道立三岸好太郎美術館で特別展「日本近代洋画と三岸好太郎 Part2」が9月11日から始まる。
筆者は昨年、「Part1」を見に行っているのに、その紹介文を書いていない。「Part2」が始まってしまう前に、「Part1」で見た絵のことをつづっておきたいと思う。
木村荘八の代表作「パンの会」についてである。
木村荘八(1893~1958)は春陽会創設に客員として参加し、ほどなく会員になっている。春陽会は三岸が画壇デビューを果たした古参の団体公募展である。
永井荷風「墨東奇譚」などのさし絵でも知られるほか、「東京繁盛記」など随筆の書き手としても名高い。
「パンの会」は、明治末の文芸・絵画の流れを語る上で欠かせない。
新潮社の日本文学事典にはなぜか項目がないので、平凡社の世界大百科事典から引いてみる。
はじめは少人数で新しい芸術を語る会合であったのが、しだいに世間で知られると、大騒ぎの酒宴となって明治の終わりとともに終結したとのこと。
参加した顔ぶれはほかに吉井勇(歌人)、谷崎潤一郎(小説家)、和辻哲郎(思想家)、小山内薫(劇作家)、「白樺」の小説家たちである武者小路実篤、有島武郎、里見、志賀直哉ら。
洋行から帰った高村光太郎も常連で、大いに気炎を上げていたことは、彼の「ヒウザン会とパンの会」などに詳しい。
たぶん、見る人が見たら、木村荘八「パンの会」に登場している人物が誰であるのか、特定できるのではないだろうか。
当時の若手の芸術家たちが集まり、古い芸術を排撃し新しいアートをつくろうと、意気盛んだったのだろう。
そういう雰囲気が画面からもたしかに伝わってくる。
しかし、実はこの絵は、「パンの会」と同時代に制作されたものではない。
1928年(昭和3年)の作である。
木村自身は随筆「東京の風俗」のなかで、自分は年齢的にこの会のことをリアルタイムで知らないという意味のことを記している。
すこし後の部分では、次のようにつづっている。
なるほどね~。
筆者もあの絵を見たときには、なんだか薄暗いところで飲んでるいるなあと思っていたのだが、とにかく昔の夜というのは、電灯が普及していなかったので、現代人が想像しづらいほどの暗さだったのだ。
明治末といわれて思い出すのは、「大逆事件」と、啄木の「時代閉塞の現状」である。
「大逆事件」は、天皇暗殺を企てたとして社会主義者幸徳秋水らが死刑になった事件である。その後、秋水らは冤罪であったことがわかっている。
ひと言で言うと、暗いイメージの時代である。
しかし、ひとつのイメージで時代をくくってしまうのは危険であることを、この「パンの会」の乱痴気騒ぎは思い出させてくれるように思う。
とはいえ、考えようによっては、耽美主義というのは、現実から退却して、政治や社会の矛盾に目をつぶり、美のみを追い求める姿勢であるから、暗い「時代閉塞の現状」がもたらした集まりだといえなくもない。
ただし、政府に反対する意見はもちろん、社会に対する消極的な反抗ですら、警察などに目をつけられ監視されていたのが戦前の現実であった。
大正から、この絵が描かれた昭和初期までは、例外的にすこし権力のたがが緩んだ時代で、まもなく戦争の足音とともに、あらゆる反体制派が弾圧されるころがやってくるのだ。
筆者は昨年、「Part1」を見に行っているのに、その紹介文を書いていない。「Part2」が始まってしまう前に、「Part1」で見た絵のことをつづっておきたいと思う。
「パンの会」
木村荘八の代表作「パンの会」についてである。
木村荘八(1893~1958)は春陽会創設に客員として参加し、ほどなく会員になっている。春陽会は三岸が画壇デビューを果たした古参の団体公募展である。
永井荷風「墨東奇譚」などのさし絵でも知られるほか、「東京繁盛記」など随筆の書き手としても名高い。
「パンの会」は、明治末の文芸・絵画の流れを語る上で欠かせない。
新潮社の日本文学事典にはなぜか項目がないので、平凡社の世界大百科事典から引いてみる。
1908年(明治41)12月から12年ごろまで東京の下町を中心にくりひろげられた耽美主義的文学運動。パンはギリシァ神話の版中の牧羊神Panである。(中略)石井柏亭、山本鼎、森田恒友らの文芸的な美術雑誌「方寸」の同人たちと、その寄稿家で「屋上庭園」の同人だった詩人の木下杢太郎、北原白秋らが中心となり、(中略)永代橋河畔、また日本橋大伝馬町などのレストランが最も盛んなころの会場に選ばれ、ときに浅草、日比谷、神田などでも大会が催された。(以下略)
はじめは少人数で新しい芸術を語る会合であったのが、しだいに世間で知られると、大騒ぎの酒宴となって明治の終わりとともに終結したとのこと。
参加した顔ぶれはほかに吉井勇(歌人)、谷崎潤一郎(小説家)、和辻哲郎(思想家)、小山内薫(劇作家)、「白樺」の小説家たちである武者小路実篤、有島武郎、里見、志賀直哉ら。
洋行から帰った高村光太郎も常連で、大いに気炎を上げていたことは、彼の「ヒウザン会とパンの会」などに詳しい。
たぶん、見る人が見たら、木村荘八「パンの会」に登場している人物が誰であるのか、特定できるのではないだろうか。
当時の若手の芸術家たちが集まり、古い芸術を排撃し新しいアートをつくろうと、意気盛んだったのだろう。
そういう雰囲気が画面からもたしかに伝わってくる。
薄暗い画面
しかし、実はこの絵は、「パンの会」と同時代に制作されたものではない。
1928年(昭和3年)の作である。
木村自身は随筆「東京の風俗」のなかで、自分は年齢的にこの会のことをリアルタイムで知らないという意味のことを記している。
(ぼくは)身親しくはこの会合を知らない。ぼくとは四つ違ひの兄貴が当時文学青年としてこれに出席したところから、幾分空気を親しく見聞してゐた間接の関係である。
すこし後の部分では、次のようにつづっている。
ぼくは(中略)、その情景を想像しながら絵に描いたが――なんとこの時、この絵を描いた(昭和三年状態の)ぼくの仕事場の夜業の電気の燭光が、昼光燭といふ球の、三燈合はせて六百燭光だつた。画面の近くへ電球を近寄せて見れば、条件の悪い昼間よりモノはよくわかる程である――それで出来上つた僕の画面の明るさ加減は、どうしても「まだいけない、本当は君の絵よりもずつと会場は暗かつた」と杢太郎氏にいはれて、「想像」の見当もつきかねた。絵はこれ以上、暗くしてしまつては、カンジが出しにくいに拘らず、なんでも、パンの会場では、誤つてテーブルの下にフォークを落したのに、すぐテーブルの下をのぞいてみても、真暗で――あの光るものが――何処へ飛んだか、見当がつかなかつた程だといふ。
なるほどね~。
筆者もあの絵を見たときには、なんだか薄暗いところで飲んでるいるなあと思っていたのだが、とにかく昔の夜というのは、電灯が普及していなかったので、現代人が想像しづらいほどの暗さだったのだ。
時代背景
明治末といわれて思い出すのは、「大逆事件」と、啄木の「時代閉塞の現状」である。
「大逆事件」は、天皇暗殺を企てたとして社会主義者幸徳秋水らが死刑になった事件である。その後、秋水らは冤罪であったことがわかっている。
ひと言で言うと、暗いイメージの時代である。
しかし、ひとつのイメージで時代をくくってしまうのは危険であることを、この「パンの会」の乱痴気騒ぎは思い出させてくれるように思う。
とはいえ、考えようによっては、耽美主義というのは、現実から退却して、政治や社会の矛盾に目をつぶり、美のみを追い求める姿勢であるから、暗い「時代閉塞の現状」がもたらした集まりだといえなくもない。
ただし、政府に反対する意見はもちろん、社会に対する消極的な反抗ですら、警察などに目をつけられ監視されていたのが戦前の現実であった。
大正から、この絵が描かれた昭和初期までは、例外的にすこし権力のたがが緩んだ時代で、まもなく戦争の足音とともに、あらゆる反体制派が弾圧されるころがやってくるのだ。