goo blog サービス終了のお知らせ 

まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

葛の道 抜けてお寺の 鐘を打ち

2009年11月08日 | 歴史
 午後からは・・佐柳島に移動した・・。坂出の朝日海運さんの「朝日丸」というチャーター船を一日借り切っての島巡りの旅・・・。

 塩飽諸島二十八の島々は、昔は海でつながっていたために、郵便物も船で島々に運ばれたりしたらしいが、戦後は地図上の縦に区分されて、櫃石島や岩黒島、与島などは坂出市に属して坂出から高速経由でバスが出る。

 塩飽本島や牛島、さぬき広島や手島・小手島などは丸亀市に属して丸亀港から船が出る。高見島や佐柳島は多度津町に属していて多度津港からの船になる。だから・・島々を横に巡ろうとすると・・特船というチャーター船しかない・・。

 

 今回は・・その朝日丸で高見・佐柳の旅である・・・。佐柳の港に着いた一行は本浦の集会場に寄せていただいて、お茶をいただき、島田さん、ここでは「鐵五郎」さんのほうがおなじみなんだけれど・・、歓迎の挨拶を受ける・・。

 

 で・・、島の歴史というと・・やはり、神社やお寺に行くしかない・・。最初は八幡神社に参りして拝殿の中を見せていただく。拝殿内に奉納された和船の模型や絵馬などを見せていただく・・。その後・・、干満の井戸という不思議な井戸の見学・・・。満潮には水位が下がり、干潮になると水位が上がるという逆になる珍しい井戸なんだそうだ。

  

 その後、この島の旧庄屋さんの田本長太夫宅を見せていただく。島の庄屋さん宅だけあって立派な造り。柱や桁材も太くてしっかりとしたもの。欄間も一枚板のすばらしい彫り物の施されたものだし、いまだに・・槍や船突き槍などの武具も保管されている・・。

 

 この屏風も由緒あるものらしい・・。写真右上では入江会長が古文書を調べている・・。

 

 これが・・塩飽史談会の入江会長・・・。九十歳を越えているのに元気で、昔のことをその目で見てきたように話すんだから恐れ入る・・・。それに・・記憶力がすばらしい・・。日本の歴史がすらすらとよどみなく流れ出るのだから・・。

 その後・・乗蓮寺に移動して・・本堂(客殿)を拝観・・・。瀬野昇平という人の履歴書みたいなものを見る・・。この人が・・「安政六年正月咸臨丸御船ニテ米国桑港(サンフランシスコ)エ洋航、船将は勝安房守殿ニ御座候・・・」と書いてある。咸臨丸に乗って米国に行ったのは一度きり。その咸臨丸の水夫は50名。内35人が塩飽の水夫。その中に「昇平」という水夫の名前はない・・・。これはどうしたことやろうか・・・。

 

 これは・・富造という人のお墓。これは確認すみ。そして、こちらも・・。

 

 これは「前田高次」のお墓。これも確認すみで、アメリカ土産なども残されている・・。ま・・、そういうものを見たあとは・・、またしても朝日丸に乗り込んで・・、今度は島の北端にある「長崎」地区に移動する・・。歩けば・・40分も50分も歩くほどの距離。

 この地区の北端部にあるのが・・・。

 

 この「埋め墓」・・・。自然石を海岸で拾ってきて盛り上げたお墓。細長いものは「寝棺」を置いた上から石を盛り上げたもの・・・。盛り石の上の石碑には故人の俗名が刻まれていて・・誰のお墓がわかる仕組み・・・。

 丸くて小さな盛り石塚は・・地方(じかた)「多度津」や「丸亀」などの病院や施設で亡くなり、火葬されて島に戻り、遺骨だけを埋葬したお墓。だから・・小さい・・。

 

 一つの盛り石塚に二つ以上の石碑があるものは、親子とか夫婦の遺骨を同じ場所に埋葬したもの・・・。

 こことは別に少し離れた場所に、立派な石碑が建ててあって、そこには戒名や法名が刻まれている。それは参り墓。そちらに遺骨は納められていない・・。近年は・・・「○○家の墓」という家族墓が増えてきたそうだ・・。

 ともかく・・遺骨を埋葬した「埋め墓」と、立派な石碑に戒名を刻んだ「参り墓」があるのが「両墓制」といわれるもの・・。その・・代表格が、この佐柳島・長崎鼻の「埋め墓」である・・。

 で・・その帰りは・・さぬき広島には降りずに、丸亀港で下船して流れ解散・・・。久々に我が家に帰ったのでありました・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

路地陰に 猫たむろして 糸ススキ

2009年11月08日 | 歴史
 さて・・朝の片づけを済ませて・・帰宅の準備を済ませる・・。弟も魚が釣れずに・・いよいよ・・撤収・・。

 弟は八時半のフェリーで帰って行った。私も帰る支度をして、戸締りなどを済ませて・・江の浦港で待機・・・。自治会長さんや松本さんと三人で・・高見島・佐柳島に向かう「特船(とくせん)=チャーター船」を待つ。

 今日は・・塩飽史談会の例会で、塩飽諸島を訪ねる旅の一つということで、高見島に向かうことになったもの。船は・・島々を回って参加者を乗せて・・・さぬき広島に寄ってから・・高見港に向かう・・。

 

 今回の参加者は・・33名・・。歴史民俗資料館有志や丸亀城石会の有志なども含めての大勢の旅になった・・。

 高見島では・・西山先生ご夫妻の案内で高見島内を見学して回った・・・。

 

 天候も良く・・・風もなく・・海はおだやかに凪いで静かだったし・・・。

 こうした・・島々は・・・時間の流れが止まったような錯覚に陥る・・。自動車もバイクも見えないし、人影もほとんどない。まして・・自動販売機もなければ・・信号機もない・・。バス停なんか夢のまた夢・・・。

 

 高見や佐柳は・・・猫の島・・。江戸時代の千石船にネズミ退治のために載せられた猫が・・島々に降りて住み着いたとかと言われるが・・・ここかしこに・・猫の姿が・・・。

 塩飽の島々で特徴的なものが・・このお墓・・・。

 

 手前側の自然石を並べたものが・・遺体を埋めた「埋め墓」四角い石碑には故人の俗名が刻まれていて、誰のお墓かがわかるようにしている。

 その向こう側に立派な石碑が立ち並ぶ・・。これが参り墓・・。ここには戒名が刻まれているし、「○○家の墓」と刻まれたものもある。こうしたお墓を・・「両墓(りょうぼ:りょうはか)制」という・・・。個人ごとに・・二つのお墓があるということになる。

 

 この島には水田はなく・・簡単な野菜や畑作物を作る程度・・。多くが半農半漁だったという。今では・・漁師さんの数は減ったと聞いた・・・。

 

 高い・・竜王山の山裾にすがりつくように・・家々が立ち並んでいて、狭い坂道や石段を登り下りして生活してきた・・・。道の右手には隣の家の屋根が・・、左手にはこれまた隣家の高い石垣が迫る・・・。

 戦後には・・千人を越えた人口も・・高度成長時期ごろから人口流出によって過疎化が進み・・・今では空き家ばかりが目立ち、家屋の荒廃も進んでいる・・。

 

 島の高台にある「大聖寺」から見た瀬戸の海。目の前が・・「備讃北航路」巨大船がゆっくりと進んでいく。かつては、この海を帆柱にいっぱいに風を受けた北前船がいくらも幾らも行き交ったに違いない・・・。

 こうした海で育った若者の中に・・榎本武揚らと活躍した人物の一人、山下岩吉がいた。幕末期にオランダに留学し、あの「開陽丸」に乗って古川庄八らと帰国し、海で活躍した人物だった。そのお墓が・・このお寺の境内に建っている・・。

 

 一行は・・西山先生宅でお弁当を食べて・・13時過ぎに高見島を出発、今度は佐柳島に向かった・・・。

じゃぁ、また。

ツイッター

<script type="text/javascript" src="//platform.twitter.com/widgets.js"></script>