芸術的な抽象的な世界に自分がどんどん入っていく感じがすることがある。言葉にならない感覚が私を襲う。
襲うといっても、恐ろしいと思うわけではない。むしろ心地よい感覚といったほうが良いのかもしれない。
そういう感覚は僕にとっては当然のことなのだが、それは私のまわりにいる人にとってはどうもあたりまえのことではないらしい。僕の言っていることがよく分からない人がまわりにあふれてしまうのだ。
別に、他人に迷惑をかけるようなことをするわけではないのだが、たとえばこのブログに書いているような突飛なアイデアを言い出すので、周りの人は困惑してしまうらしい。
以前いた研究所では、そういう僕は既にまわりからそういう人ということで認知されていたので、それはほとんど問題にはならなかった。むしろそれは創造性として受け入れられていた。
でも、今はそういう場所に僕はいない。僕の感覚は、時としてそのままは受け入れられない。
でも、新しい職場も僕を拒否してはいないようだ。それは、新しい自分を見つけるプロセスである。新しい職場で、僕は何を受け入れ、何を拒絶するのだろうか。新しい職場は、僕の何をうけいれ、何を拒絶するのだろうか。
それは僕の心の中の有り様である。職場を観察することで、僕は自分の心を捜し求めている。
まずは、職場に写真を飾ろう。この間目黒の教育植物園で撮った桜をフレームに入れた。
誰かに何か言われるかな。ちょっと楽しみだ。
襲うといっても、恐ろしいと思うわけではない。むしろ心地よい感覚といったほうが良いのかもしれない。
そういう感覚は僕にとっては当然のことなのだが、それは私のまわりにいる人にとってはどうもあたりまえのことではないらしい。僕の言っていることがよく分からない人がまわりにあふれてしまうのだ。
別に、他人に迷惑をかけるようなことをするわけではないのだが、たとえばこのブログに書いているような突飛なアイデアを言い出すので、周りの人は困惑してしまうらしい。
以前いた研究所では、そういう僕は既にまわりからそういう人ということで認知されていたので、それはほとんど問題にはならなかった。むしろそれは創造性として受け入れられていた。
でも、今はそういう場所に僕はいない。僕の感覚は、時としてそのままは受け入れられない。
でも、新しい職場も僕を拒否してはいないようだ。それは、新しい自分を見つけるプロセスである。新しい職場で、僕は何を受け入れ、何を拒絶するのだろうか。新しい職場は、僕の何をうけいれ、何を拒絶するのだろうか。
それは僕の心の中の有り様である。職場を観察することで、僕は自分の心を捜し求めている。
まずは、職場に写真を飾ろう。この間目黒の教育植物園で撮った桜をフレームに入れた。
誰かに何か言われるかな。ちょっと楽しみだ。