こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

住民主体のむずかしさ実感

2015年07月06日 21時02分16秒 | 文芸
“住民主体”の難しさ実感

 生まれ育った加西市の伝説の美女「根日女」の舞台化を通じて地域おこしにチャレンジした体験を通じ、つくづく住民主体の地域おこしがいかに大変なものかを思い知った。
 幸運にも青年経済人グループJCの全面的支援を得られたこその成功だった。直前になっての市の助力も、加西JCの存在があったればこそだったと思う。もしも、ただの住民主体の活動に終始していたらどうなっていたかは、「結果を出して貰わなければ行政は援助できない」と明確に語った市職員の印象的な言葉からも容易に判断がつく。
 無力な住民が結果を出すのがどれほど大変なことか。
 芝居を通じての地域おこしの試みが2年目を迎えてJCが一歩退き、四苦八苦したことからでも明白だ。
 住民主体ながら地域経済界と行政の三位一体の姿が実現してこそ地域おこしは成功すると実感する。
 ある程度の成果と実績を残した私たちの市民劇団は、いま行政の助力を受けて、三度目の飛躍を図っている最中だ。
(神戸・1994・8・23掲載)

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親子で楽しいバケツリレー

2015年07月06日 18時14分05秒 | 文芸
親子で楽しいバケツリレー

 今年の夏休み、酷暑少雨による渇水が直撃したが、そう悪いことばかりではなかった。
 カラカラになったわが家の家庭菜園は水やりが欠かせなくなり、川からくみ上げた水をバケツでかけて回る事態となったが、これを3人の子どもが手伝ってくれた。
 親子が呼吸を合わせてのバケツリレーの初体験は、少々しんどかったが、なかなかいいものだった。
 苦労したかいあって、ナスやトマトなどの夏野菜は順調に収穫できたし、いまは秋に向けて植え付けた野菜の苗や蒔いた種が芽を出して、わが家の畑はにぎやかである。
「水って大切なんやね、しんどいけど」
「しんどい分、こんなに白菜が育ったんや」
「ボクらて、お母さんになったみたいや」
 ―仕事で畑にかまっていられない妻の代理になっている。幼稚園に通う末っ子のあどけない感動も含めて、みんなワイワイガヤガヤとやっている。
 ふだんおろそかになりがちの親子のふれあいが深められた上に、野菜づくりに伴う感動まで共有できた。
 渇水よ、ありがとう!でも、そろそろ平年並みに雨を降らしてと願いたい。
(神戸・1994・9・11掲載)

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保育園の発表会で感動

2015年07月06日 13時56分46秒 | 文芸
保育園の発表会で感動

 保育園の発表会がやってきました。4月から幼稚園・小学校に進むわが子たちにとっては保育園最後の行事になります。ところで長安は劇遊びでナレーター役。昨年は浦島太郎役だったので、今回はそんな役はいいからナレーターしたいと自分から保母先生に申し出たというから驚きました。
 親に似たのか気が弱くてヘラヘラしてばかりで案じられた長男が、自分で選択して意思を伝えたと知った時には、ちょっと感動です。頼りないと決めつけていた子だからなおさらです。既に6歳、わが息子は親の知らないところで着実な成長をしていてくれたようです。それもみんな保育園の先生方の指導のおかげだと思うと、ただ感謝するばかりです。
 本番の日、とても晴れ晴れした表情で、元気いっぱいナレーターをやっているわが子の姿に、わたしと夫は心から拍手を送りました。
 この4月から幼稚園に通う長男です。新しい環境下で新しい先生になるために(あいつ、大丈夫かな?)と不安を持っていたわたしでしたが、今回の劇遊びの役選びで彼が見せてくれた自立への第一歩ですっかり解消です。無限である子どもの可能性、親の物差しだけで判断する間違いに気づかされた思いでした。
(1990・3・8神戸新聞掲載)

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毛虫の学校

2015年07月06日 10時57分24秒 | 文芸
知識を生かす知恵を持とう

「論」にある通り、知愛一如の心を伴う教育が今の時代に必要なのは確かなようだ。これまでの知識べったりだった教育の結果が、いろんな弊害となって世の中に現れているのは周知の通り。愛の、心の欠けた知識ほどタチの悪いものはない。何かと言えば他人を傷つけてしまいがちになるのは、わが身をふり返っても分かる。
 そんな知識だけを得るための教育なら、児童期、青年期といった限定された教育期間があれば十分だが、人間らしい豊かな心の形成との閉口を期するなら、そんな性急なやり方では、とても成果を望めるはずがない。
 物事を理解するということは、単なる知識習得ではなく、それが人間にとってどう必要なのか、どう扱えば人間のためになるかを考え、知識を生かすことだろう。そのためには、わたしたち人間が生きている限り、それを宿題としてもち続けていかねばならないだろう。
人間死ぬまで勉強とは、言い得て妙である。生涯教育の意義は、ますます深まって当然だと思う。
(神戸・1993・12・14掲載)

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知識を生かす知恵

2015年07月06日 09時06分59秒 | 文芸
知識を生かす知恵を持とう

「論」にある通り、知愛一如の心を伴う教育が今の時代に必要なのは確かなようだ。これまでの知識べったりだった教育の結果が、いろんな弊害となって世の中に現れているのは周知の通り。愛の、心の欠けた知識ほどタチの悪いものはない。何かと言えば他人を傷つけてしまいがちになるのは、わが身をふり返っても分かる。
 そんな知識だけを得るための教育なら、児童期、青年期といった限定された教育期間があれば十分だが、人間らしい豊かな心の形成との閉口を期するなら、そんな性急なやり方では、とても成果を望めるはずがない。
 物事を理解するということは、単なる知識習得ではなく、それが人間にとってどう必要なのか、どう扱えば人間のためになるかを考え、知識を生かすことだろう。そのためには、わたしたち人間が生きている限り、それを宿題としてもち続けていかねばならないだろう。
人間死ぬまで勉強とは、言い得て妙である。生涯教育の意義は、ますます深まって当然だと思う。
(神戸・1993・12・14掲載)

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ありがとう!

2015年07月06日 02時25分22秒 | 文芸
ありがとう!

 夜遅く電話がありました。前日公演したわたしたちアマチュア劇団の舞台を観られた方でした。
「久しぶりに感激して泣かせてもらいましたわ。若い人、それも女性が多いのに、あのエネルギーはすごい。しかも加西市にある赤穂浅野家菩提寺の久学寺を念頭に郷土の素材である忠臣蔵を取り上げれたことも嬉しい。これからも地域の舞台芸術を支えて頑張ってください」
 語られる一語一語を、とてもありがたく拝聴し「頑張ります!応援よろしくお願いします」と元気いっぱいに答えたわたしは、電話口で深く頭を下げていました。
 地道に作り上げる私たちの舞台が、このご年配の方に電話をかけさせる動機になった感動を生み出したんだと思うと、もう嬉しくて、それ以上言葉にならなかったのです。
 夫と二人三脚で若いメンバーを引っ張って来て9年目の快挙です。決して恵まれた条件下での活動ではありませんでした。でも、演じるものも観る者も含めて、ひとりでも感動が得られればと頑張ってきました。それを、またまた新たなやる気を起こさせていただいた電話の主に、「ありがとう!」です。
(神戸・1992・9・29掲載)

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制度の選考は「家族否定」に

2015年07月06日 01時42分11秒 | 文芸
制度の先行は「家族否定」に

 夫婦別姓が反対派、賛成派それぞれに不満を残しながらも法律で認められる日も間近く、家族制度の大幅な変化が予測される。
 戦後の民主主義の下、家族の在り方は、表向きはともかく、長年古びた形態を保ってきたのは確かである。それが一変するかもしれない制度改革は、市民の総意を集約した、熟慮の上に熟慮を重ねたものであってほしいと願うのが多数の意見であろう。
「論」にある通り、社会の圧力による制度改革に終わってしまっては、制度を受け入れる立場にある市民の反発を買うのは自明の理である。その結果、形だけの改革に終わるのは避けられない。
「どうせ女は……」といったたぐいの、女性を軽視する現代社会の意識が変革されれば、家族の民主主義は穏やかな変貌が可能になるのだ。
 制度改革だけを先行させて女性軽視の社会の構造と意識にくさびを打ち込むようなことをするなら、家族の否定や消滅につながる恐れが充分考えられる。家族を見据えた変革がなされるように願いたい。
(神戸・1994・9・6掲載)

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丸坊主にしてわかったこと

2015年07月06日 00時13分33秒 | 文芸
丸坊主にして分かったこと

 ある些細な理由で丸坊主になった。高校卒業で長髪に転じて以来、25,6年ぶりである。
「ほんまに坊主にしてええんか?」
 何度も念を押してから、バリカンで短く刈ってくれた散髪屋。
「どないしたんや?その頭……」
 思わず絶句した。異様なものを見た思いを隠さぬ知人。
「よう思い切ったことするなあ」
「外歩くの恥ずかしないか?」
「何か信心でもしはったん?」
 ……出会う人出会う人、いろいろ言ってくれる。それも好い意味じゃない方ばかり。
 そんな人たちの大半は、中学生は丸坊主が清潔でふさわしく似合っているとの意見の持ち主である。わたしは「ウーン」と頭をひねってしまう。
 最近は丸坊主から髪型自由に変更される学校が増えているとか。その流れはしごく当然と言っていい。非行が髪型によって増減するなんて考えは本末転倒だと思う。
 丸坊主にしてからの嫌な体験は、丸坊主を強制されている中学生の心情を理解させてくれるに至った。やっぱり丸坊主の強制を中学生に求めるべきではないと考える。なんにしても髪型は自由が一番だ。
(神戸・1991・9・12掲載)

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