北海道新聞2020年6月3日夕刊社会面から。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/427071
パリにわたった日本人画家は大勢いますが、増田誠はよほどパリが肌に合っていたのか、かの地の軽妙洒脱さ、エスプリを存分に表現した、街角の群像画などを多く手がけています。
それは、藤田嗣治の裸婦とも、荻須高徳や高橋英生らの重量感ある街並みとも異なり、シャンソンと雑踏のざわめきと、トランプに負けた悔しい声が聞こえてきそうな、人間くさいパリの情景です。
また、増田は釧路の人々からも愛されていたようで、渡仏前には援助を受けたほか、2011年には市立美術館をはじめ市内約10カ所を会場にした大規模な展覧会が開かれています。
それぞれ彼の絵を所蔵する金融機関などがコレクションをロビーなどに展示したもので、芸術祭などを別にすれば、これほど多くの会場に展開した展覧会というのは、道内ではちょっと他に記憶がありません。
美術館だけではなく、多くの一般市民が企画に参加した展覧会だったようです。
それにしても、やっかいな影響ばかりを残している新型コロナウイルスですが、こういう思わぬ贈り物もあるんですね。
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■増田誠展 (上)…展覧会のこと ■増田誠展(下)…作品世界について 【告知】増田誠展 (2011)
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【釧路】釧路市内で看板業を営みながら絵を描き、その後パリで活躍した洋画家増田誠(1920~89年)の習作約40点が市内で見つかった。孫の日本舞踊家・花柳寿芳貴(本名・中村果林)さん(47)が5月上旬、新型コロナウイルスの感染拡大による外出自粛で自宅を整理していた際、2階の押し入れから出てきた。専門家は「当時の画家との交流や作品を比較できる貴重な資料になる」と話している。
習作は、主にコンテ(デッサン用クレヨン)による人物画のデッサンや、釧路港の風景画、自画像など。縦70センチ、横37センチの画用紙に描いた作品が多く、ウイスキー瓶に直接素描したものも。油彩画のキャンバスには別の作品を描き重ねた跡があり、花柳さんは「画材を買うお金もそれほどなかったのでは」と推測する。
山梨県出身の増田は、日本舞踊家・花柳寿登芳(本名・中村芳子)さん=2014年に死去=と45年(昭和20年)に結婚したのを機に、妻の故郷の釧路市へ移住。50年に光工芸社を設立して看板業を営む傍ら、本格的に絵を描き始めた。
地元経済人らの支援を受け、57年に渡仏。欧州の街並みや味わいのある人物像で人気を得て、フランスを代表する美術展サロン・ドートンヌの会員となり、65年に公募展ル・サロンで金賞を受けるなど活躍した。
今回の習作は、制作年の入ったものは少ないが、渡仏前の50年代の作品が大半とみられる。寿登芳さんをモデルにした人物画もあり、花柳さんは「寿登芳さんが『(増田は)私を描いて上達した』と話していたのを覚えている」と振り返る。(以下略)
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パリにわたった日本人画家は大勢いますが、増田誠はよほどパリが肌に合っていたのか、かの地の軽妙洒脱さ、エスプリを存分に表現した、街角の群像画などを多く手がけています。
それは、藤田嗣治の裸婦とも、荻須高徳や高橋英生らの重量感ある街並みとも異なり、シャンソンと雑踏のざわめきと、トランプに負けた悔しい声が聞こえてきそうな、人間くさいパリの情景です。
また、増田は釧路の人々からも愛されていたようで、渡仏前には援助を受けたほか、2011年には市立美術館をはじめ市内約10カ所を会場にした大規模な展覧会が開かれています。
それぞれ彼の絵を所蔵する金融機関などがコレクションをロビーなどに展示したもので、芸術祭などを別にすれば、これほど多くの会場に展開した展覧会というのは、道内ではちょっと他に記憶がありません。
美術館だけではなく、多くの一般市民が企画に参加した展覧会だったようです。
それにしても、やっかいな影響ばかりを残している新型コロナウイルスですが、こういう思わぬ贈り物もあるんですね。
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