少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

一冊だけの自費出版

2005-04-20 23:17:47 | その他
仕事でやっていたインターネットサイトに何年か続けていたエッセイが終わった。一時は出版するかという話もあったのだが、その話は結局流れて今に至った。

でもちょっとだけ本の作者になった気分を味わおうと、丸善から発売されている製本工房なる商品を買ってきた。これは、コピーで作った原稿を用意するだけでハードカバーの本が出来るというしろものだ。1600円とちょっとネダンは張るが、まあ1冊だけ作るのなら許せる価格だ。

緑色のクロス仕上げの、いかにも図書館においてありそうな雰囲気の本が一冊できあがった。A4の紙にコピーしたので、サイズはA4,ページ数は84ページほどになった。なかなかいい雰囲気の本になったと思う。とりあえずこれは、文章の編集を手伝ってくれたアシスタント(?)の女の子にあげるつもり。自分のは、もう一回編集しなおしてB5サイズにしたいなあ。

自分を知る

2005-04-19 21:52:06 | 写真
日々いろんな人とであう。いろんな意見を交換する。

そして、話せば話すほど人は自分自身を分かっていないということに気がつく。

自分だって多分自分自身のことを分かっていないのだと思う。だから、僕は人と話をしたい。

他の人が僕を見て言う言葉の中に僕自身は存在する。今まで気づいていなかった自分の姿が、ふっと顔をだす。

今自分がいる場所もこれから向かうべき方向も、それを自分自身で決めようと思うと迷いがでてしまう。自らを回の人たちに投影することによって、進むべき道もおのずと見えてくるような気がする。

写真を撮ることも全く同じだと思う。写真にはその人そのものである。何をとるか、どう撮るか、いろんな視点でその人の人となりが反映される。そう思うと写真ってちょっと怖い気もする。

服装について

2005-04-19 00:28:36 | その他
電車通勤をしていると、もちろんたくさんの人と一緒になる。
そこに出会う人は、男性も女性も様々な服装をしている。
ヘッドフォンをしてスーツを着ている若い男性もいれば、ジャージに雪駄ばきのにーちゃんもいる。もちろん、それは人それぞれなのでどうこう言われる筋合いのものではない。

でも、服装ってその人の気持ちがものすごくストレートに表れると、最近思うようになった。以前は僕も「別に服装なんてなんでもいいじゃん。隠すとこだけ隠していれば」みたいにおもっていたのだが、今は全く違う。心の乱れは、そのまま服装の乱れになると思う。髪の毛も靴も、持っているカバンも、みんな大切だと思う。別にブランド品で身を固めろといっているわけではないが、なんとなくセンスのいい着こなしというかいでたちを目指したいと思う。

たまに女の子で、ものすごい派手な格好をしているのを見ると、そのいでたちそのものよりその子の心の中が気になる。あれだけ目立つお姫様みたいな格好をしたら、いろんな人からじろじろ見られることは本人も分かっているはずだ。なぜ、そんなに他人の目をひきたいだろうと、おじさんは勝手に思うのだ。

ファッションの世界っていうのも結構深いんだなあと思う。ファッションデザイナーは、その人の心の磨き方で出来が決まるに違いない。だって服装は心がそのまま表れるんだからね。

きっちりとした仕事

2005-04-17 20:49:58 | 写真
モノクロ写真を始めて約一年が過ぎた。最初は、暗室用具メーカーのキットを買ってきて、みようみまねで現像をやった。今から思い返してみると、ずいぶんお粗末なプリントを作っていたものだと思う。でも、それはそれでプロセスとしては楽しかった。

このブログでモノクロプリントのことを教えていただいたりして、自分で言うのもなんだけど、ずいぶん上手くなったと思う。一番クリチカルなフィルムの現像が、大分安定して出来るようになったのが大きいと思う。成り行きで決まったのもあるが、使うフィルムや現像液、現像温度に攪拌時間を一応固定して、現像タンクの振り方まで気にして処理が出来るようになった。

さて、これからどうしよう。やはりきちっとした仕事をしたいと思う。写真は遊びなんだけど、それはそれ、どこまでディテールに気を配ってきちっとした仕事を出来るか。そこにこだわりたい。

その意味では、露出の計り方が次に気になる。今時分がやっていることは、被写体の入射光の露出を計り、次に反射光をなんとなく計る。大体、反射光の方が低く出るので、その値かもう少し多めに露出をかけるくらいでやっている。はっきりってゾーンシステムもへったくれもないのである。

持っている露出計がゴッセンのハンディタイプで、スポット測光が出来ないので仕方がないといえば仕方がない。でも、露出計は露出計でちゃんと動いてい入るのだから、もう少しシステマチックなやり方があるような気がしてならない。反射光モードで、もう少し落ち着いて被写体の明るさごとのEV値を見てみたほうがいいだろう。あてずっぽうでもいいから、この辺をゾーン4とかゾーン6とか考えてみるのもいいかもしれない。

きっちりした仕事とは、小さい不確定要素をきちんとつぶして行った果てにある。写真に限らず仕事も同じ。がんばらないけどあきらめないこと、大切なことだと思う。

春の花

2005-04-16 22:14:32 | 写真
桜はあっという間に終わってしまったが、町のあちこちに花が見られるようになった。

今日は午後、ハッセルを首からさげて散歩に出かけた。ちょっと風が強かったが気持ちのいい春の空気を吸いながら花を探して歩いた。

今一番目に付くのは、チューリップだろう。家の周りに丁寧に植えてあるチューリップが一斉に咲いているのを見ると、その家の人も心優しい人なのだろうなどと勝手なことを考えてしまう。

道端にはタンポポの黄色い花が紫色のホトケノザと競うように咲いていた。

黄色や白の水仙の花が群生していると思わず近づいてしまう。この花は長く咲いているのか、近くから見ると砂で汚れたりしていてがっかりすることも多い。それはそれで自然ではあるのだけれど、やっぱり見るほうとしては美人さんを見たい。

小学校の門のそばに並んだプランターに植えられたピンク色の桜草が、背景の緑の草の上に浮かび上がっているのも良かった。

ガーデニングの花々の間に飾りを置いている家もある。あれも悪くない。今日は鉢植えの間においてあった赤い鶏冠のニワトリもフィルムにおさめた。

フィルムはモノクロといいたいところだが、さすがにここはカラーにした。プロビア100で今までの経験だと、ISO100の設定で露出を計ると必ずアンダーになるので、0.5段くらいオーバー目に露出をかけてとった。さて、どんな仕上がりになりますか。

ポピュラリティについて

2005-04-16 20:21:10 | 哲学
この間、ローマ法王の死去のことをブログに書いたら、何人もの方からトラックバックやコメントを頂いた。
それはそれでいいのだが、その時ちょっと思ったことがある。つまり、もしブログのアクセスを増やそうと思ったら、多くの人が関心を持ちそうなことを記事に書けばいいということに気がついた。
もしかすると、人気のあるブログにするためには、オリジナリティなど必要ないのかもしれない。完全にオリジナルな内容を書いていたら、そのことは他の人には理解されないかもしれないのだから。
できるだけ他の人が書きそうなキーワードをじゃんじゃん記事の中に埋め込んで置けばよい。そうすれば検索をした人に見られる確率はどんどん高くなるだろう。アクセスを増やしたければそれでいい。でも、人々が興味を示すものというのは日々変化していくから、そういう動向にいつも注意を払う必要があるだろう。まあ、世の中のビジネスというのはそういうものなのかもしれない。
でも、それだけではつまらない気がする。要するに他人の真似しか出来ないのではどうにもつまらない。人のやっていないことをアクセスが増えなくてもやり続けること、そんなことをやっていたいと思う。だったら、ブログなんか書かないで一人で孤独にやっていればいいという反論も聞こえてきそうだ。だって人まねはしないんだから、人にそれを見せる必要もない。でも、人は、自分のやっていることを自分では正確に理解することが出来ない。何かをやっているつもりでも、それはその行為の実体ではない。人は他人と相互作用をすることによってのみ自分のやっていることを理解できる。だから、いくら独りよがりのこんな話しだって、ブログに書いて他の人の反応を期待するのである。

雑感

2005-04-15 22:16:48 | 哲学
芸術的な抽象的な世界に自分がどんどん入っていく感じがすることがある。言葉にならない感覚が私を襲う。

襲うといっても、恐ろしいと思うわけではない。むしろ心地よい感覚といったほうが良いのかもしれない。

そういう感覚は僕にとっては当然のことなのだが、それは私のまわりにいる人にとってはどうもあたりまえのことではないらしい。僕の言っていることがよく分からない人がまわりにあふれてしまうのだ。

別に、他人に迷惑をかけるようなことをするわけではないのだが、たとえばこのブログに書いているような突飛なアイデアを言い出すので、周りの人は困惑してしまうらしい。

以前いた研究所では、そういう僕は既にまわりからそういう人ということで認知されていたので、それはほとんど問題にはならなかった。むしろそれは創造性として受け入れられていた。


でも、今はそういう場所に僕はいない。僕の感覚は、時としてそのままは受け入れられない。

でも、新しい職場も僕を拒否してはいないようだ。それは、新しい自分を見つけるプロセスである。新しい職場で、僕は何を受け入れ、何を拒絶するのだろうか。新しい職場は、僕の何をうけいれ、何を拒絶するのだろうか。

それは僕の心の中の有り様である。職場を観察することで、僕は自分の心を捜し求めている。

まずは、職場に写真を飾ろう。この間目黒の教育植物園で撮った桜をフレームに入れた。

誰かに何か言われるかな。ちょっと楽しみだ。

シンクロ二シティ

2005-04-14 22:59:42 | その他
シンクロ二シティという言葉をご存知だろうか。「意味のある偶然の一致」というやつで、ユングの心理学などで出てくる。

僕は、インターネットと音楽を聴いているときにときどきシンクロ二シティが起こる。

たとえば、メールを誰かに送っても、なぜか相手に着かないことが何度も起こったりする。確かにメールのアドレスはあっているのに、相手にそのメールが着かない。でも後から考えると、そのメールは出さない方が良かったりする。

CDをヘッドフォンで聞いているとき、鉛筆を持ち上げた瞬間に「鉛筆」という歌の歌詞がきこえてきたりすることもある。

不思議といえば不思議だけど、そんなこともあるなあというのが、僕の受取り方である。

偶然の一致は、僕がそれに意味を与えるから特別な出来事になる。でも、そんなことに気をつけていなければ、別になんでもない。シンクロ二シティというのは、その人の心のうちにある何かが、身の回りの出来事に意味を与えているのだ。

短歌について

2005-04-13 22:53:19 | 写真
俵万智の短歌の本を読んでいる。なかなか面白い。いろんなことが書いてあるが、何度も書かれていることに、短歌では全てを描写しない方がいいという話がある。

短歌はそこに書かれた31文字で全てが完結するのではないという。大胆な省略や比喩によって、その句を読んだ人の心の中に、作者の気持ちが再現されるというか、そういうことを引き起こすことが大事だというのだ。

言ってみれば短歌は、その読み手との相互作用を引き起こすことが大切だということだ。それは、短歌と読み手の関係だけではない。短歌の中のそれぞれのことばも、互いの関係性の中に定義されているのだと思う。言葉の意味は、それ自身では定義されない。言葉は単なる記号に過ぎないのだから。その言葉を読んだ人の心の中にあるイメージが共振するだけである。そして、それはその言葉のまわりの言葉や句の流れなどにも微妙に影響を受けるのだ。

写真そっくりである。写真だって印画紙に記録された映像そのものに意味があるわけではない。それを見た人に、なんらかの印象を引き起こすことに意味がある。そして、そのためにはただ単にリアリティを追求して何でもかんでもフレームにおさめるのではなく、意図的に対象の一部を切り取ったり、視点の移動を計算して何箇所かのポイントを絵の中に入れたりする。

短歌にしても写真にしても、作者が作品を作るその時に何を感じたのかが一番大切だ。感じる心がないところには作品は存在しない。感動することだけがリアリティなのだ。


毛糸編む乙女の指のやさしくてたとえばゆるるコスモスの花 宮澤きの江

いいねえ。

短歌と写真

2005-04-13 07:23:21 | 写真
短歌というのは、本当に短い言葉の中にいろんな思いを凝縮させる文学だ。

たった一文字の「も」や「は」の使い方で、句の雰囲気ががらりと変わる。

その句でいいたいことは、必ずしも文面にあらわれるとは限らない。その句を読んだ人の心の中に、句を読むことをによって意味を浮かび上がらせたりする。

僕は、短歌や俳句をやったことはないのだけれど、こうした文学はとても写真に似ていると思う。

そう思ってちょっと短歌の本を買ってきた。きっと写真に応用できると思うから。