寛容「寛容になれれば心穏やか」
●寛容になれる
この一連の連載をかいているうちに、自分の心が次第にかわってきたことに気がつかされました。
その一つが、何事にも寛容になれるようになってきたことです。
以前なら、お店の店員さんのちょっとした応対に腹を立ててしまうようなことがしばしばありましたが、最近では、「店員さんも大変なんだ」という相手への寛容な気持ちになれます。
こういう内容の原稿を書くことが気持ちの変化をもたらしたようです。
もしかして、この連載をお読みいただいている方々も、そんな気持ちになっていただけたらうれしい限りです。
●寛容度ゼロ運動
寛容をめぐるエピソード2つ。
かつて、そして今でもアメリカでゼロ・トレランス運動があります。トレランス(tolerance)は寛容の意味です。
学校現場での子どもたちの無秩序で勝手放題の行動に立ち向かうための学校側からの容赦のない反撃です。
そういえば、逆に、「寛容と忍耐の政治」なんてスローガンを標榜した政治家(第58代首相・池田勇人による)もいましたね。
教育現場での寛容度ゼロ、政治の世界での寛容度100%。なんだか奇妙な対比ですね。
それはさておくとして、寛容が、こういう現場であらためて取り上げられるところに、その大事さがうかがえます。
●寛容であることは気持ちがいい
寛容になるとどういうことが起きるのでしょうか。
周囲に対する共感性が高まります。
最近よく使われる「相手目線」、心理学で言う、「視点取得」です。相手の立場から事態をみつめることができます。結果として、相手を肯定的に受け入れることができます。
周囲に対する見方、振る舞いが変わります。周りが善意に満ちてみえます。
おおらかでゆったりした振る舞いをするようになります。
結果として、相手もまた同じような見方、振る舞いをしてきます。
場全体がポジティブ感情に満たされます。
こうした場として今ただちに頭に浮かぶのは、お祭り。
昔、徳島大学に赴任したその年。阿波踊りに参加した時に聞いたのですが、踊り期間中は、喧嘩などの類が極端に減るのだろそうです。
お祭りという場が、人々を寛容にするのだろうと思います。
●寛容になるために
まずは、許しの心が必要ですね。
何か気に入らないことがあっても、それにまともに立ち向かう気持ちがあっては、寛容とは逆の方向にいくことになります。
許しの心というと大げさになりますが、あるがままに人と場のすべてを受け入れる、といったような気持ちです。
『自分自身の健康と幸福のために、 少なくとも敵を赦し、忘れてしまおう』 (カーネギー)。
「自分自身の健康と幸福のために」がいいですね。
さらに、忍耐も必要です。
不快や不条理に耐えられないと、寛容にはなれません。
ややしんどい心の作業になりますが、これも、習慣にしてしまえば、なんとかなります。
育児や介護の経験が、寛容と忍耐を身につける格好の現場ではないかと思います。
実は、自分もここ25年くらいの介護の経験をしていますが、それが驚くほど自分を変えました。寛容と忍耐が確実に身に付きました。
そうした中で心の習慣となっているのは、即応しないようにすることがあります。
気に入らないとき、不快なときに、一拍おく心がけです。
攻撃、不快といった感情は、その発生源に対してすぐに対応するように心はできています。そうしないと、生き残れないからです。
しかし、今私たちの生活している場にそうした厳しさもはやそれほどはありません。だから、その感度を低めるのです。「どうということない」くらいの感じですね。
いずれにしても、寛容の心を身につけるのは、他のポジティブな特性を身につけるよりは、はるかにきついと思います。たぶん、ポジティブな特性の集積として自然に出てくるように思います。年輪を重ねないと無理かもしれません。
●寛容であることのマイナス面
ゼロ・トレランス運動に見られるように、寛容は、周囲の「悪」を野放しにしてしまうところがあります。ですから、何事に対しても寛容というわけにはいきません。ここ一番は、というところでは、ゼロ・トレランスが必要です。
余談になりますが、今の大学に移った1年目、教室での学生の私語の悩まされました。毎時間、怒声をあげるような状態が続きました。3年目になり、がらっと自分の考え方をあらためて、まさに、寛容と忍耐で望むようにしました。
相変わらず私語は続き、教室はあまり好ましい学習環境ではありませんが、しかし、こちらのほうの気持ちは実に穏やかで余裕のあるものなりました。まさに、寛容、ひとのためならず、です。それでもちよっぴり、彼らも寛容と忍耐を発揮してくれることを期待しているところです。