少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

蜃気楼宇宙観

2005-04-09 22:08:04 | 哲学
人間の認識能力はアナログ的であるとよく言われる。コンピュータが飛び飛びのデジタル値でしかものを認識できないことに対して、人のそれは滑らかに連続的にものを理解する。

でも、デジカメの解像度がどんどん高くなっていくと、アナログ写真と見分けがつかなくなるように、実はアナログとデジタルというのはそんなに大きな差があるわけではない。どちらも程度の問題にしか過ぎない。

もっと突き詰めていくと、認識という過程は、何かと何かが「同じ」か「違う」かのどちらかであるということを決めるだけのことのような気がする。それは、アナログとデジタルを変換するADコンバータの構成要素が1ビットのコンパレータ(比較器)から作られているのと良く似ている。

実験においても、人との交渉においても究極的には何かが何かと同じか違うかのどちらかを判断するだけのことである。そして、その判断は常にあいまいさを含む。つまり、その判断は正しいとも言えるし間違っているともいえるのだ。宇宙の森羅万象は、皆同じリアリティのバリエーションとも思えるし、逆に全ては独立な存在であるとも言える。世界は、それらの間のゆらゆらとゆらめく蜃気楼のようなもののような気がするのだ。

ものの見方

2005-04-09 21:52:58 | 写真
写真を撮るとき、勿論全体としての被写体のイメージは大切だ。でも、モノクロ写真を撮る様になってからは、対象の部分的な明るさに気をくばることが出来るようになった。

ビルの壁は、ビルの壁という意味においては、どの壁も同じだ。でも明るさを考えると太陽の位置によってそれぞれの壁は全く違ったトーンになっていることに気がつく。あまり、ぺたっとどの壁も同じトーンになっているよりも、向きによってトーンが違っていた方が立体感があっていい。そんな印象をそれぞれの壁のトーンの違いという分析的な手法によって確認する。

カラーで写真を撮るときは、もちろん色の組み合わせが気になる。千鳥が淵の桜もいいが、ただ、ピンクの花だらけではちょっとさみしい。空の青や、菜の花の黄色、新緑のみどりなどなど、いろんな色の組み合わせを試してみるのが一番楽しい。

太陽の黒点観察だって、いろんな見方がある。以前は、観察した黒点のディテールを、言葉に置き換えてスケッチしていた。今日、黒点を描いているときは、特徴は文字に置き換えられてはいなかった気がする。あるまとまった形をイメージのまま頭は取り込んだような気がした。そして、そのんみんしきに基づいて、手が勝手にスケッチを描く。意識としての私には、果たしてそれが、今見ている黒点の正しい形なのかよく分からない。でも、意識としての私は、今仕事をしている無意識の私を信頼できる気がした。そんなプロセスの繰り返しでスケッチが出来上がっていく。出来上がった絵のバランスや精密さが必ずしもいいとはいえない気もするが、でもそれは間違いなく、私の無意識が受取ったままの黒点のイメージなのだ。

ものの見方。私たちは教育や経験によって、見ている対象を(他の五感も含めて)認識する。ここでいう認識というプロセスは、頭に入ってきた膨大な情報を、これまでに頭の中で形成されていた言葉に対応関係をつけることである。そして、それをスケッチなどによって再構成するときは、一時的な画像情報ではなく、頭の中に既に作られていた対象の知識によって作られる。

写真でもスケッチでも、観察を続けていくとだんだん意識の働く部分が小さくなっていく。外からの情報が意識によって編集されることなく体に入っていく。そういう時人は感動をおぼえるのだと思う。