05/11/6海保

9章 テニスをするーーー運動技能の形成
9.1 テニス歴40年
●職住近接がテニスをする余裕を
25歳で徳島大学に助手として就職した。学生時代の千葉から茗荷谷までの片道2時間の遠距離通学から一転して職住近接となった。たっぷりと時間が出来た。その余裕時間の中の一部に入ってきたのが、テニスであった。運動場の隅にある二面のテニスコートで先生仲間と週に3,4回は、テニスをするようになったのである。
学生時代には、通学とアルバイトに時間をとられてしまい、運動も部活もまったくできなかった。そのうっぷんをはらすかのように、テニスに熱中した。
●楽しむだけのテニス
ほとんど正式の訓練は受けていなかったので、ルールもしっかりとは知らなかったほどである。余談だが、テニスは独特のカウントシステムをとる。0、15、30、40となる。今でも不思議に思っている。スポーツ文化に限らず、文化には外部からみると、奇妙なしきたリが多い。それを奇妙と感じなくなったら、その文化に同化できたことになる。
そんな状態でいきなりぶっつけで試合を楽しむのである。最初は、したがって、迷惑参加であったが、ずうずうしく頻繁にコートに出かけた。次第に、上達してきて、それなりのゲームが楽しめるようになってきた。
ほとんどが研究室で一人で机にかじりついていることの多い生活の中で、身体を動かす楽しさと健康向上と共に、こうした場で普段はあまり話しをしたことのない先生仲間と一緒になれるのは実に楽しかったし新しい人間関係を作る上でも貴重であった。
9。2 練習嫌い
●上達しない
そのテニス。大学も筑波大学にかわり還暦を過ぎた今でも、昼休み会議などという無粋なことがあったりで、回数こそ週に2回程度にまで減ってしまったが、いまだに続いている。余談だが、そのテニス仲間、ここ20年くらいいつも同じ仲間ばかり。若い人がまったくといってよいくらいに入ってこないのが不思議である。
されはさておき、それほど好きなテニスでありながら、あるレベル以上に上達しないのである。理由ははっきりしている。練習しないからである。
そもそも、テニスをはじめた頃から、練習抜きですぐに試合である。以後、まったくといってよいほど練習なるものをしたことがないのである。上達はもっぱら試合をしながらである。したがって、上達レベルも推して知るべしである。そんな仲間がいるからいけないのかもしれない。
●うまい人ほど練習する
現在もっぱら使っている4面のコートのうち、隣のコートは、我々とはレベルの違う4人が使っている。その4人は、ゲームをするまでに、ストロークからはじまって、ボレー、スマッシュまで実に丁寧な練習をしてからやおらゲームをする。その頃には、我々はゲームも佳境に入っているのが常である。
下手なのだからもっと練習して上達すればよいのだが、その地道な努力が嫌いなのである。
9.3なぜ練習が嫌いなのか
●練習すれば上達する
運動技能に限らず認知技能も、上達には練習は不可欠である。練習の増加関数として、技能は向上するからである。一時的な進歩の停滞(プラトー)こそあれ、「間違った」練習さえしなければ技能が低下することはない。
図 典型的な練習曲線
それがやりたくないのである。
とはいっても、夏休みなどに一念発起して練習合宿に参加してこともある。コーチがいて、スケジュールに従って、黙々と球を追ったこともなかったわけではない。
そんなところで、我流でやると、コーチのチェックが入って直される。長年やってきたスタイルがそこで崩される。素直に欠点を直せるものもあるが、長年のくせがついてしまっているので、なかなかコーチの言うようにはできないことのほうが多い。その自分のふがいなさが練習から遠ざける要因の一つにもなる。とりわけ、年を重ねるほど妙なプライドだけが強くなってしまい、学びにとってもっと大切な素直さ、謙虚さが欠けてくるので、ますます学びの効果が上がらない。
●競争のほうが楽しい
試合の勝ち負けを競うほうが楽しいということもある。競争は、何事によらず動機づけの有力な手段である。たとえ、何の報酬がなくとも、勝つことはうれしいし、負けるとくやしい。
また試合の中には、人間関係といった試合とはあまり関係のなさそうなものも含めてさまざまな要素が入り込んでいるので、それらと対処するのが楽しくーー時には面倒になることもあるがーー、また飽きがこないということもある。
コラム「競争と協調」******
テニスのダブルスには、相手との競争と共に、自分のパートナーとの協調も必要である。これが、ダブルスのおもしろさの一つである。
まれにすることもあるシングルだと、競争だけがあからさまになり、その重さが楽しみの枠を越えてしまう。かくして、シングルはほとんどしない。
しかし、これがプロテニスだと、逆に、シングルのほうが、見ていて楽しい。それぞれのプレーヤーが強烈な個性を発揮してプレーをするからである。それに加えて、人が競争の極地で苦しんだり喜んだりするところを見るのは、ドラマを見るようで実に楽しい。さらに、シャラポアのような美人が登場人物ともなれば言うことなしである。
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●練習そのものが嫌い
これらは、なぜ練習が嫌いなのかへの周辺的な答えである。次は、練習そのものが嫌いな理由である。
一つは、単調さ。
ゲームの持っている多彩さにくらべると、練習は単調である。ストローク、それもバックストロークだけを何度も何度も繰り返しやらなければならない。要素動作の繰り返しは練習には必須であるが退屈である。
余談になるが、テニススクールにでも入ってみようかと、見学にいった。なんと、スマッシュコース、ボレーコースというように、練習するレパートリーが決まっていて、それだけを延々と練習しているのである。これは自分には向いていないとそこそこに退散してきたことがある。
2つは、強制感。
練習であるから、一定の目標へ到達することを目ざしての努力が必要である。一挙手一投足がその到達目標にふさわしいかがチェックされる。コーチでもいれば、なおさら、そのチェックは厳しいものになる。そこに、たかが遊びなのにというような不真面目な気持ちが少しでもあると、練習は強制されたものとの思いが強くなってしまう。
9.4 それでもうまくなりたい
●知は力なり
それでもうまくなりたいとの気持ちは結構強くある。しかし、気持ちだけではうまくはなれない。さて、どうするか。
まずは畳水練である。
畳水練とは、理屈だけ知ってもうまくなれないことを言うのだが、必ずしもそうとばかりは言えない。
理屈を知ることは、力になる。「筋力が弱くなってきたら少し重いくらいのラケットのほうがよい」という理屈を知り、ラケットを買い換えれば、それなりに強くなれる。知は力なりである。
筆者のような研究者・教員は、どうしても知識志向になりがちである。出来てもそれが知識として表現できない(説明できない)と気持ちが悪いということもある。
かくして、本棚にはテニス教本がずらりと並ぶことになる。
●見よう見まね
もう一つは、見よう見まねで上達すること(モデル学習)である。
才色兼備のシャラポワの活躍もあり、テニスのTV中継もここのところかなり充実している。畳水練と違って、最終的な到達目標だけしか目の当たりに見ることができないのだが、それがうまくなるのに役立つと思って、TV観戦は欠かさないようにしてきた。
言うまでもないが、一流選手のやって見せてくれることは、我々が真似をすることができるようなレベルよりはるかかなたにあるものである。それでも、そうしたハイレベルの技は、自分の技を反省する素材を時折、提供してくれることがある。
攻撃的なボレーのアプローチの仕方、ストロークの配球などなど、「そうか、あのようにすればよいのか」と自得することが多い。それは、コート上でただちに実行できることではないが、いずれどこかでその何分の一かのレベルでと思っている。
さらに、一流の技を見られることで得られるものがある。それは、洗練された「テニス文化」である。本当は、試合場に足を運んで体得するのが王道であるが、TV中継でもそれなりに雰囲気くらいは感じとることはできる。
テニスに限らないが、それぞれのスポーツには、いわく言い難い暗黙の世界がある。挨拶の仕方や勝ったときの仕草、さらには競技中のマナーなどなど、長年かけて培われてきたその競技の文化としか言いようのないものがある。そんなものの片鱗をTV中継は垣間見せてくれる。これは、「気品のある」テニスをするのに役立っている。
- ずるさで勝負
試合をしていると、確実に身に付くものが一つある。それは、勝つための戦術である。
相手がネットに寄ってきた時は、後方にロブを上げる。サーブ&ボレー作戦でくる相手には足下に球を落とすーーこれはかなり高等戦術。成功するのは一割にも満たないーー。2人の真ん中をねらって返球するなどなど。
戦術についての知識は豊富になる。そのうちのいくつかは、オーソドックスな戦術であるが、我流の戦術のほうが多い。それが成功した時の醍醐味こそ試合の魅力である。