俵万智の短歌の本を読んでいる。なかなか面白い。いろんなことが書いてあるが、何度も書かれていることに、短歌では全てを描写しない方がいいという話がある。
短歌はそこに書かれた31文字で全てが完結するのではないという。大胆な省略や比喩によって、その句を読んだ人の心の中に、作者の気持ちが再現されるというか、そういうことを引き起こすことが大事だというのだ。
言ってみれば短歌は、その読み手との相互作用を引き起こすことが大切だということだ。それは、短歌と読み手の関係だけではない。短歌の中のそれぞれのことばも、互いの関係性の中に定義されているのだと思う。言葉の意味は、それ自身では定義されない。言葉は単なる記号に過ぎないのだから。その言葉を読んだ人の心の中にあるイメージが共振するだけである。そして、それはその言葉のまわりの言葉や句の流れなどにも微妙に影響を受けるのだ。
写真そっくりである。写真だって印画紙に記録された映像そのものに意味があるわけではない。それを見た人に、なんらかの印象を引き起こすことに意味がある。そして、そのためにはただ単にリアリティを追求して何でもかんでもフレームにおさめるのではなく、意図的に対象の一部を切り取ったり、視点の移動を計算して何箇所かのポイントを絵の中に入れたりする。
短歌にしても写真にしても、作者が作品を作るその時に何を感じたのかが一番大切だ。感じる心がないところには作品は存在しない。感動することだけがリアリティなのだ。
毛糸編む乙女の指のやさしくてたとえばゆるるコスモスの花 宮澤きの江
いいねえ。
短歌はそこに書かれた31文字で全てが完結するのではないという。大胆な省略や比喩によって、その句を読んだ人の心の中に、作者の気持ちが再現されるというか、そういうことを引き起こすことが大事だというのだ。
言ってみれば短歌は、その読み手との相互作用を引き起こすことが大切だということだ。それは、短歌と読み手の関係だけではない。短歌の中のそれぞれのことばも、互いの関係性の中に定義されているのだと思う。言葉の意味は、それ自身では定義されない。言葉は単なる記号に過ぎないのだから。その言葉を読んだ人の心の中にあるイメージが共振するだけである。そして、それはその言葉のまわりの言葉や句の流れなどにも微妙に影響を受けるのだ。
写真そっくりである。写真だって印画紙に記録された映像そのものに意味があるわけではない。それを見た人に、なんらかの印象を引き起こすことに意味がある。そして、そのためにはただ単にリアリティを追求して何でもかんでもフレームにおさめるのではなく、意図的に対象の一部を切り取ったり、視点の移動を計算して何箇所かのポイントを絵の中に入れたりする。
短歌にしても写真にしても、作者が作品を作るその時に何を感じたのかが一番大切だ。感じる心がないところには作品は存在しない。感動することだけがリアリティなのだ。
毛糸編む乙女の指のやさしくてたとえばゆるるコスモスの花 宮澤きの江
いいねえ。