●平田という地名について考える
以前、平田屋台についてあれこれ調べた記事を載せたところ、全国約一億数千万人中何名かが見てくださるという好評を賜りました。今回は、平田という地名について偶然気づいたことがあったので、それを記事にしていきます。
↑屋台蔵完成式の日 2015年
●江戸時代の大宮八幡宮氏子域ざっくり解説
平田という地名を考えるために、大宮八幡宮の氏子域をざっくり見ていきましょう。
江戸時代の美嚢郡三木町は岩壺神社の氏子域ともいえる上五町とその地方(じかた)、大宮八幡宮氏子域ともいえる下五町とその地方(じかた)、前田、高木などに分かれていました。
上、下五町は、美嚢側の東南である岩壺神社、大宮八幡宮がある町屋の集中区域、地方(じかた)は、岩壺、大宮八幡両神社から美嚢川の対岸にある田園域にあたります。前田は宮側に飛び地であったので、宮の前の田という意味でしょうか。高木村は大宮八幡宮の御旅所所在地です。
地方は加佐、平田、大村で、平田、大村が大宮八幡宮の対岸域で能をみるための桟敷席があるなど下五町側の地方で、加佐は岩壺神社の対岸域にあることから上五町の地方と言えるでしょう。そして、地方三村は、現在でも金剛寺では年交代で鬼追いを挙行しています。大宮八幡宮の神宮寺である月輪寺、金剛寺ともに法道仙人開基とつたわる真言宗寺院です。同じ系統の寺院が町側、地方側にあるとも言えそうです。
●金剛寺ご奉仕域としての平田と、「山」
現在は住宅地などに生まれ変わっていますが、平田は、まさしく「平」地に「田」んぼが広がっていた土地でした。
↑平田の屋台蔵と平田屋台 平坦な土地が広がっているのが分かります。
そして、平田は大宮八幡宮の地方(じかた)であり、金剛寺で鬼追いなどをご奉仕する地域であることは上で述べました。
↑金剛寺鬼追い(2019年 当番大村)
江戸時代の過去帳では滑原、跡部など、奉仕域でない地域はフルネームで記されていました。しかし、金剛寺の奉仕域である平田、大村、加佐は江戸時代の過去帳では、それぞれ村名や町名を全て記さずに「平、大、加」と一文字で表されていました。そして、もう一文字「山」の文字も記されていたのです。
ご住職のお話によると、これは現在の小野市の「山田」だそうです。平田という地名は、対となる山田があってこその地名だったようです。
編集後記
平田の名前について、金剛寺の過去帳の表記から考えました。しかし、この記事で分かったのは平田という村のほんの一部についてです。大宮八幡宮の祭の一日目、地元の大歳神社でどのような祭をしているのか、田んぼは、、、、新住民と旧住民は、、、、などなど管理人は同じ市内の祭りでありながら知らないことがほとんどであることに気づかされました。
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