して誕生しました。
この顕彰碑は、旧湧別町役場の前庭に建っています。
大口丑定は、戦後初の公選村長で、旧湧別町の名誉町民第1号です。
手前左に球体が配置され、碑の左下に碑文が、右上に肖像レリーフという構成になっています。
左上には「顕彰」と横書きで書かれ、レリーフの下に「大口丑定翁像」と刻まれています。
肖像は、背広姿で、体を少し右に向けて、顔を正面に向けた禿頭の男性の上半身が刻まれています。
レリーフの作者については分かっていません。
この顕彰碑そのものについては、北海道デジタル彫刻美術館を含め、ネット上で紹介しているものはないようです。
大口丑定の略歴については、湧別の方が「芭露郷土史」の記述をアップしていますので、それを引用します。芭露は、湧別の中では東側の地区で、サロマ湖に面している側では漁業、陸側では酪農が行われ、戦前戦後はハッカ栽培でも栄えました。
碑文は「湧別町史」に引用されています。
ルビは筆者が加え、洋数字は反角にしました(町史は縦書きなので漢数字で書かれています)。
また、新旧の漢字が混在(經営、團体など)していますが、新字(戦後の字体)に統一しています。
さらに、原文でははじめのほうに「村議会議員」とありますが、これは誤記と思われるので、湧別町史の表記に合わせました。
「荊棘の途」は「いばらの道」の意味。戦前の碑文よりは易しく、文字の判読も容易ですが、ときどき難しい語がまじっています。
正直言って、造形的にそれほどおもしろい作品ではないのですが、おつきあいください。
湧別町は2009年、旧上湧別町と旧湧別町が合併して誕生しました。
この顕彰碑は、旧湧別町役場の前庭に建っています。
大口丑定は、戦後初の公選村長で、旧湧別町の名誉町民第1号です。
手前左に球体が配置され、碑の左下に碑文が、右上に肖像レリーフという構成になっています。
左上には「顕彰」と横書きで書かれ、レリーフの下に「大口丑定翁像」と刻まれています。
肖像は、背広姿で、体を少し右に向けて、顔を正面に向けた禿頭の男性の上半身が刻まれています。
レリーフの作者については分かっていません。
この顕彰碑そのものについては、北海道デジタル彫刻美術館を含め、ネット上で紹介しているものはないようです。
大口丑定の略歴については、湧別の方が「芭露郷土史」の記述をアップしていますので、それを引用します。芭露は、湧別の中では東側の地区で、サロマ湖に面している側では漁業、陸側では酪農が行われ、戦前戦後はハッカ栽培でも栄えました。
1957年(昭32)開町60周年記念式典の席上、初の公選による村長を務めた大口丑定に名誉町民の称号が贈られた。湧別町の名誉町民第1号である。
大口は1878年(明11)10月26日新潟県蘆ヶ崎村(津南町)生まれ。新潟県師範学校卒業後、教職に就き、同県中魚沼郡大井平小学校校長を教職の最後に、1909年(明42)芭露に移住。翌年から内山牧場の管理人を務めたのち、1929年(昭4)大口牧場を開設した。
内山牧場時代は、牧場の運営に尽くす一方、乳製品の製造や乳牛飼育を奨励する酪農経営の先駆的存在だった。大口牧場開設後も北見地方の酪農奨励に陣頭に立って奔走。酪農地帯の基礎づくりに手腕を発揮。”酪農の大口”と尊敬された。
牧場の管理・経営の傍ら、1924年(大13)から23年間、下湧別村村会議員を務めたほか、東湧産業組合組合長、下湧別村産業組合組合長、下湧別村農業会会長など、各種の農業団体の役員を歴任し、農業のリーダーとして活躍した。
1947年(昭22)初代公選村長に無投票当選、1951年(昭26)再選を果たし、2期8年間、村(町)長を努めた。村(町)長時代は、地方自治の確立・発展に尽くし、湧別漁港の構築促進、登栄床漁港の完成、漁湧別提携による組合立湧別高等学校の開校促進、医療機関や交通機関の設立、観光事業の開発など、まちの振興に尽力した。
長年にわたり、芭露、湧別のために貢献してきた大口は、1960年(昭35)5月13日死去、83年の生涯だった。葬儀は町葬により、同16日芭露小学校で執り行われた。午後1時に1分間消防のサイレンを吹聴、住民が黙とうをささげた。
1963年(昭38)故大口丑定翁顕彰協賛会が大口の功績を後世に残すため、湧別町役場前に顕彰碑を建立した。当時の北海道知事・町村金五による題字「顕彰」と友人・島田梅十による碑文が刻まれている。
碑文は「湧別町史」に引用されています。
故名誉町民大口丑定翁は新潟県蘆ケ崎に生まれ、明治42年本町芭露に移住し農牧場の経営に挺身、大正13年村会議員となり以来20有余年村政の枢機に参画し選良の範を示さる。この間各種農業団体長の要職を歴任し卓越せる識見と確固たる信念の下克く其基盤を築かる、翁は北方農業の確立を酪農に置き、自ら其先駆となり実践垂範「酪農の大口」として令名道内に遍く、着々其理想の実現を見るに至る、昭和22年初代公選村長に当選、爾来8年新憲法の下地方自治確立の難関を突破し、行政発展の途を開き、開拓以来の懸案たる湧別漁協の構築促進、登栄床漁港の完遂を見る。翁は夙に大湧別建設の構想を抱き両湧別提携による組合立湧別高等学校設立を企図し荊棘の途を克服して素顔を達成以って教育の機会均等の基を確立せらる。其他医療機関の設立、交通機関の完成促進、観光事業の開発等々町発展の全分野に畢生力を致し其功績さんぜんと輝き昭和32年湧別町名誉町民の称号を贈らる。
翁は常に百働説を力説するに惜むべし昭和35年5月83歳を以て瞑せらる、翁が樹立せし偉大なる功績と崇高なる愛町の精神とは郷党の誇として尊敬するところである。
昭和38年11月3日
大口翁顕彰協賛会
ルビは筆者が加え、洋数字は反角にしました(町史は縦書きなので漢数字で書かれています)。
また、新旧の漢字が混在(經営、團体など)していますが、新字(戦後の字体)に統一しています。
さらに、原文でははじめのほうに「村議会議員」とありますが、これは誤記と思われるので、湧別町史の表記に合わせました。
「荊棘の途」は「いばらの道」の意味。戦前の碑文よりは易しく、文字の判読も容易ですが、ときどき難しい語がまじっています。
(この項続く)