05/12/3海保博之
4章 コンピュータで仕事をする 6p
4.1 コンピュータとともに40年
●ドッグイヤで進歩するコンピュータとともに
紙テープにプログラムやデータを打ち込んで、それをコンピュータに読み込ませて因子分析の計算をしていたのが、大学院に入った1965年頃のことである。
それがすぐにIBMカードという当時とすればしゃれた入力媒体にとって変わり、実にたくさんのプログラムを作っては遊んでいた。なお、このカード、裏側メモに使ったりすると便利なので、まだ我が研究室にはかなりの枚数が残っている。
図1 IBMカード
それも束の間、すぐに、TSS(time sharing system)が導入されて、今のようなコンピュータ端末に直接打ち込んで大型コンピュータとやりとりしながら仕事をするようになった。
この間、わずかに、10年くらいである。コンピュータの進歩はドッグイヤ(犬の1年は人の7年に相当)と呼ばれるくらい急速であった。
●コンピュータにはまる
心理学の研究にとって、コンピュータは研究上の道具でしかないのだが、その道具をいじるほうが、はるかにおもしろい。すっかりはまってしまった時期がある。
なお、心理学の研究におけるコンピュータ利用には、実験装置として刺激の呈示と反応の計測に使う、データ解析に使う、さらに、例は少ないが、コンピュータでモデルを検証する(コンピュータ・シミュレーション)のに使う。
閑話休題。それまでの大型コンピュータ(メインフレームと最近では呼ぶ)とは、まったく設計思想が異なるマイクロコンピュータが普及するようになる。一方では、心理学の研究者としての仕事もしなければならない。いつまでもコンピュータにはまっているわけにはいかない事情が出てくることになる。年齢的は40代である。
コラム「コンピュータによるデータ解析とともに」*****
1985年に同僚の中田先生に依頼されて書いた記事である。重複するところもあるが、参考のために、一部を省略して掲載しておく。
体験的データ解析小史
懐古談をする年ではまだない。しかし、データ解析、コンピュータに関しては、すでに懐古談をしてもよい状況にはある。こ領域での新しい進歩に追いついて行けないという主観的感じを持つからである。
このことを痛切に実感したのは、61年3月に発売される「心理・教育データの解析法10講(応用偏)」(福村出版)の編集作業を通じてであった。そのなかの何講かは自分が一度は使ってみたいと常に思っていた手法であったので、原稿をいただくのを心待ちにしていた。しかし原稿を読んでみると、どうしてもわからない。著者との何度かのやりとりのうちに、結局は自分の方が″頭が悪い″ことに気づいた次第である。
「データ解析の手法についての知識は大学院時代のままでストップする」と言われている。専門家は別として、おもしろい手法があったら使ってみよう程度の研究者の場合には、確かに、この通りだと思う。
閑話休題。データ解析に触れたのは、今も昔も心理学専攻の学生の誰でもがそうであるように、心理統計の授業であった。昭和38年、東教大で故岩原先生のしごきにきたえられた。その時に使った教科書「心理と教育のための推計学」(日本文化科学社)がボロボロになってまだ本棚にある。いまの多くの学生諸君と同じように、統計が科学的推論の唯一の道具であるかの如く錯覚し、ともかくよく勉強した。
大学院修士課程に入ってすぐ、因子分析の勉強をしたのを覚えている。手回し計算機を脇に置いてサーストンの重因子法を解いた。同時に応用数学科が管理していたHIPAC(HITACか?忘れた)というコンピュータのところにかよい、なんとか因子分析のプログラムを作ろうと大変な苦労をした。
なぜ苦労したか。いい教科書がない、相談できる人がいない、数学的知識がない、の「ない、ない」づくしだったからである。こうした状況を救ってくれたのが、42年度に開講された故水野先生(統数研)の「多変量解析」の講義であった。まさに、頭にしみ込む講義であった。そのまま本として出版されても通用する内容であった。先生にもそのお気持ちがおありであったようだが、確かその年の秋頃かと思うが、芝先生の「相関分析法」(東大出版)が出版されてしまい、「遅かりし」ということになった。
43年4月から徳島大学に赴任した。紙テープ入力のTOSBACを使いまくった。その残骸をつい最近思い切ってすてた。もっぱら、水野先生のノートと芝先生の本に頼って、多変量解析の手法をパターン認識の実験データの解析に使った。
49年頃かと思うが、水野先生を通して、SPSSの移植のための科研のグループに入れていただいた。時々京大での講習会、研究会などに参加したが、まだそのすごさは実感できなかった。
50年に筑波に移った。TSSに驚かされ、パッケージプログラムに衝撃を受けた。SPSSにのめり込むまで時間はかからなかった。知ったかぶりで、全学の先生方対象の講習会の講師までするほどの熱の入れようだった。それに比例して、フォートランを使ってプログラムを書くことをほとんどしなくなってしまった。ここから力の衰えが始まった気がする。結果の解釈、そしてそれのみをわかり易く説明することがまわりから期待されるようになてきた。それに合わせているうちに確実に力が落ちてきた。
いまやSPSS、SASのいずれにも、ほとんどふれることのない日々を送っている。こんな人間が、データ解析の本を編み、そして61年度はなんと、8年ぶりのデータ解析の授業をする。さていかなることになるか。不安ながらも楽しみにしている(1981年1月29日Z)
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●何が何やらわけがわからない
メインフレームのメンタルモデルが頭に染みついてしまったため転移が効かなくなってしまったのと、新しく登場したマイコンの進歩はバタフライイヤと呼ぶにふさわしいほどに猛烈に速いためキャッチアップしていけなくなったこともあって、操作の仕方も含めてすっかりコンピュータのことが理解できなくなってきた。50歳代はじめの頃である。
それでも、コンピュータなしの仕事は考えらないので、する仕事を限定してなんとか「コンピュータ落ちこぼれ」にならないようにがんばってはいるが、60歳代に突入した今、もはや大学院生の助けなしには、思い通りの仕事ができなくなってきている。
4.2 インタフェースの世界に足を踏み入れる
●認知工学とは
それでも、無謀にも、コンピュータのインタフェース設計にわかりやすさを作り込む研究に偶然のきっかけから取り組むことになった。認知工学という新しい分野に挑戦してみることになったのである。
インタフェース設計上の認知工学的な課題の一つは、ユーザの認知機能の特性に配慮した画面をいかに作るかである。プアーユーザとしての自分の体験と認知心理学の知見とを総動員して、「こうすればユーザにとってわかりやすいインタフェースになる」という提言を作り上げては本や論文で訴えてみた。
設計技術者は、システム設計のほうにしか目がいかない。それを使うユーザのことは後回し、という風潮が強い中で、それなりのインパクトを与えることができたと思っている。
●インタフェースにおけるわかりやすさとは
ここでやや立ち入った話しになるが、ユーザにとってのわかりやすさとは何かについてどのように考えるかを簡単に紹介しておく。
わかりやすさは、情報を処理する場面で、次の3つの要件のすべてかいずれかを満たすことである。
一つは、既有知識があること。たとえば、コンピュータの画面の右下に、ゴミ箱のアイコンがある。不要なファイルはそこに捨てることができる。この一連の操作は、非常にわかりやすい。なぜなら、「不要なものはゴミ箱に捨てる」という既有知識が使える(転移できる)からである。
2つは、情報の処理コストが低いことである。既有知識があることと密接に関連するが、たとえば、「カネオクレタノム」と表示されるのと、「金をくれた飲む」と表示するのとでは、明らかに処理コストは違う。(ちなみに、「金をくれ頼む」あるいは「金送れ頼む」と表示してもよい。)
3つは、文脈による制約である。情報処理をおこなう文脈の中に、するべきことが作り込まれていることである。たとえば、マウスには、その形態から、片手でにぎって人さし指か中指でクリックする動作を自然に誘うようになっている。
以上をまとめると、わかりやすさは次のような形で定式化できる。
わかりやすさ=f(既有知識 X 情報の処理コスト+文脈の制約)
ここで、「X」は、いずれかがゼロだと両方がわかりやすさに貢献しないことを意味している。たとえば、豊富な既有知識をもっていても、それを必要な時にタイミングよく思い出せなければ、無駄になる。また、「+」は、いずれかがゼロであっても、一方だけでもわかりやすさに貢献できることを意味している。
4.3 メールで仕事をする
●まずはメールを開ける
最近は、研究室に入るとまずすることが、メールを開けることである。
これが習慣のようになったのは、それほど古いことではない。これも20年前くらいだと思うが、研究者仲間で非常に使い勝手の悪い、junetという電子メールが使われ出したことがある。「海保さん、メールを入れたから読んでくれる」という電話がかかってきて当惑したのを覚えている。
それからインターネットの普及で、電子メールはもはや研究者のインフラよりも大学生活のインフラとして使われるようになった。
たとえば、1学期の授業で、「中高生のための認知心理学基本用語集」を受講生に作らせる課題を課した。割り当てられた用語の解説をメールで送ってもらい、それをホームページ上で公開するのである。
受講生80名。全員がこの課題をなんなくこなした。一人として、私はメールができません、と言ってこなかったのである。
電車にのっても、半数くらいは携帯メールをしている時代である。これくらいのことで驚くほうがおかしい。
さて、自分のメールとのつき合い方の続き。
研究室では、画面に向かって仕事をすることが多い、というよりほとんどの時間がそうである。スムーズに仕事が出来ているときは、何も問題はないのだが、ちょっとつまったり、考えたりしたい時がある。あるいは、学生が来室して仕事が中断されたりすることもある。そんな時、つい、メールを開けてしまうのである。そして、一時、メール処理に熱中してしまうのである。
こうなると、本業ほったらかしになってしまう。こういう日々が今、続いている。それほどまずい状況だとは思わないが仕事に集中できない自分に嫌気がさしてしまうこともある。
しかし、電話での強制的な中断よりははるかにましではある。メールのおかげで、電話が極端に減ったのは本当に助かる。電話に限らないが、デスクワーカーにとって外部からの強制的な中断は、仕事の大敵である。いつでも居眠りができる静謐さが必要なのだ。
●メールリテラシー
ここでメールのしきたり(literacy)について少し考えてみる。これには、基本的に2つの見方があると思っている。
一つは、「郵便モデル」。メールをかつてのはがきや封書による郵便でのリテラシーをモデルに考えるものである。
拝啓、謹啓、前略などの挨拶言葉にはじまり、敬具、敬白、早々などの終わりの挨拶言葉で締めくくるものである。今ではほとんど見られなくなったが、かつてはメールでも結構あったし、自分でも先輩、恩師にはこうしたメールを送ったこともある。
形式はともかくとしても、今でも、いわゆる堅苦しいメールをもらうこともあるが、それらはだいたいが郵便モデルに従ったものである。しかたなく、こちらも堅苦しいメールで返事をすることになる。
もう一つは、「対話モデル」。メールによるやりとりを、あたかも相手が目の前にいて話しているかのようにするのである。
対話であるから、文字で書くものの、全体の基調は話し言葉である。郵便モデル保持者からすると、とてもではないが、我慢ができないような無礼なしろものとなる。
現在は、携帯メールが普及して、対話モデルによるメールリテラシーが圧倒的に優勢である。そのリテラシー、どんな特徴があるのだろうか。
●ボーダレス性
メールなら、たとえば、アメリカの大統領にも雲の上のような存在の人にも、アドレスさえわかれば、気楽にメールできてしまうようなところがある。
あるいは、海外の研究者にも論文の不明なところを気楽に尋ねることもできるし、その逆もある。
さらに、夜中の寝室にも居間にも、時間に関係なくメールが打たれてくる。
メールは、年令、国境、公私、場所、時間などありとあらゆるところに伝統的にあったボーダー(仕切り)をあっさりと乗り越えて、コミュニケーションさせてくれる。
●瞬時性と応答性
アメリカ在住の日本人研究者と仕事上の打ち合わせを何度かしたことがある。また、アメリカ在住の卒業生から大学院に入るので推薦状を書いてくださいと頼まれたことがある。
いずれもメールである。びっくりするのは、ほとんど瞬時に相手に届き、瞬時に返事が返ってくることである。このスピードは人間わざ?とは思えない。
こうしたコミュニケーション環境になれるてしまうと、返事がほしいメールが1日たっても無応答だと、いらついてくる。2日も返事がないと、あれこれと心配したり、よからぬことを考えたりしてしまう。
筆者の場合は、朝昼晩の3回に限定しているが、それでも気になるメールを待っているような時は、この禁を破ってしまうことが多い。ひどい時には、メール対応の合間に仕事をしているような錯覚に陥ることもある。
こんな状況になってしまうことを恐れて、我が家には、まだインターネット回線は引いていない。実に心穏やかに、落ち着いて仕事ができる。
●ビジュアル性
対話モデルでメールを送る人にとって、文字は邪魔である。もっと気楽にメールをしたい、もっと親密さをメールに出したい、と思う。
そこで、工夫されたのが、絵文字である。
筆者は使ったことはないが、もらったことはある。若者の間では必須の仕掛けらしい。携帯のデータとしてもすでに入っているらしい。
ビジュアル化はこれ以外にもある。
文章が極端に短くなり、字詰め(1行の文字数)の一目でみることができる、20文字程度の文字数になっている。
こうした文字環境の変化への不安もあるのか、「文字・活字文化振興法案」(6章参照)なるものまで作られるようになった。最近の若者は、モードチェンジが巧みにできる能力に長けているので、メールはメール、文章書きは文章書きというようにモードにふさわしい表現ができるようになるのではないかと楽観している。
コラム「絵文字を覗いてみる」**********
携帯メールやブログで使われている絵文字の例である。びっくりするくらい創造的だと思う。絵文字(icon)には、言葉の字義通りの理解を和らげる働きや親密さを高める働きがある。しかし、文字コミュニケーションに慣れた旧世代には、戸惑いがある。
なお、この類の絵文字は、特に、emoticonと呼ばれているらしい。Emotion(情動)とiconの合成語であろう。
オリンピックって、もう終わったんでしたっけ?
期待に副えて金メダル(σ・∀・)σげっちゅーな人も、期待に副えず敗退な人も、これっぽっちも期待されてなかったのにメダル(σ・∀・)σげっちゅーな人も、みなさんお疲れ様でした。
北島の「気持ち゚+.(・∀・)゚+.゚イイ!ちょー気持ち゚+.(・∀・)゚+.゚イイ!」ってのが、嫌でしたが。
だって、わざとらしいんだもの。
コメント、言い方、表情…何回見てもゲンナリ。
キャラ作りすぎなんじゃボケェ!( ゚д゚)、ペッ
http://bomb.prof.shinobi.jp/Latest?1より
○以下は、女子大生に、作ってもらったメール例
こんにちは(^^)☆毎週、先生の講義を楽しみにしてます(*^^*)もう二学期も終わりで、講義も終わってしまうのが寂しいです……(><)
二学期も終わり、ということで、もうすぐテストですね(・・;)認知心理は理系っぽい内容で難しいので、テストはちょっと不安です(>-<;)。あんまり難しくないテス
トだと良いのになぁと思ったりしてます(^^;)頑張って勉強するので、あんまり難しくないテストで、お願いしますね(>人<)ではでは、失礼しました(・ω・)ノシ
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●保存・検索性
最後に、メールの利点をもう一つ。
メールは意識せずとも、保存できて、必要に応じて引き出せるようになったことは助かる。
郵便だとまず住所録への転記、郵便そのものの保存——形式が異なるので実に保存がしにくいーーーが必要となるが、メールなら、ほっておいても保存ができ、必要な時に一発で検索ができる。
メールを使って以来、まったく削除していないという人も知っている。筆者の場合は、受信メールは、2か月間保存、送信メールは、用件のある人なので、原則、削除しない、という方針でやっている。