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「原爆の図」北海道巡回展(1951~52年)の日程調査について

2010年05月18日 23時23分34秒 | 情報・おしらせ
 室蘭市の画家北浦晃さんから手紙が届きました。

 それをご紹介する前に、まず、北海道新聞2010年2月27日夕刊の「編集委員報告」の引用から始めます。

 有名な丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」についてです。
 1950年代初頭に全国巡回展が行われ、道内でも各地で展示がなされたそうですが、その記録はあまり残っていません。

 反戦画として知られる故丸木位里、俊(空知管内秩父別町出身)夫妻の「原爆の図」。占領下の1950年代初期、初の全国巡回展が行われ、北海道にも足跡を残している。しかし、報道統制(プレスコード)下でメディアによる報道は少なく、連合国軍総司令部(GHQ)の干渉を避け草の根的に開かれた巡回展の関連資料も乏しい。作品を所蔵する「原爆の図 丸木美術館」(埼玉県東松山市)は、巡回展の全体像を明らかにするため調査を進めている。

 原爆の図は、日本画家の夫、位里氏(1901~95年)と洋画家の妻、俊氏(1912~2000年)の共同制作で、15部のびょうぶ絵の連作。位里氏の故郷が広島だったことから、1945年8月6日の被爆後の広島に夫妻で駆けつけ、惨状を目の当たりにした。第1部「幽霊」は50年、最後の第15部「長崎」は82年に完成した。作品は現在、丸木美術館で第1部から第14部までを交代で展示し、第15部は長崎原爆資料館が所蔵している。

 原爆の図が最初に公開されたのは、50年2月8日。上野の東京都美術館で開かれた第3回日本アンデパンダン展に、第1部を出品した。

(中略)

 初公開後、都内数カ所で展示して、広島から本格的な全国巡回展が始まる。九州から北上、北海道は51年10月から始まったとされる。

(中略)

 「原爆の図」の道内初巡回展についての情報は丸木美術館(〒355-0076埼玉県東松山市下唐子1401(電)0493・22・3266、ファクス0493・24・8371、eメールmarukimsn@aya.or.jp)へ。


 北浦さんによると…

 昨年11~12月に目黒区美術館が開いた「’文化’資源としての<炭鉱>展」に、旧三井美唄炭鉱労働組合美術サークルの共同制作からなる「人民裁判事件記録画」が出品され、その関連資料として収集された1枚の写真が、原爆の図丸木美術館の学芸員の目にとまり、美唄でも「原爆の図」展が開かれたことが分かったそうです。

 美唄で、北海道史を調べている白戸仁康さんらの調査で、一気に解明が進みました。
 なにせ、これまでは道内巡回展の会場は5カ所とされてましたから、これは相当の発見です。

 現在わかっている開催地は以下の通りです。

1951年
10月28~30日 室蘭労働会館2階
11月(日付不明) 旭川・丸勝松村百貨店3階
11月10~12日 秩父別村・善性寺
11月20~21日 札幌・丸井百貨店5階(第1会場)と冨貴堂2階
11月22~25日 北大中央講堂
11月29日~12月2日 函館・棒二森屋百貨店2階

1952年
1月10~17日 夕張市
1月10~14日 夕張市民会館
(史料により異なる)
1月(日付不明) 岩見沢
1月(日付不明) 栗沢・北炭美流渡炭鉱
1月(日付不明) 三笠・北炭幌内炭鉱
1月27~28日 美唄・三菱美唄炭鉱労働組合本部2階
1~2月(日付不明) 砂川町
2月(日付不明) 上砂川・三井砂川炭鉱
2月(日付不明) 赤平・北炭赤間炭鉱
2月(日付不明) 赤平・東海豊里炭鉱
2月(日付不明) 赤平・雄別茂尻炭鉱
2月(日付不明) 赤平・井華赤平炭鉱
2月16~19日 帯広・藤丸百貨店
2月(日付不明) 根室町
2月24~26日 釧路市立労働会館
2月28日~3月2日 網走市立網走小学校体育館
3月6~9日 北見商工会議所大会議室(第1会場)・ビルディング百貨店3階(第2会場)
3月(日付不明) 名寄
3月(日付不明) 稚内
3月(日付不明) 留萌
3月(日付不明) 沼田・古河雨龍炭鉱
        小樽
        余市
4月(日付不明) 留萌・大和田炭鉱
4月8~10日 苫小牧製紙労働会館
4月10~(予定) 浦河
(予定)~4月20日 静内
4月21日~(予定) 深川
(予定)~4月24日 富良野
5月1日 幕別町立町民会館

 会場によっては、主催や入場者数、当時の様子などの記録が残されているところもあり、それによると相当な盛況だったようです。
 一方で、全く当時の状況が判明していない展覧会も多いです。

 この巡回展は、北海道の美術史に残るものだと思いますし、丸木俊が北海道出身画家で最も知名度の高いひとりであることも確実ですが、実際にはこれまでの北海道の美術史は「原爆の図」も丸木俊も等閑に付してきました。
 当時の記憶の残っている方、記録をお持ちの方は、ぜひ名乗り出て、歴史の空白を埋めていただければと思います。


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2 コメント

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有難うございました。 (KITA)
2010-05-20 22:06:15
ご紹介いただいて、有難うございます。
「見た」という人で70代…、運営に関係された方々は80代以上…ということで、難しい調査になっています。
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Unknown (ねむいヤナイ@北海道美術ネット)
2010-05-20 22:58:49
こちらこそ資料をおくっていただきありがとうございました。
紹介が遅くなって申し訳ありません。

略年表を拝見し、たった数日の会期で何千人もの入場があったとか、驚いています。
美術が真に社会から必要とされていた時代がかつてあったということを、あらためて考え直してみたいと思うのでした。
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