「伝えたいことをわかる」
●伝えたいことをわかる
前回では、子供を「共感的にわかる」ことをめぐって、その構図や具体的な方策を紹介してみた。今回は、まったく別領域の別の形のわかり方である「知的にわかる」ことについて考えてみる。
コミュニケーションにとって、受け手のことを共感的にわかることも大事であるが、それと同じくらいに、伝えたいことを自分が知的にわかることも大事である。
「風邪がはやっています。うがいをするように」との注意を子供に伝えるにしても、風邪とは何か、なぜ、うがいをするといいのか、どのようにうがいをすればよいのかなどなど、関連する知識は広く深い。そうした知識を自分なりにわかっていてのコミュニケーションでないと、迫力のあるものにならない。
そこで、今回は、「伝えたいことをまず自分なりにわかる」にはどうしたら良いかを取り上げてみる。
● 知的にわかるとは
「パラノミンを取って」と頼まれてもパラノミン(無意味単語)を知らなければどうにもならない。「青い箱に入っているパラノミンを取って」と頼まれれば、今度は、「青い箱」が手がかりになってパラノミンを取ることができる。
このように、わかるためには、あらかじめ頭の中に情報を取り込む知識の網が必要となる。その網に引っかからない情報は、頭の中を通り抜けてしまう。「パラノミン」だけだと網を通り抜けてしまうが、「青い箱に入った」だと、それが網に引っかかり、かろうじて、「パラノミン」も頭の中に残る。かくして少しは、わかったとなる。
このように、わかるためには、わかりたいものに関連する知識の有無が深くかかわってくる。そしてその量と質とにわかる深さや質も決まってくる。わかるためには、たくさんのわかった知識が必要なのである。
● より深くわかるために
では、たくさんのわかった知識とはどんなものであれば良いのであろうか。
まずは、量である。関連する知識の量が多いことは、わかるためには必須である。
その上で、その知識の質が問われる。
表に示すように、ただ、知っているだけの知識が多いだけでは、良質のわかるにはならない。より高度の知識の網に取り込めることが大事である。そのためには、仕込んだ知識を絶えず、高度化するための努力が必要となる。
たとえば、風邪に関する知識を例にとれば、表のような知的努力が求められることになる。
●わかったつもりは危険
知識は生きものであるが、わかったつもりになってしまい、知的努力を怠ると、知識はたちまち陳腐化してくる。
図に示すように、知識は、増えれば増えるほど知らない知識領域が増えるというパラドックスを抱えているのである。パラドックスではあるが、これが知的好奇心を生み、知識欲につながる。このサイクルを絶えず機能するようにしておくことが求められる。
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絵
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● もうひとつの知識
ここまで述べた知識は、知識の分類でいうなら、宣言的知識と呼ばれているものである。知識には、もうひとつ、手続き的知識というのがある。このタイプの知識は、「わかる」というより「できる」ことが大事となる。
手続き的知識は、何かができるときに、そのできることを支えている知識である。歩く、自転車に乗る、文字を書くなどなど技能として何不自由なくできるとき、それは、過去の膨大な反復練習によって培われた知識が暗黙裡に働いているのである。
これは身体技能だけでなく、頭の働きでも、たとえば、暗算や直感的判断のように、手続き的知識に支えられたものもある。
養護教諭の知識には、宣言的知識に加えて、手続き的知識が求められることがかなりある。緊急措置が典型である。問題は、そういうケースはそれほど頻繁には起こらないため、知識が記憶の底に沈んでしまい、身体が動かない(手続き的知識が働かない)ようなことが発生してしまうことである。
適度の間隔をおいての再訓練をするのが一番であるが、それが無理なら、主要な手順を文書化(マニュアル化)しておくことである。
● 受け手にわかってもらう
最後に、ここで述べた自分がわかるための方策は、コミュニケーションにおいて、受け手にわかってもらうための方策でもあることに留意されたい。本連載の後半では、伝達メディアごとに、より具体的に、わかりやすいコミュニケーション技法を考えてみる。
●伝えたいことをわかる
前回では、子供を「共感的にわかる」ことをめぐって、その構図や具体的な方策を紹介してみた。今回は、まったく別領域の別の形のわかり方である「知的にわかる」ことについて考えてみる。
コミュニケーションにとって、受け手のことを共感的にわかることも大事であるが、それと同じくらいに、伝えたいことを自分が知的にわかることも大事である。
「風邪がはやっています。うがいをするように」との注意を子供に伝えるにしても、風邪とは何か、なぜ、うがいをするといいのか、どのようにうがいをすればよいのかなどなど、関連する知識は広く深い。そうした知識を自分なりにわかっていてのコミュニケーションでないと、迫力のあるものにならない。
そこで、今回は、「伝えたいことをまず自分なりにわかる」にはどうしたら良いかを取り上げてみる。
● 知的にわかるとは
「パラノミンを取って」と頼まれてもパラノミン(無意味単語)を知らなければどうにもならない。「青い箱に入っているパラノミンを取って」と頼まれれば、今度は、「青い箱」が手がかりになってパラノミンを取ることができる。
このように、わかるためには、あらかじめ頭の中に情報を取り込む知識の網が必要となる。その網に引っかからない情報は、頭の中を通り抜けてしまう。「パラノミン」だけだと網を通り抜けてしまうが、「青い箱に入った」だと、それが網に引っかかり、かろうじて、「パラノミン」も頭の中に残る。かくして少しは、わかったとなる。
このように、わかるためには、わかりたいものに関連する知識の有無が深くかかわってくる。そしてその量と質とにわかる深さや質も決まってくる。わかるためには、たくさんのわかった知識が必要なのである。
● より深くわかるために
では、たくさんのわかった知識とはどんなものであれば良いのであろうか。
まずは、量である。関連する知識の量が多いことは、わかるためには必須である。
その上で、その知識の質が問われる。
表に示すように、ただ、知っているだけの知識が多いだけでは、良質のわかるにはならない。より高度の知識の網に取り込めることが大事である。そのためには、仕込んだ知識を絶えず、高度化するための努力が必要となる。
たとえば、風邪に関する知識を例にとれば、表のような知的努力が求められることになる。
●わかったつもりは危険
知識は生きものであるが、わかったつもりになってしまい、知的努力を怠ると、知識はたちまち陳腐化してくる。
図に示すように、知識は、増えれば増えるほど知らない知識領域が増えるというパラドックスを抱えているのである。パラドックスではあるが、これが知的好奇心を生み、知識欲につながる。このサイクルを絶えず機能するようにしておくことが求められる。
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● もうひとつの知識
ここまで述べた知識は、知識の分類でいうなら、宣言的知識と呼ばれているものである。知識には、もうひとつ、手続き的知識というのがある。このタイプの知識は、「わかる」というより「できる」ことが大事となる。
手続き的知識は、何かができるときに、そのできることを支えている知識である。歩く、自転車に乗る、文字を書くなどなど技能として何不自由なくできるとき、それは、過去の膨大な反復練習によって培われた知識が暗黙裡に働いているのである。
これは身体技能だけでなく、頭の働きでも、たとえば、暗算や直感的判断のように、手続き的知識に支えられたものもある。
養護教諭の知識には、宣言的知識に加えて、手続き的知識が求められることがかなりある。緊急措置が典型である。問題は、そういうケースはそれほど頻繁には起こらないため、知識が記憶の底に沈んでしまい、身体が動かない(手続き的知識が働かない)ようなことが発生してしまうことである。
適度の間隔をおいての再訓練をするのが一番であるが、それが無理なら、主要な手順を文書化(マニュアル化)しておくことである。
● 受け手にわかってもらう
最後に、ここで述べた自分がわかるための方策は、コミュニケーションにおいて、受け手にわかってもらうための方策でもあることに留意されたい。本連載の後半では、伝達メディアごとに、より具体的に、わかりやすいコミュニケーション技法を考えてみる。